2015年6月27日土曜日

明治維新の志士:広沢真臣

明治維新十傑の一人、広沢真臣(さねおみ)は、明治維新で活躍した志士のなかで、今回の大河ドラマに登場しない人物のなかでは、最高の大物である。(幼名:柏村季之進、波多野金吾)
明治新政府の発足した明治元年1月には、長州勢第1号の参与になり、さらに2月には参議として、西郷・大久保と肩を並べた人物で、当時は木戸孝允より上と評価されていたようだ。
ところが明治4年1月の深夜、自宅で刺客に襲われて死亡したため(39歳)、その後の活動がなく、日本史上でもあまり語られていない。
広沢真臣
木戸より1年若いが、ともに明倫館に学び、さらに適塾でも学んで、若くして藩の軍政改革に参画して、江戸や京で久坂や木戸と行動を共にした。
禁門の変、下関戦争、第1次征長戦争とつづき、藩内の政権が恭順派となった時は投獄されたが、高杉らのクーデターで主戦派が実権をとりもどすと、彼も政務役として藩政に復帰した。
得意の外交手腕をいかして、第2次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸の厳島で長州有利の見事な交渉を行い、翌年には上京して、倒幕の密勅をうけて持ち帰っている。
勝と広沢の会談場所

また坂本竜馬や薩摩の五代才助らと会談して、「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸の同僚として活躍している。
戊辰戦争後の処理では、会津藩の宮島誠一郎と会談し、会津藩に寛容な「帰正」の建白書をつくらせている。
明治2年に復古功臣として、長州勢では広沢が新政府の参与や参議に一番早くなり、さらに大久保、木戸らとならんで、永世禄1800石を賜り、政府内で大きな役割をはたす筈であった。
この年には、参与の横井小楠が京都で暗殺され、大村益次郎がテロの傷がもとで大阪で死亡した。その後も岩倉が帰宅中に襲われ、お堀に飛び込んで難をのがれたが、大久保は出勤時に襲われ死亡した。明治政府もまだ混沌の時代であった。
最近読んだ半藤一利の「幕末史」では、広沢が暗殺されたのが、第2夫人の家だったので、西郷などの評価がさがったように書いている。
広沢の場合の犯人は、政敵の木戸説、反政府の雲井竜雄や河上彦齋説などあるが、真相は不明のままである。広沢の遺体は芝青松寺に埋葬されたが、明治17年に世田谷の松蔭神社に改葬された。
広沢夫婦の墓(山口市赤妻)
萩市に生まれ育った広沢も、藩庁が山口に移った当時から、山口市湯田障子岳の南山麓の山水園の裏手に居を構えていた。今は竹林の中にその旧居跡の記念碑がひっそりたっている。
地元での墓は、その西方の赤妻(湯田中学の近く)に建立されている。都落ちして山口で病死した七郷の一人錦小路瀬徳の墓もすぐ近くにある。
これらの近くの「かんぽの宿」に泊ったが、ここの観光案内図には、いずれも記載がなかった。
広沢真臣住居跡の碑



2015年6月21日日曜日

箱崎八幡宮の海岸の埋め立て

神功皇后や応神天皇にゆかりのある箱崎八幡宮。
その参道の先端は博多湾に面し、はるか新羅国の方をめっざしている。
古くは元寇の襲来で有名で、亀山上皇の「敵国降伏」の書が、神社の楼門に掲げてある。
豊臣秀吉が,2回もこの海辺で茶会などを開いたことも有名だ。
江戸、明治初期までは情緒がたもたれていたが、大正、昭和と時代がすすむにつれて民間企業や市当局の埋め立てが行われ、今は浜辺に国道、高速道路が走り、昔の情緒は失われてしまった。
わたしの小学校入学前は抱洋閣の廃屋がカクレンボの遊び場所だったし、小学校3~4年の頃に国道3号線の埋立てがはじまった。海軍記念日には、海岸で盛大な花火大会が行われていた。
博多港の埋立て工事のはじまりは、大正初期で、博多湾築港(株)が資本金300万円で設立されたときであった。
この時の3万株(百円株)の株主は次の通り。
15000株 中村精七郎(現山九の創設者): 
 4000株 杉山茂丸(玄洋社): 
 1500株 中村定三郎(精七郎の兄)、佐藤平太郎:
残り8000株16名(各500株)
葦津、進藤、奥村、大野、太田、野村、谷、鶴田,深見、遠藤、
河内、吉見、深沢、下沢、古賀、大田
(博多学の歴史にのこる人物の名前がならんでいる。)
昔の画像や、地図、資料などをならべて、昔の情緒を思い出してみよう。
M43の地図
当時の埋立て計画地図
現在の箱崎海岸
大正初期の埋立て祈願式
埋立て祈願基石に「神護」・杉山茂丸の文字
大正初期杉山茂丸の埋立て申請書
大正初期の海岸線図






博多湾の古代・現在の海岸線(緑色は古代の海)

左下に箱崎八幡宮(中世の博多地図)




多々良川から石堂川までの埋め立て計画図「1期、2期」と埋め立て作業の進行図、および3号線の開通式当時の写真。
最初は中央2車線のみ舗装で、現状とは大きな差である。



