今から2200年前、徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け、日本へとやってきた。この渡来にまつわる話がいわゆる徐福伝説。
九州では、佐賀県内に数多くの伝説が残っている。徐福の足跡をたどりながら、その時代のことを推察してみる。
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有明海の海岸線の時代変化 |
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徐福時代の有明海の状況 |
徐福が来た時代は卑弥呼時代より前で、今の水位より6m高い頃だった。
さらに昔は、九州大学工学部真鍋大覚助教授が発表された「三千五百年前の九州北部」という古代九州の詳細な地形図がある。
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(黒い部分が陸地)
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3500年前の九州地図 |
徐福渡来の2千2百年前なら、侵食によって平野部が広がり海岸線は前の図のように移動していた。
ただし有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差があり、中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったことを明確に指摘している。
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近代の九州の金山 |
しかし日本で古来「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物の発見は、逸話などから推測され、丹生は丹が採取される土地を指す地名である。
代表的な伝説:
浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町)有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから上陸し、盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになった。
徐福は上陸の証として「ビャクシン」の種を植えた。「ビャクシン」は元来暖かい地方の樹木で、国内に自生する例はほとんどなく、樹齢2200年と推定される古木は全国でも珍しく、新北神社の神木で現存している。
徐福は蓬莱山に似ている金立(きんりゅう)山に向うが、道は荒れ、歩くのに困難な状態で、布を敷き歩きやすくして進む。現在の佐賀市金立町千布に達した時、ちょうど千反の布を使いきったので、この地域を「千布(ちふ)」と呼ぶようになった。
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金立山の西にある富士町古湯温泉は徐福が見つけた温泉と言われています。ある時、湯の神が現れ、「この山中西北の辺りに黄金の霊が湯となって湧き出る所がある。行ってその源をうがち、これを広め多くの人を救われよ」と告げたそうです。徐福は湯が湧き出るのを見つけ、庵を建て、湯守りとなりました。徐福を湯の神として祀る木像が古湯の彦山大権現にあり、今なお地下岩盤から温泉が湧き出ています。
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