明治新政府の発足した明治元年1月には、長州勢第1号の参与になり、さらに2月には参議として、西郷・大久保と肩を並べた人物で、当時は木戸孝允より上と評価されていたようだ。
ところが明治4年1月の深夜、自宅で刺客に襲われて死亡したため(39歳)、その後の活動がなく、日本史上でもあまり語られていない。
広沢真臣 |
禁門の変、下関戦争、第1次征長戦争とつづき、藩内の政権が恭順派となった時は投獄されたが、高杉らのクーデターで主戦派が実権をとりもどすと、彼も政務役として藩政に復帰した。
得意の外交手腕をいかして、第2次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸の厳島で長州有利の見事な交渉を行い、翌年には上京して、倒幕の密勅をうけて持ち帰っている。
勝と広沢の会談場所 |
また坂本竜馬や薩摩の五代才助らと会談して、「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸の同僚として活躍している。
戊辰戦争後の処理では、会津藩の宮島誠一郎と会談し、会津藩に寛容な「帰正」の建白書をつくらせている。
明治2年に復古功臣として、長州勢では広沢が新政府の参与や参議に一番早くなり、さらに大久保、木戸らとならんで、永世禄1800石を賜り、政府内で大きな役割をはたす筈であった。
この年には、参与の横井小楠が京都で暗殺され、大村益次郎がテロの傷がもとで大阪で死亡した。その後も岩倉が帰宅中に襲われ、お堀に飛び込んで難をのがれたが、大久保は出勤時に襲われ死亡した。明治政府もまだ混沌の時代であった。
最近読んだ半藤一利の「幕末史」では、広沢が暗殺されたのが、第2夫人の家だったので、西郷などの評価がさがったように書いている。
広沢の場合の犯人は、政敵の木戸説、反政府の雲井竜雄や河上彦齋説などあるが、真相は不明のままである。広沢の遺体は芝青松寺に埋葬されたが、明治17年に世田谷の松蔭神社に改葬された。
広沢夫婦の墓(山口市赤妻) |
地元での墓は、その西方の赤妻(湯田中学の近く)に建立されている。都落ちして山口で病死した七郷の一人錦小路瀬徳の墓もすぐ近くにある。
これらの近くの「かんぽの宿」に泊ったが、ここの観光案内図には、いずれも記載がなかった。
広沢真臣住居跡の碑 |