2014年5月10日土曜日

小笠原貞慶の流転人生

九州小倉の小笠原藩は徳川の譜代大名として知られているが、その祖先の歴史はまさに戦国の流転そのものだった。(元信濃松本城主・小笠原貞慶が没す。天正18年5月10日享年50歳)  

小笠原貞慶は天文十五年(1546)、信濃守護で深志城(長野県松本市)主・小笠原長時の三男として生まれた。 同二十二年五月、父長時が武田信玄と桔梗原に戦って破れると、八歳だった貞慶は父とともに越後の上杉家へ逃れる。
その後京都へ流れて時の権力者・三好長慶を頼り、十三歳になった永禄元年(1558)十一月、元服して貞慶を名乗る。
長慶が没すと貞慶は三好三人衆と行動をともにするが、上洛してきた織田信長に敗れ、再び上杉謙信のもとへ逃れる。 その後天正三年(1575)の始め頃には信長に属したようで、今度は上杉家と戦うことになる。
同七年、貞慶は当時蘆名氏を頼って会津にいた父・長時のもとを訪れて家督を嗣ぐ。何としても故地回復を果たしたかった貞慶は、信長の下で越中や信濃の国人衆の説得を行い、一定の成果を上げた。
しかし同十年六月、信長が本能寺に倒れると、当時徳川家康のもとにいた貞慶は、家康からの要請を受けて上杉方として深志城を奪っていた叔父の貞種を攻め、三十年ぶりに同城の奪回に成功する。
家康麾下の一大名として故地回復の成った貞慶は深志を松本と改めた。  同十三年十一月、家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉の下へ出奔すると、子の秀政が数正の与力となっていた関係から貞慶も従って秀吉のもとへ赴き、今度は秀吉の家臣となる。
しかし家康と秀吉が和睦した同十五年三月には駿府に赴き、秀吉の直臣ながら家康に属すという複雑な立場になった。
同十八年の小田原征伐後には、家康の臣として下総古河三万石に封じられた秀政に従って同地に移り、この日没した。

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