2018年8月27日月曜日

中川宮(久邇宮)

大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場する数少ない皇族:中川宮・朝彦親王。

大河ドラマでは、薩長同盟・倒幕を目指し西郷吉之助らが奔走する中で、この朝彦親王は岩倉具視からは「曲者(クセモノ)」呼ばわりされて警戒されている。
岩倉具視の懸念どおり朝彦親王は一橋慶喜と裏で繋がっていて、一時的に吉之助を追い詰めることになるが、これはどうも確実な史実ではないようだ。

慶応3年王政復古の大号令によって倒幕派・尊王攘夷派の公家・三条実美、岩倉具視らが完全に力を取り戻すと、公武合体派だった朝彦親王は広島藩に預けられ政治の表舞台から姿を消したが、明治維新後に、謹慎を解かれて宮家の一員に復帰し、明治8年に、新たに久邇宮家を創設し、伊勢神宮の祭主に就任。
神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始するなど政治以外の部分で活躍し、明治24年に死去した。
中川宮は今の久邇宮であり、昭和天皇の皇后(香淳皇后) は、中川宮のお孫さんであり、また島津久光のひ孫さんでもある。


そのあと、弟の秩父宮妃は松平容保の孫、高松宮妃は徳川慶喜の孫と、公武合体?が続いた。

2018年8月25日土曜日

薩長同盟に関わった人々(改訂)

これまで禁門の変など異なる陣営で対立し、藩士の上から下まで憎しみあっている長州藩と薩摩藩とを結びつけるとなると、多くの苦労が必要であった。
福岡藩尊皇攘夷派の加藤司書(かとうししょ)や月形洗蔵(つきがたせんぞう)達は長州征伐を前にして長州藩に恭順を示すよう高杉晋作らを説得し、早川勇(はやかわいさむ)は、長州で三条実美ら七卿に謁見、さらに五卿が太宰府に逃れてきたときの護衛をしていた旧土佐勤王党の面倒を見たり、対馬藩家老大江尚睦との交渉や高杉晋作と西郷隆盛との会談を設定するなど、西国雄藩の融和をはかった。



他にも薩摩藩と親密であったイギリスの駐日公使ハリー・パークスと高杉晋作との会談が画策されるなど長州藩と薩摩藩は徐々に接近を開始した。
薩摩藩や長州藩、土佐藩などの雄藩連合の必要性を感じていた坂本龍馬はその可能性を探っていたが、禁門の変で長州に加勢した土佐脱藩浪士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)や、旧土佐勤王党を率いて太宰府の七卿の警護に当たっていた土方久元(ひじかたひさもと)と語らって薩長同盟締結を目指し、活動を始めた。
西郷隆盛は、大村藩士・渡辺昇(わたなべのぼる)の仲介で桂小五郎らと長崎で会談、薩摩と長州の距離を縮めることに成功し、桂小五郎は坂本龍馬が、西郷隆盛は中岡慎太郎が説得し会談を下関で行うことを確約するが、西郷隆盛は藩の事情で下関を通過し大阪へ向かってしまった。1度目の会談は失敗に終わってしまった。
しかし、坂本龍馬と中岡慎太郎は諦めることなく、亀山社中を利用して薩摩藩名義で武器弾薬を調達、蒸気船ユニオン号も購入し長州に引き渡し、名義を貸した薩摩藩に対しては、長州の豊富にとれる米を回送する契約を両藩と結び、軍事的同盟の前に経済的友好で両藩を融和する策に成功した。
1次会談不成立に激怒していた桂小五郎も、この亀山社中による武器弾薬購入などに薩摩藩が協力したため、薩摩藩の黒田清隆の案内で、再び京都での会談に出向くことにした。
2度目の会談が設定されたのは京都にある薩摩藩家老・小松帯刀邸「御花畠屋敷」
(半藤一利の「幕末史」では薩摩藩屋敷になっているが、小松の配慮で、私邸を選んだ)

慶応2年(1866年)1月8日に交渉が開始されたが、下関から坂本龍馬が上洛した1月20日になっても、いまだに同盟が締結されていなかった。
これは長州藩の桂小五郎が幕府により追い詰められている長州藩の立場上、薩摩藩に頭を下げての同盟締結は出来ないことが原因であった。
これを察した坂本龍馬が薩摩藩からの同盟申し出を西郷隆盛に打診、これを了承した西郷隆盛から六ヶ条からなる薩長同盟の条文が提案され、両者による検討の結果これを桂小五郎が了承し、竜馬が裏書署名して、薩長同盟がここに成立した。

