2015年8月22日土曜日

明治時代の榎本武楊と電信機

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日天保7年8月25日) - 1908年明治41年)10月26日

著名人なので経歴は概要のみ記載し、私の専門である電気科学者の部分の電信機との関係を後半に紹介する。
通称は釜次郎、は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。

伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。
帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。
箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。
開拓使北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣文部大臣外務大臣農商務大臣などを歴任、子爵となった。

また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会電気学会など数多くの団体を創設した。
晩年の榎本
  • 1885年12月22日、内閣制度が発足。第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任する。1888年(明治21年)4月30日に黒田内閣が誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣を井上馨が後任となる7月25日まで臨時兼任した。同年、電気学会を設立、初代会長となる。
  • オランダ留学中に電信術を学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、沖牙太郎(沖電気創設者)が古道具屋で購入した。
  • 榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。この電信機は現在、郵政博物館に収蔵されている。(写真左下)
  • 電気学会100周年記念式典のとき、出席していた私は、このことが皇太子と妃殿下の前で披露されて、両陛下が拍手をされていたのを思い出す。


江戸時代には、佐久間象山が試作した電信機があったといわれるが、本格的にはペリーが2度目の来航のとき持ち込んだ電信機を、江戸城内で実演してみせたのがはじめである。
その後幕府の海軍伝習所で操作の研修が行われ、薩摩の中原猶介、肥前の石丸安世、中村奇助、久留米の田中久重らが参加した。
1年後には中原、田中の手により試作品が完成し、薩摩城の本丸とニの丸の間で通信実験に成功した。これに参加した寺島宗則は、のちに明治元年に電信建設の建議を政府におこしている。
(後の外務大臣・元老)
石丸安世は海外留学して、電信技術を学んで帰国し、明治政府の工務部に入り、最初の電信頭となって国内での電信網展開に尽力した。
田中はからくり儀衛門で有名で、田中工場が芝浦製作所を経て、東芝となった。
多久出身の志田林三郎は石丸などの指導をうけ、東大で学び電気学会創設時の事務長をつとめ、電気通信技術分野の理論家で初の工学博士となり、逓信省の創設など政治の分野でも活躍した。












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