これまで禁門の変など異なる陣営で対立し、藩士の上から下まで憎しみあっている長州藩と薩摩藩とを結びつけるとなると、多くの苦労が必要であった。
福岡藩尊皇攘夷派の加藤司書(かとうししょ)や月形洗蔵(つきがたせんぞう)達は長州征伐を前にして長州藩に恭順を示すよう高杉晋作らを説得し、早川勇(はやかわいさむ)は、長州で三条実美ら七卿に謁見、さらに五卿が太宰府に逃れてきたときの護衛をしていた旧土佐勤王党の面倒を見たり、対馬藩家老大江尚睦との交渉や高杉晋作と西郷隆盛との会談を設定するなど、西国雄藩の融和をはかった。
他にも薩摩藩と親密であったイギリスの駐日公使ハリー・パークスと高杉晋作との会談が画策されるなど長州藩と薩摩藩は徐々に接近を開始した。
薩摩藩や長州藩、土佐藩などの雄藩連合の必要性を感じていた坂本龍馬はその可能性を探っていたが、禁門の変で長州に加勢した土佐脱藩浪士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)や、旧土佐勤王党を率いて太宰府の七卿の警護に当たっていた土方久元(ひじかたひさもと)と語らって薩長同盟締結を目指し、活動を始めた。
西郷隆盛は、大村藩士・渡辺昇(わたなべのぼる)の仲介で桂小五郎らと長崎で会談、薩摩と長州の距離を縮めることに成功し、桂小五郎は坂本龍馬が、西郷隆盛は中岡慎太郎が説得し会談を下関で行うことを確約するが、西郷隆盛は藩の事情で下関を通過し大阪へ向かってしまった。1度目の会談は失敗に終わってしまった。
しかし、坂本龍馬と中岡慎太郎は諦めることなく、亀山社中を利用して薩摩藩名義で武器弾薬を調達、蒸気船ユニオン号も購入し長州に引き渡し、名義を貸した薩摩藩に対しては、長州の豊富にとれる米を回送する契約を両藩と結び、軍事的同盟の前に経済的友好で両藩を融和する策に成功した。
1次会談不成立に激怒していた桂小五郎も、この亀山社中による武器弾薬購入などに薩摩藩が協力したため、薩摩藩の黒田清隆の案内で、再び京都での会談に出向くことにした。
2度目の会談が設定されたのは京都にある
薩摩藩家老・小松帯刀邸「御花畠屋敷」。
(半藤一利の「幕末史」では薩摩藩屋敷になっているが、小松の配慮で、私邸を選んだ)
慶応2年(1866年)1月8日に交渉が開始されたが、下関から坂本龍馬が上洛した1月20日になっても、いまだに同盟が締結されていなかった。
これは長州藩の桂小五郎が幕府により追い詰められている長州藩の立場上、薩摩藩に頭を下げての同盟締結は出来ないことが原因であった。
これを察した坂本龍馬が薩摩藩からの同盟申し出を西郷隆盛に打診、これを了承した
西郷隆盛から六ヶ条からなる薩長同盟の条文が提案され、両者による検討の結果これを桂小五郎が了承し、竜馬が裏書署名して、薩長同盟がここに成立した。
一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事
一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事
一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事
一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事
薩長同盟の存在を知らない幕府は、第二次長州征伐を敢行するが、薩摩藩は参戦せず、戦闘が開始されても、長州の新兵器の威力に幕府軍は苦戦し、近隣の諸藩が出兵を拒否したり、参戦しても、幕府軍の不甲斐ない戦いに愛想を尽かして撤兵する藩が続出し、
幕府側は戦線が維持できず、将軍・家茂の死去を口実に休戦の勅許を朝廷から得て戦闘を終息させた。
第二次長州征伐の実質的な敗戦により幕府の権威は地に堕ち、薩摩藩と長州藩の行動を抑えることが不可能となり、この後は歴史が示す通り、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと進み、徳川幕府は滅亡へと進んでいった。