2016年2月24日水曜日

長谷健(芥川賞作家)


最近では殆ど話題にならないが、福岡県出身では火野葦平についで2番目の芥川賞受賞者である。

WIKIによると、福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。因みに、東宮永小学校は大関琴奨菊の母校でもある。
旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。私の小学校の恩師樋口狷一先生と同卿の友人だったので、揮毫をもらったのが上の写真の書である。。
柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。
1932(昭和7年)年浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
1939年(昭和14年)、浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞する。
1944年(昭和19年)に柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。
同人誌『九州文学』の同人として5年間を郷里で過ごした後、再び上京し火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ日本文芸家協会の要職につく。

児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた『からたちの花』(1955)、『邪宗門』(1957)などを発表した。
1957年(昭和32年)12月19日、東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭い、搬送先の国立東京第一病院で2日後の12月21日に死去。53歳。
葬儀委員長は火野葦平が務めた。

2016年2月20日土曜日

外郎(ういろう)の起源


 
元が滅ぼされた当時の中国から、博多に亡命した陳宗敬の子、宗奇が足利義満の招請で上洛して、外郎薬を献上した際に、口直しに添えた菓子に由来するという。
 いま外郎薬は透頂香とよばれている。




 
 陳宗敬は中国時代の官職名が「外郎」で、これを日本名にしたという。
 故に発祥の地は、外郎家初代宗敬の在住した博多、または、2代目宗奇が在住し、ういろうを初めて世に知らしめた京都となる。
 小田原をういろう発祥の地とする説もあるがこれは間違いで、ういろうの元祖を標榜する外郎家の末裔(小田原外郎家)が現在、小田原市に存在することから生じた誤解である。
小田原の外郎館

小田原外郎家の地図(江戸時代)


 小田原の外郎家自身も、ういろう発祥の地を小田原としていない。
現在の小田原外郎家の当主


 なお、宗敬が在住した妙楽寺(福岡県福岡市)では、「ういろう伝来之地」の石碑が1987年昭和62年)に建立されている。
しかし今では、宮崎県、山口市、徳島県、京都市、岐阜県、小田原市、中津市、などの名物となっていて、特に名古屋市の物が有名である。

2016年2月18日木曜日

筑紫神社の碑

筑紫神社は筑紫神社(ちくしじんじゃ/つくしじんじゃ)は、福岡県筑紫野市原田にある神社
式内社名神大社)で、旧社格県社


境内にある石碑に、安西均(日本現代詩人会会長:森弘子さんの叔父さん)の詩がきざまれていることを、森さんのフェイスブックで知った。

遥かな古代
筑前・筑後を合せて「筑紫の国」と名つけ
九州を「筑紫の島」とさえ称した
ああ かくも大いなる筑紫
ここはその発祥地であり中心地である
ここ筑紫のまほろばに鎮まる産土の神
われわれの遠い祖先の喜びであり
現代のわれわれの誇りであり
われわれの子孫が受けつぐべき聖域である

              安西 均


わたしのブログも筑紫嶋と名付けているので、誇りにしなければならない。

2016年2月3日水曜日

古代の不弥国と宇美八幡宮

糟屋郡にある前方後円墳は、宇美町の光正寺古墳だけといわれてきた。
しかし古賀市の船原古墳が円墳と思われていたが、精密な調査の結果前方後円墳とわかり、二つとなった。
どちらの古墳も平成7~8年頃から調査されていたが、光正寺のほうが保存状態がよく、平成12年には復元整備が完了している。船原は盗掘がいちじるしく、装飾古墳であったけれどもあらされて、調査不能の状態となっていた。
しかし、その後平成25年に船原古墳の周辺からすばらしい装飾馬具が発掘され、現在も精密調査が続けられている。


宇美町で平成12年に光正寺古墳公園の完成を記念して、特別展がひらかれたときは、神武町長が開会の挨拶をされたが、平成26年に船原古墳のシンポジュムがひらかれたときは、中村古賀市長が挨拶をされた。彼は神武さんの娘婿であり、ふしぎな縁があるものだ


この時代に糟屋郡という行政区があったか否かは不明だが、魏志倭人伝の「不弥国」に想定される場所であり、その北部と南部に前方後円墳があり、この地区の権力者が居住して統治していたことはたしかである。当時から縁者であったかもしれないと勝手な想像をしてみたくなる。

宇美を不弥国とする説が多かったが、宇美の地名は魏志倭人伝の時代よりあとに付けられた地名である。
わたしはかねてから「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平説で、不弥国は、新宮・古賀あたりという説を信じてきた。
宮崎康平の地図
最近では古賀付近が「不弥国」らしいという学者が増えてきた。九大名誉教授の西谷先生もその一人である。
古代史研究家の萱島伊都男(福岡市出身)の近著には、はっきりとその地図が掲載されている。地図が印刷物になったのは宮崎康平以後でははじめてであろう。
萱島伊都男の地図

 

森田祐二さんの説も、説得力がある。

「不弥国はウミ(海)国」

伊都国や奴国はだいたい通説で合っている。
しかし不弥国に関しては諸説がある。
不弥国に求める条件とは…
①海に面している所、港に適した所。
不弥国より投馬国へ行くには”水行”。
だから、不弥国は宇美町などの内陸ではなく、港に適した海岸沿いだ。
②奴国より百里で東北方面。
不弥国は奴国から百里の位置にあるが、ちょうど伊都国と同じ距離感。
倭人伝の記述には、奴国の”東”とあるが、倭人伝の方角は時計回りに45度以上傾いているので、奴国の”東北”方面だ。
投馬国へ長距離の船旅をするわけだから、船の扱いに非常に長けた人たちがいた。
そして、福岡市東部は海人族の安曇氏の本拠地である。
そもそも不弥国は1000戸しかないのに、大国の奴国2万戸に吸収合併されなかったのは、奴国が一目を置く何かに秀でた民がいたから。
それは海運業などで富を得ていた海人族の安曇氏なのかもしれぬ。
奴国の東北方面で伊都国と同じ距離感で海岸沿いの所…となると、私がイメージする不弥国とは、だいたい福岡市東部の海沿いである。


最近、宇美八幡宮が糸島市にもあることを知った。
年明け最初の糸島市古代史連続講座で、榊原英夫氏の古事記の「仲哀(神功皇后)天皇と応神天皇」講義。
榊氏は神功皇后に所縁のある地は三百数十カ所もあるとし、その子、応神天皇生誕地の候補地2か所あり、99%が粕屋郡宇美町と理解されているようだが、『古事記』では糸島市の宇美八幡宮が示唆されると解説。
さらに『日本書記』、『筑紫国風土記』、『筑紫国風土記(逸文/釈日本紀)』、『筑紫国風土記(逸文/八幡御託宣記)の4歴史書から関連記述を紹介された。