2015年6月18日木曜日

維新の志士:大楽源太郎

大楽源太郎の墓
西山塾跡の碑
久坂玄瑞などと一緒に活躍した勤皇攘夷の志士でありながら、大楽源太郎の名はあまり知られていない。
この前、郷里の防府市を訪れたときも、大楽寺には行ったが、その存在を示すものはなく、死に追いやられた久留米の遍照院の墓(高山彦九郎の墓と並ぶ)の記事で、はじめてその名前と生涯を知った。
禁門の変などでは久坂と行動を共にし、郷里の大道西山で、西山塾を開いて後輩の教育を行いながら、明治維新まで生き延びた。
しかしその教え子が大村益次郎を暗殺したのでその指導者と推察され、久留米で一部の過激派におそわれた生涯は悲劇的である。
郷里の大道にある墓は、小山の奥にあり、小道も荒れ果ててお参りする人も殆どないようだ。
http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko5.html#ni
最近大道駅の近くに西山塾の顕彰碑が作られたそうで、せめてもの慰めである。
久留米の遍照院には、遭難した大楽グループ「耿介四士之墓」が、高山彦九郎の墓と並んでいるそうだ。
http://kurumenmon.com/teramati/henjyouin/dairakugentarou/dairagugentaroujiken.htm
耿介四士之墓

2015年6月17日水曜日

6・19福岡大空襲の記憶

昭和20年6月19日夜から20日の朝方まで、福岡の空は赤々と火炎につつまれた。
当時九州帝国大学の学生で、当日は防火班の当番だったわたしは、大学にかけつけた。
工学部の学生で、10名くらい集まっていた。当番教授も一人おられて、この人数では、消火活動などできないから、どこから焼け始めたかの記録でもしてくれという指示をされ、高射砲の破片などが危険だから、防空壕にはいるようにいわれた。
高射砲攻撃もおさまったあと、工学部の屋上にのぼり、遥か博多の町の空の真っ赤な火炎の波をながめた。
暴君ネロが街をやいて喜んだという話を何故か思い出した。
このときの空の印象は、上図の平山郁夫画伯の原爆の図にそっくりであった。
大学の北側の箱崎でも一箇所火炎があがっていて、あとで大林・竹中組の大きな倉庫が消失したと知った。
わたしの家もその近くで、数発の焼夷弾が庭に落ちたが、小さな倉庫が焼けただけですんだ。


これら東区の被害は、戦災地域図には記載されていない。このような部分的被害は、ほかにもいくつかあったようだ。
20日の早朝から、被災の中心部から東部の郊外に3号線を避難してゆく被災者の行列が、たえまなく続いた。学生有志で、その行列の荷物運びの一部を支援活動をした。
すでに東京や大阪などの大都市での惨状を耳にしていたので、ついに福岡までその時がやってきたかと、日本の敗戦を実感した日であった。
中州周辺の焼けあと

2015年6月16日火曜日

フランス帰りの長州砲

 1853年ペリー来航に動揺した幕府は、諸藩に海岸警備を命じる。
長州藩には相州三浦半島の防備が命じられ、藩では幕府の許可を得て、江戸の葛飾別邸で鋳造所をつくり、萩から鋳物師の郡司右平次をよび、佐久間象山の指導をうけながら、砲身3mの18ポンド砲38門を鋳造した。
砲身には毛利家の家紋や製造場所、1854(安政)の年号などが鋳込まれており、その後の変遷が明確にわかる。
三浦半島の防備は4年半で解かれたが、攘夷論の強い長州藩はこの大砲を下関へ運んで、1863年から関門海峡を通過する外国船の砲撃に使用した。
関門海峡には、それ以前に鋳造したものや、外国から輸入したものなど、あわせて70門(109門説もある)が設置されていた。
しかし1884年8月、長州藩は英・仏・蘭・米4ヶ国連合艦隊17隻の襲来で大敗し、長州の攘夷戦は終結した。
この時下関海岸に装備されていた長州砲は、すべて戦利品として外国に運びさられた。
この大敗を、明治以後の日本政府は公にせず、第2次大戦の敗戦後にやっと広く知られるようになった。
下関に上陸した外国兵
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏(下関出身)が、フランス・パリのアンヴィリッド博物館で展示されている約600門の大砲の中から、この長州砲を三門発見した。ニ門は江戸の葛飾別邸で鋳造されたもので、一門は1843年(天保)に鋳造されたものであった。
アンヴィリッド博物館の大砲展示

彼はその後永い年月をかけて調査し、イギリス(ロンドン王立大砲博物館)、オランダ(アムステルダム国立博物館)やアメリカ(ワシントン海軍基地)でも保管されている長州砲を発見している。  オランダで保管の砲身は、毛利家紋の銀象嵌が鋳込まれている部分25cmだけを切断して残されていた。


