わたしの元職場は電機メーカーの研究所だった。熱心な幹事さんいて、毎年OB50人位から近況報告をあつめ、30人前後が会合にあつまって会食する。
60代後半から92歳までの幅広い年齢層だが、話題では健康状態についてが一番おおい。
ここでは、退職後の趣味の種類について、取りまとめてみた。
1)運動系:
ウオーキング、登山、水泳、ジムでの筋トレ・太極拳、ゴルフ*、グランドゴルフ。
2)音楽系:
詩吟、謡曲、コーラス、カラオケ、社交ダンス。
3)絵画系:
水彩画、油絵、CG*.
4)文学系:
自分史*、万葉歌人の伝記。
5)旅行系:
観光旅行*(国内・海外)、歴史探訪*。
6)通信系:
アマチュア無線、メル友、フェイスブック*。
7)メカ系:
模型飛行機、バイク改造、カメラ造り。
8)収集系:
マンホールカード、クラシックカメラ、クラシック時計。
9)生物系:
魚釣り、鯉の飼育*、メダカの飼育、モルモット飼育、野菜、果樹。
わたしも、1)3)4)5)6)9)の*印ですこし足跡を残したが、いまは1)6)だけになった。
2018年6月15日金曜日
古代の有明海周辺と徐福伝説
九州大学工学部真鍋大覚助教授が発表された「3500年前の九州北部」という古代九州の詳細な地形図がある。
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(黒い部分が陸地)
その後、河川による侵食によって平野部が広がり、海岸線はつぎの図のように時代とともに移動してきた。
今から2200年前、徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け、日本へとやってきたという徐福伝説がある。
伝説によると、有明海の竜王崎にたちより、諸富町から上陸したことになっている。当時の海岸線(貝塚線:水位5~6m)なら、海中の場所だ。
ただし有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差があり、中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったと明確に指摘している。吉野ヶ里遺跡が当時からあったか否か、判明すれば面白いのだが。
彼の伝説では、不老不死の薬が主な調査対象になっているが、薬と限定せずに、日本の鉱山資源を幅広く調査して廻ったと思われる。
九州の中央構造線の北側には、金鉱床や炭田などが多く、これを狙って有明海に上陸したかもしれない。
しかし星野金山や鯛生金山などの金鉱発見までにはいたらなかったが、古湯温泉なども発見している。
また日本で古来「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物の発見は、不老不死の薬の逸話などから推測される。
丹生は丹が採取される土地を指す地名で、当時から存在していたよおうだ。
代表的な伝説:
3500年前の九州北部 |
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(黒い部分が陸地)
その後、河川による侵食によって平野部が広がり、海岸線はつぎの図のように時代とともに移動してきた。
今から2200年前、徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け、日本へとやってきたという徐福伝説がある。
伝説によると、有明海の竜王崎にたちより、諸富町から上陸したことになっている。当時の海岸線(貝塚線:水位5~6m)なら、海中の場所だ。
ただし有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差があり、中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったと明確に指摘している。吉野ヶ里遺跡が当時からあったか否か、判明すれば面白いのだが。
彼の伝説では、不老不死の薬が主な調査対象になっているが、薬と限定せずに、日本の鉱山資源を幅広く調査して廻ったと思われる。
九州の中央構造線の北側には、金鉱床や炭田などが多く、これを狙って有明海に上陸したかもしれない。
しかし星野金山や鯛生金山などの金鉱発見までにはいたらなかったが、古湯温泉なども発見している。
また日本で古来「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物の発見は、不老不死の薬の逸話などから推測される。
丹生は丹が採取される土地を指す地名で、当時から存在していたよおうだ。
代表的な伝説:
浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町):