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事
一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事
一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事
一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事
薩長同盟の存在を知らない幕府は、第二次長州征伐を敢行するが、薩摩藩は参戦せず、戦闘が開始されても、長州の新兵器の威力に幕府軍は苦戦し、近隣の諸藩が出兵を拒否したり、参戦しても、幕府軍の不甲斐ない戦いに愛想を尽かして撤兵する藩が続出し、幕府側は戦線が維持できず、将軍・家茂の死去を口実に休戦の勅許を朝廷から得て戦闘を終息させた。
第二次長州征伐の実質的な敗戦により幕府の権威は地に堕ち、薩摩藩と長州藩の行動を抑えることが不可能となり、この後は歴史が示す通り、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと進み、徳川幕府は滅亡へと進んでいった。


2018年8月22日水曜日

征韓論政変

明治維新後の日本新政府は、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行う。
しかし日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
明治3年1870年)2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の対応に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
9月には、外務権少丞吉岡弘毅釜山に遣り、明治5年1872年)1月には、対馬旧藩主外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
当時政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。
当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。明治6年(1873年)6月12日、森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎江藤新平らもこれに賛成した。


中国から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。
二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。

板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
いったんは、同年8月17日に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、やがて帰国する岩倉らの意見を聞くという保留つきであった。
残留組の大隈重信、大木喬任と、すでに5月に帰国していた大久保利通や、7月に帰国していた木戸孝允らの派遣反対派の意見が、公家たちの間にひろまり、三条がゆらぎはじめた。


9月13日に帰国した岩倉使節団岩倉具視らは時期尚早としてこれに猛烈に反対した。

太政大臣三条実美が議長の閣議が10月14日からはじまる。
連日の会議で賛成派のほうに決まりかけた17日に、大久保が辞表を提出する。これにならって、木戸、大隈、大木も辞表を出すので、収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。
賛成派は、岩倉邸をおとずれて、岩倉に膝詰で説得にかかるが、大久保は岩倉を太政大臣代理に押し上げて、彼の意見を天皇に上奏させようと考えた。
この秘策が功を奏して、岩倉が一時的に太政大臣代理となり、23日彼の派遣反対意見が、明治天皇に容れられて、遣韓中止が決定された。
その結果、24日西郷、25日板垣、副島、江頭、後藤らの征韓派は一斉に下野した。
これに連鎖して、近衛局の桐野利秋ら幹部将校290名も辞職した。
これらの事変は、 征韓論政変とよばれている。
しかしその後の歴史を見ると、内政を優先させるのが第一として西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した内治派の人々が、その後、明治七(一八七四)年に台湾を武力で征伐して中国と事を構え、さらに翌明治八(一八七五)年には、朝鮮の江華島において朝鮮側と武力衝突を引き起こし、修好条約を締結した。
当然この出兵には、木戸、山縣、勝などが反対して、辞表を提出し政府を去っている。(岩倉は征韓論争の後、刺客に切られて、療養中であった。)
 つまり、西郷の使節派遣に反対し、内政が優先であると主張した非征韓派が、動機は現地での小さな事件からであったが、かなりの国費を使う外征(海外派兵)を行ったのだ。
鹿児島にいた西郷は激昴して「これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」と嘆いた。 この歴史的事実を考えると、征韓論の論争における「外征派 対 内治派」という対立構図といわれたの真実は、西郷を追放するための、ワンマンになってきた大久保利通の欺瞞に満ちたものであったともいえる。
その延長線の先に、西南戦争が見えてくる。

2018年8月9日木曜日

藤田信雄:アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人

日米戦争は、海軍のハワイ真珠湾攻撃からはじまったが、アメリカ本土への攻撃は、風船爆弾くらいしか知られていない。昨夜のテレビで、アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人が紹介された。

藤田 信雄(ふじた のぶお)は、日本海軍軍人。最終階級は飛行兵曹長(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。
藤田信雄中尉


海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略はのちに日本の風船爆弾作戦にも採用された。

1942年4月21日軍令部に呼び出された藤田は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への空爆命令を拝する。藤田の操縦の腕を買われたものだった
9月9日水曜日の午前6時、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上した。藤田と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾(合計155キログラム)を積み飛び立った。藤田の投下した焼夷弾のうち1個はオレゴン州のエミリー山脈ホイーラーリッジに落ちている。もう片方の爆弾の落下地点は不明である。ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾によりブルッキングズの東約15キロの地点でぼやが発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火され、結果として木が一本燃えただけであった。
3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃する。ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。 
1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。

藤田はその後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。1943年(昭和18年)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となった。

藤田は1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武装で決定的に不利であった零式観測機でグラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜落を確認)するという戦果を上げた。
 終戦直前に特別攻撃隊に志願し第二河和海軍航空隊へ異動、教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入することを想定して自身も訓練を行ったが、まもなく終戦。
終戦後、藤田は特務士官たる海軍中尉に昇進した。