以来この長州砲の返還運動が進められ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎(安倍晋三総理の父)などの努力で、フランスから1984年に貸与の形式で里帰りが実現した。
この機会に地元のロータリークラブなどの記念事業として、原寸大や2/3サイズの精密レプリカがつくられた。
現在、江戸葛飾別邸製造のものは、レプリカが江東区南砂緑公園に、そして1843(天保)年製造のものは、実物が下関市長府博物館に、レプリカは下関みもすそ川公園(壇ノ浦砲台)に展示されている。
江東区南砂緑公園のレプリカ砲


天保製の説明板

壇ノ浦砲台の天保製レプリカの展示
その他英国で保管のものも、一時帰国して、萩市で展示されたこともあったが、期間限定であった。

当時の長州砲の主力だったのは、加農砲(カノン砲)で、青銅製の砲筒と球形の弾丸の組み合わせであった。場所は前述のように、萩藩郡司家、長府藩安尾家、一部は江戸の葛飾控え屋敷などで鋳造された。

しかし外国艦隊の主砲は、すでに鉄製の大砲で、筒型の砲弾と組み合わせたものになり、飛距離も2倍以上で、命中率も向上していたので、交戦の結果は惨め敗戦となった。
筒状と球状の砲弾

2015年6月14日日曜日

明治初期私立大学の創設者

福沢諭吉
江戸時代は藩校が主体の教育制度であったが、幕末・明治の時代変動で、教育体制は大きく変化した。
明治政府による旧制大学の設立は、関係者が多数錯綜しているので省略する。
私立大学の設立は、慶応・早稲田が有名で、共に創設者は九州の藩の出身である。
これに次ぐ日大・法政も、山口・九州の藩の人物である。
その他、時代は少し下がるが、楫取素彦(長州)の子息楫取道明が台湾の芝山巌事件で殉死した事件で、柘植大學の設置にその子孫が関わっている。

1868年(M 1)   慶応義塾大学    福沢諭吉   中津藩

1882年(M15)  早稲田大学      大隈重信   肥前藩

1882年(M15)  日本大学       山田顕義   長州藩

1881年(M14)  法政大学   金丸・伊藤・薩唾   豊前藩

1881年(M14) 明治大学  宮城・岸本・矢代 島原・鳥取・江戸

1885年(M18) 中央大学 増島・菊池・穂積 滋賀・岩手・宇和島

1890年(M23)  国学院大学         皇典講究所(財団)

1875年(M8)   同志社大学     新島襄     上州安中藩

1901年(M34) 拓殖大学 新渡戸稲造・(楫取道明)  岩手・山口
大隈重信
 


山田顕義
楫取道明の碑文

2015年6月12日金曜日

山口市中心部の史跡や観光地

山口市中心部の地図


今回山口市中心部の史跡でおとずれた場所をこの地図で示すと、つぎの順序になる。
1)旧山口藩庁門
2)洞春寺
3)瑠璃光五重塔
4)錦の御旗製作所跡
5)野田神社・豊栄神社
6)龍福寺
7)十朋亭
8)ザビエル記念聖堂
9)山田顕義宅跡(地図に無し)

これらのうち主な写真を添付しておく。












1)藩門の説明板
1)山口藩庁門




3)瑠璃光五重塔

4)錦の御旗製造所跡
5)野田神社・豊栄神













6)境内の大内義隆像

6)龍福寺 


7)十朋亭
8)ザビエル記念堂



























2015年6月9日火曜日

楫取素彦夫妻の銅像@防府天満宮

今年3月に防府天満宮に楫取素彦と美和子夫妻の銅像が設置されたことは、先月このブログに書いた。
今月現地を訪問して、はじめて此処に銅像が設置された理由がはじめて解かった。
明治26年には東京から防府へ夫婦で移り住んでいた楫取元彦は、明治30年に宮中顧問官で、明治天皇第十皇女、貞宮の養育主任を命じられて、夫婦で再び東京にもどり、その勤めをおこなった。
しかし不幸にも貞宮は明治32年に夭折されて、素彦はその葬祭の喪主をつとめ、貞宮の遺品を松崎神社(防府天満宮境内)に奉納した。そして生活の場をまた防府にもどした。これが現在の貞宮遥拝所である。
今回の夫婦の銅像はこの貞宮遥拝所の前にたてられ、貞宮を遥拝しているような方向を向いている。

二人の墓は、天満宮の南方の桑山公園にある大楽寺の北墓所にある。

楫取素彦の墓
楫取美和子は楫取家の墓に眠っている




井上馨の遺跡@山口

井上馨は山口の湯田温泉駅ちかくで生まれた。この生誕地は現在、井上公園となって整備されている。内部には彼の銅像とならんで、彼の遭難時に外科手術で救った所郁太郎の顕彰碑がある。
井上馨の銅像


所 郁太郎の顕彰碑











また公園内に、彼の屋敷の「何遠亭」が最近復元されたが、ここには三条ら七郷落ちのメンバーが滞在したという。
何遠亭
何遠亭の説明板












その七郷の大きな顕彰碑も公園の一隅に建っている。
七郷の顕彰碑
井上公園の1Kmくらい東側の中園町に円竜寺があり、ここに井上を襲った刺客が待機していた。その近くには「世外井上馨公遭難之地の石碑」がたっている。
草難の地の石碑
遭難時の説明板