糟屋郡にある前方後円墳は、宇美町の光正寺古墳だけといわれてきた。
しかし古賀市の船原古墳が円墳と思われていたが、精密な調査の結果前方後円墳とわかり、二つとなった。
どちらの古墳も平成7~8年頃から調査されていたが、光正寺のほうが保存状態がよく、平成12年には復元整備が完了している。船原は盗掘がいちじるしく、装飾古墳であったけれどもあらされて、調査不能の状態となっていた。
しかし、その後平成25年に船原古墳の周辺からすばらしい装飾馬具が発掘され、現在も精密調査が続けられている。
宇美町で平成12年に光正寺古墳公園の完成を記念して、特別展がひらかれたときは、神武町長が開会の挨拶をされたが、平成26年に船原古墳のシンポジュムがひらかれたときは、中村古賀市長が挨拶をされた。彼は神武さんの娘婿であり、ふしぎな縁があるものだ。
この時代に糟屋郡という行政区があったか否かは不明だが、魏志倭人伝の「不弥国」に想定される場所であり、その北部と南部に前方後円墳があり、この地区の権力者が居住して統治していたことはたしかである。当時から縁者であったかもしれないと勝手な想像をしてみたくなる。
宇美を不弥国とする説が多かったが、宇美の地名は魏志倭人伝の時代よりあとに付けられた地名である。
わたしはかねてから「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平説で、不弥国は、新宮・古賀あたりという説を信じてきた。
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宮崎康平の地図 |
最近では古賀付近が「不弥国」らしいという学者が増えてきた。九大名誉教授の西谷先生もその一人である。
古代史研究家の萱島伊都男(福岡市出身)の近著には、はっきりとその地図が掲載されている。地図が印刷物になったのは宮崎康平以後でははじめてであろう。
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萱島伊都男の地図 |
森田祐二さんの説も、説得力がある。
「不弥国はウミ(海)国」
伊都国や奴国はだいたい通説で合っている。
しかし不弥国に関しては諸説がある。
①海に面している所、港に適した所。
不弥国より投馬国へ行くには”水行”。
だから、不弥国は宇美町などの内陸ではなく、港に適した海岸沿いだ。
②奴国より百里で東北方面。
不弥国は奴国から百里の位置にあるが、ちょうど伊都国と同じ距離感。
倭人伝の記述には、奴国の”東”とあるが、倭人伝の方角は時計回りに45度以上傾いているので、奴国の”東北”方面だ。
③投馬国へ長距離の船旅をするわけだから、船の扱いに非常に長けた人たちがいた。
そして、福岡市東部は海人族の安曇氏の本拠地である。
そもそも不弥国は1000戸しかないのに、大国の奴国2万戸に吸収合併されなかったのは、奴国が一目を置く何かに秀でた民がいたから。
それは海運業などで富を得ていた海人族の安曇氏なのかもしれぬ。
奴国の東北方面で伊都国と同じ距離感で海岸沿いの所…となると、私がイメージする不弥国とは、だいたい福岡市東部の海沿いである。
最近、宇美八幡宮が糸島市にもあることを知った。
年明け最初の糸島市古代史連続講座で、榊原英夫氏の古事記の「仲哀(神功皇后)天皇と応神天皇」講義。
榊氏は神功皇后に所縁のある地は三百数十カ所もあるとし、その子、応神天皇生誕地の候補地2か所あり、99%が粕屋郡宇美町と理解されているようだが、『古事記』では糸島市の宇美八幡宮が示唆されると解説。
さらに『日本書記』、『筑紫国風土記』、『筑紫国風土記(逸文/釈日本紀)』、『筑紫国風土記(逸文/八幡御託宣記)の4歴史書から関連記述を紹介された。