終戦後、藤田は地元の茨城県土浦市に戻り、工場勤めなどをしていた。

だが1962年(昭和37年)5月20日、政府首脳より都内の料亭に呼び出され、池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に面会し、その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。しかも日米関係への影響を心配した日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられた
藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。
大歓迎をうけた藤田と家族

アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
日本刀を寄贈


アメリカでの歓迎ぶりに感銘を受け、藤田は1985年(昭和60年)にブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待した。
3人の女子学生を招待

ブルッキングズ・ハーバー高校の生徒が日本に滞在している際、藤田はロナルド・レーガン大統領の補佐官より「貴公の親切と寛大さの賛美を」との献辞と星条旗を受け取った。




なお、藤田はブルッキングスの女子学生を招聘するにあたって、衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は毎月2〜3冊の書籍のみと言うストイックな生活のすえに資金をやりくりしている。
 その後、藤田は1990年(平成2年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)にもブルッキングズを訪れた。1992年にはかつて空爆した地域に平和を象徴して植林を行った。

1995年の訪問時には藤田が贈った日本刀はブルッキングズ市庁舎から新しい図書館に設けられた「藤田コーナー」の陳列ケースの中に移動された。

藤田自身は84歳という高齢にもかかわらず市長ら友人3人を乗せセスナ機を操縦。かつて自分が飛行したものと同じ空路をたどってみせた。 

藤田は1997年(平成9年)9月30日に85歳で死去した。死去の数日前にブルッキングズ市の名誉市民となっており、市長が死去の当日に来日して本人へ渡すつもりであったが、死去により遺族へ授与された。
彼の娘である浅倉順子(よりこ)によって1998年(平成10年)10月に藤田の遺灰の一部が埋められた空爆地域には、現在「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた看板が立てられている。
娘の浅倉順子さん


藤田のアメリカ本土攻撃は戦後長い間広く知られることはなかったが、1995年12月29日放送の『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』(日本テレビ)に取り上げられ、存命中の藤田もVTRに出演した。今回は、2018年8月9日放送「たけしのアンビリバボー」(TNC)であった。

2012年5月に浅倉順子とその息子の藤田文浩らがブルッキングスを訪問し、現地の図書館や空爆地域を訪れるなど、その後も交流が続いている。

2018年8月5日日曜日

島尾敏夫(特攻隊長の恋)

島尾敏夫

1917年4月18日神奈川県横浜市戸部町に輸出絹織物商を営む父島尾四郎、母・トシとの間に長男として生まれた。両親、妹二人、弟三人の6人兄弟であった。

学生時代


1936年4月、長崎高等商業学校に入学した。中桐雅夫編集の『LUNA』同人となり、以降同誌に幾つもの詩を発表した。1938年、長崎高商2年の頃、矢山哲治らと同人誌『十四世紀』を創刊するが、島尾が載せた小説と他同人二名の小説及び詩の内容が風俗壊乱と反戦思想の嫌疑をかけられ発行と同時に内務省より発売禁止の処分を受けた。
1939年3月に長崎高等商業学校を卒業するが、引き続き4月から同校海外貿易科に籍を置く。
この夏、毎日新聞社主催のフィリピン派遣学生旅行団の一員としてルソン島台湾を旅行した。その体験が後に『呂宋紀行』として結実する。10月からは福岡の同人雑誌『こをろ』に加わる。

『こをろ』は福岡市で刊行された文藝同人誌で、1939年から1943年末にかけて、14号まで発行された。同人には島尾敏雄のほか矢山哲治真鍋呉夫阿川弘之那珂太郎小島直記一丸章らがおり、同人は長崎高商福岡高校の二つの系統からなっていた。
島尾の言によれば、福岡高校出身者はゲオルゲカロッサリルケ等ドイツのそうした系統や当時の風潮の「日本浪曼派」的な傾きが強く、商業(福岡商業)、高商出身者はそれに馴染まないものが多かったという。
そうした性質の異なる二派の青年たちからなる『こをろ』は度々分裂の危機に見舞われた。『こをろ』の中心人物で、25の若さで自殺とも事故ともつかぬ列車事故により夭折した矢山哲治の死に際しては、同人の多くが既に出征していたこともあって島尾が最も近くに居り、衝撃を受けた。『こをろ』の矢山追悼号へは「矢山哲治の死」を掲載し、葬式では島尾が弔辞を読んだ。
この時期の九州同人誌の流れ