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから上陸し、盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになった。
徐福は上陸の証として「ビャクシン」の種を植えた。「ビャクシン」は元来暖かい地方の樹木で、国内に自生する例はほとんどなく、樹齢2200年と推定される古木は全国でも珍しく、新北神社の神木で現存している。
徐福は蓬莱山に似ている金立(きんりゅう)山に向うが、道は荒れ、歩くのに困難な状態で、布を敷き歩きやすくして進む。現在の佐賀市金立町千布に達した時、ちょうど千反の布を使いきったので、この地域を「千布(ちふ)」と呼ぶようになった。
金立山の西にある富士町古湯温泉は徐福が見つけた温泉と言
われている。
徐福は湯が湧き出るのを見つけ、庵を建て、湯守りとなつた。
2018年6月13日水曜日
徐福渡来の時代
今から2200年前、徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け、日本へとやってきた。この渡来にまつわる話がいわゆる徐福伝説。
九州では、佐賀県内に数多くの伝説が残っている。徐福の足跡をたどりながら、その時代のことを推察してみる。
有明海の海岸線の時代変化 |
徐福時代の有明海の状況 |
さらに昔は、九州大学工学部真鍋大覚助教授が発表された「三千五百年前の九州北部」という古代九州の詳細な地形図がある。
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(黒い部分が陸地)
3500年前の九州地図 |
徐福渡来の2千2百年前なら、侵食によって平野部が広がり海岸線は前の図のように移動していた。
ただし有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差があり、中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったことを明確に指摘している。
近代の九州の金山 |
しかし日本で古来「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物の発見は、逸話などから推測され、丹生は丹が採取される土地を指す地名である。
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2018年6月11日月曜日
平景清と人丸姫
平家の残党の中でもとくに有名なのが平景清。
平と名乗っているが、平家一門ではなく藤原秀郷の流れにある伊藤氏の人物。勇猛さで知られて「悪七兵衛」の異名をとっていた。
1195年、奈良で源平合戦中に平重衡によって焼き討ちされた東大寺の再建を祝う落慶供養に頼朝が参加したときに、暗殺計画を立て転害門あたりに潜んでいた。
しかし事前に察知されてあえなく捕縛される。
景清は命を助けられて身柄を預けられた和田義盛の屋敷内に預かり囚人となるが、景清はかなりやりたい放題。もてあました和田義盛は預かる役目を八田知家に代わってもらう。そこでもしばらくやりたい放題な振る舞いだった景清。
やがて親兄弟、平氏一門が続々と殺されて消えていったというのに自分はこんなやりたい放題でいいのか?と疑問に思い始めた。
そして洞窟に入って読経三昧の生活へ。八田知家が送り届ける食事にもろくに手を出さずひたすら読経を続ける日々。やがてその読経の声が少しずつ小さく、弱くなり、ついに命尽きて途絶えた。
そんな最期を迎えた場所が「景清土牢」または「水鏡景清」と呼ばれるスポットとして残っている。岩が自然と削られたのか人間が削っちゃったのか、もう洞窟の名残はどこにもなくて単にくぼんでいるだけのような場所。
この1195年の景清の死を最後に平家の残党の表立った活動もほぼなくなり、1199年には平清盛のひ孫の六代こと平高清が処刑され、同じ年には頼朝も死去。
ただこの人物には娘がいたとされる。歌舞伎で有名な白拍子阿古屋との間に生まれた「人丸」という娘。
この娘は捕らえられた父親に会うため鎌倉へ赴くものの対面は果たせず(歌舞伎では再会する設定だそうですが)。父の死後に出家してこの土牢があった地に「向陽庵」というお寺を作って父の供養に余生を捧げたとされている。
このお寺では景清の守り本尊とされる十一面観音像が本尊として安置されていたらしいが、それが現在は徒歩10分かかるかどうかの海蔵寺に保管されている。
そして人丸を祀る塚が鎌倉の大町にある安養院にありる。もともと扇ガ谷に葬られた人丸の墓をいつの時代にかこちらに移してきたものだとか。
安養院といえば北条政子のお墓があることで有名ですが、この人丸の塚は何の説明もない。
こうして鎌倉に景清の娘の名残を伝える史跡・遺物がある以上、謡曲や歌舞伎の話にもそれなりの史実の裏づけがあったのだろう。
