幼少より祖父の康煕帝に愛され、25歳で皇太子密建法により即位し、祖父の在位期間をこえることをはばかり、60年間帝位にあったのちに退位して太上皇帝 (上皇) となるが、上皇時代も事実上の権力者となり、実質的な在位期間は中国歴代皇帝で最も長い。
治世の初期には軍機処を軸として皇帝権の伸長に努め、朋党、皇族の結党を禁じ、満州人と漢人の反目を防ぐなど内治に重点をおいた。
やがて、タイやラオスも朝貢するようになり、朝鮮・琉球も衛星国となった。
このように中国のほかに内外蒙古、新疆、台湾、チベットを領土としたので、中国領土は最大のものとなった。
彼は、辺境に10回出兵して全部戦勝したので、自分のことを「十全老人」と号した。
(「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征の詳細。
しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。
文化方面でも、多くの学者を集めて書物の編集にあたらせ「四庫全書」の編集は特に名高く、また、イエズス会宣教師によりヨーロッパの学問、技術が伝えられた。
(「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征の詳細。
ジュンガル(1755年第二次清・ジュンガル戦争(英語版)、1755年-1759年第三次清・ジュンガル戦争(ロシア語版))、四川の金川(1747年-1749年、1771年-1776年大小金川の戦い(中国語版))、グルカ(1788年-1789年、1791年-1792年清・ネパール戦争、戦闘はチベット、ネパールで行なわれた)に2回ずつ、回部及びバダフシャーン(1757年-1759年大小和卓の乱(中国語版))、台湾(林爽文事件(ロシア語版、中国語版))、緬甸(1765年-1769年清緬戦争)、越南(1789年ドンダーの戦い)に1回ずつ、計10回の遠征を十全武功と呼んだ。)
しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。
文化方面でも、多くの学者を集めて書物の編集にあたらせ「四庫全書」の編集は特に名高く、また、イエズス会宣教師によりヨーロッパの学問、技術が伝えられた。
これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。
しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。
乾隆帝が清代に莎車(現・新疆省)を陥落し、都へ連れ帰った美女香妃の話があり、乾隆帝が香妃に執心を燃やした理由は、その姿が美しいことに加え、体からなんともいえない芳香が放たれていたためだということになっているが、これは死後百年以上あとに漢民族により作られた話だ。
1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。
しかし、この多くの外征と各地への巡行、さらに天壇、紫金城、円明園などの新改築などのため財政は疲弊し、加えて旗人の生活苦、寵愛した和しんの専権などがあり、末期には各地に反乱が発生し、衰運のうちに嘉慶帝に譲位した。
乾隆帝が清代に莎車(現・新疆省)を陥落し、都へ連れ帰った美女香妃の話があり、乾隆帝が香妃に執心を燃やした理由は、その姿が美しいことに加え、体からなんともいえない芳香が放たれていたためだということになっているが、これは死後百年以上あとに漢民族により作られた話だ。
1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。