https://gfujino1.exblog.jp/8412571/
地元福岡にも、人丸神社があり、人丸姫の物語が伝承されている。
また球磨(朝霧町)や宮崎にも墓や神社があるようだ。
平と名乗っているが、平家一門ではなく藤原秀郷の流れにある伊藤氏の人物。勇猛さで知られて「悪七兵衛」の異名をとっていた。
1195年、奈良で源平合戦中に平重衡によって焼き討ちされた東大寺の再建を祝う落慶供養に頼朝が参加したときに、暗殺計画を立て転害門あたりに潜んでいた。
しかし事前に察知されてあえなく捕縛される。
景清は命を助けられて身柄を預けられた和田義盛の屋敷内に預かり囚人となるが、景清はかなりやりたい放題。もてあました和田義盛は預かる役目を八田知家に代わってもらう。そこでもしばらくやりたい放題な振る舞いだった景清。
やがて親兄弟、平氏一門が続々と殺されて消えていったというのに自分はこんなやりたい放題でいいのか?と疑問に思い始めた。
そして洞窟に入って読経三昧の生活へ。八田知家が送り届ける食事にもろくに手を出さずひたすら読経を続ける日々。やがてその読経の声が少しずつ小さく、弱くなり、ついに命尽きて途絶えた。
そんな最期を迎えた場所が「景清土牢」または「水鏡景清」と呼ばれるスポットとして残っている。岩が自然と削られたのか人間が削っちゃったのか、もう洞窟の名残はどこにもなくて単にくぼんでいるだけのような場所。
この1195年の景清の死を最後に平家の残党の表立った活動もほぼなくなり、1199年には平清盛のひ孫の六代こと平高清が処刑され、同じ年には頼朝も死去。
ただこの人物には娘がいたとされる。歌舞伎で有名な白拍子阿古屋との間に生まれた「人丸」という娘。
この娘は捕らえられた父親に会うため鎌倉へ赴くものの対面は果たせず(歌舞伎では再会する設定だそうですが)。父の死後に出家してこの土牢があった地に「向陽庵」というお寺を作って父の供養に余生を捧げたとされている。
このお寺では景清の守り本尊とされる十一面観音像が本尊として安置されていたらしいが、それが現在は徒歩10分かかるかどうかの海蔵寺に保管されている。
そして人丸を祀る塚が鎌倉の大町にある安養院にありる。もともと扇ガ谷に葬られた人丸の墓をいつの時代にかこちらに移してきたものだとか。
安養院といえば北条政子のお墓があることで有名ですが、この人丸の塚は何の説明もない。
こうして鎌倉に景清の娘の名残を伝える史跡・遺物がある以上、謡曲や歌舞伎の話にもそれなりの史実の裏づけがあったのだろう。
https://gfujino1.exblog.jp/8412571/
地元福岡にも、人丸神社があり、人丸姫の物語が伝承されている。
また球磨(朝霧町)や宮崎にも墓や神社があるようだ。
2018年6月5日火曜日
読書本やTV番組の評価分類
DNF: Did Not Finish … 読了しなかった
DNR: Did Not Read … 読まなかった
RB: Readable Banality … おもしろくても、陳腐
RP: Readable Piffle … おもしろくても、くだらない
RP+: One step up from RP … RPより1ランク上
RPM: Readable piffle mystery … おもしろくてくだらないミステリー
G: Good didn’t hold my attention … 悪くないけど、引っかからなかった
NFM: Not For Me … 私向きじゃない
NMS: Not my style … 私の趣味ではない
PB: Pretty boring … とってもつまらない
VB: Very bad … 非常に悪い
WOT: Waste of Time … 時間の無駄
NBAL: Not bad at all … かなりイケる
RR: Readable … おもしろい
DNR: Did Not Read … 読まなかった
RB: Readable Banality … おもしろくても、陳腐
RP: Readable Piffle … おもしろくても、くだらない
RP+: One step up from RP … RPより1ランク上
RPM: Readable piffle mystery … おもしろくてくだらないミステリー
G: Good didn’t hold my attention … 悪くないけど、引っかからなかった
NFM: Not For Me … 私向きじゃない
NMS: Not my style … 私の趣味ではない
PB: Pretty boring … とってもつまらない
VB: Very bad … 非常に悪い
WOT: Waste of Time … 時間の無駄
NBAL: Not bad at all … かなりイケる
RR: Readable … おもしろい