矢山哲治との関係についてその当初の印象を「このやうにドイツ風な又日本浪漫派風な雰囲気に誕生していた矢山とさういふ所に無縁であった私」としていたが、矢山の死後の1943年後半を述懐して、島尾は日本浪曼派の代表的批評家である保田與重郎について「旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」「ムサボルヤウニ読ンデ甚ダシク心ヒカレタ」と書いている。
矢山哲治
『こをろ』へは「呂宋紀行」「暖かい冬の夜に」「浜辺路」「断片一章」などを発表している。
1940年九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌41年に九州帝大法文学部文科を受験しなおして再入学し、東洋史を専攻する。そのため『水滸伝』のほか『浮生六記』などの小説や『李太白詩選』、また研究資料として元史にも親しんだ。
在学中、同じ研究室の一級下に庄野潤三がおり親交を結ぶ。佐藤春夫木山捷平らを共通して好んだ。庄野にはこの頃を描いた日記体の小説「前途」がある。
1943年、8月に卒業論文『元代回鶻人の研究一節』を書き上げ九州帝国大学を半年繰り上げで卒業し海軍予備学生を志願した。また、私家版「幼年期」を70冊限定で発行。この頃、庄野を介して詩人の伊東静雄との通交がはじまる。その関係は戦後のある時期まで続き、伊東の圏内で林富士馬庄野潤三三島由紀夫らと同人誌『光耀』を創刊することとなった。 

特攻隊体験



呑之浦にある島尾敏雄文学碑
1943年の9月末、九州帝国大学を半年繰り上げで卒業したのち、陸軍での内務班生活を嫌って海軍予備学生を志願する。はじめ飛行科を志願し、予備学生試験の当日の判定では航空適性であったが一般兵科に採用され、旅順の教育部へ入った。
基礎教育期間を終了したあとの術科学校の希望書に暗号、一般通信に加え、惰弱と思われるのが嫌で第三希望に魚雷艇部門を記入したところ採用され、第一期魚雷艇学生として1944年2月から横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受けた。当時魚雷艇部門は創設されたばかりであり、また術科の専門部門では一番の危険配置とされていた。
1944年4月から長崎県川棚町の臨時訓練所で水雷学校特修学生として過ごすうち、特攻の志願が認められた。猶予期間として一日の休暇が与えられ、就寝前に志願の可否を紙に書いて提出するかたちで募られたという。
1944年10月には第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて加計呂麻島呑之浦へ赴いた。その地で更に訓練を重ね、出撃命令を待つ日が長く続いた。


その極限の状況下で、島の娘、大平ミホと恋愛する。
この恋愛体験を昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞した。「出孤島記」には、大平ミホはNとして登場する。
島尾敏夫と大平ミホ

戦後の昭和二十一年三月十日、島尾は大平ミホと結婚する。神戸市立外事専門学校(現神戸市外国語大学)助教授を経て、昭和二十七年東京に移住、作家活動に移る。
だが、島尾の女性問題で妻ミホは心の病に冒され、島尾と断絶状態になる。
昭和三十年、妻ミホの病気療養のため、奄美大島名瀬市に移住。カトリックの洗礼を受けた。昭和三十二年、島尾は鹿児島県職員となり、県立図書館奄美分館に勤務しながら、作家活動を行う。
島尾敏雄はその後、文学者として、次々に作品を発表し、次のような多数の文学賞を受賞。
妻ミホとの断絶の危機を描いた作品「死の棘」で芸術選奨受賞(昭和三十六年)、南日本文化賞(昭和三十九年)、「日の移ろい」で谷崎潤一郎賞(昭和五十二年)。
同じく「死の棘」で、読売文学賞(昭和五十三年)、日本文学大賞(昭和五十三年)、日本芸術院賞(昭和五十六年)。
「湾内の入り江で」で川端康成文学賞(昭和五十八年)、「魚雷艇学生」で野間文芸賞(昭和六十年)。

昭和六十一年十一月九日、鹿児島市宇宿町の自宅で書籍を整理中、島尾敏雄は脳内出血で倒れる。鹿児島市立病院に搬送されるが意識の戻らぬまま、十一月十二日、同病院で死去した。享年六十九歳。葬儀はカトリック教会で営まれた。

なお、島尾の妻、島尾ミホ(平成十九年死去・八十七歳)も作家になり、昭和五十年に、「海辺の生と死」で女流作家に贈られる第十五回田村俊子賞を受賞している。
さて、「出孤島記」(島尾敏雄・新潮社)の内容を、もう少し掘り下げて見よう。
島尾敏雄は終戦に至る特攻部隊、第十八震洋隊での体験と大平ミホとの恋愛を、昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞した。
後に同じ体験を素材にし、この作品の続きの部分を書き加えて、「出発は遂に訪れず」も発表している。ここでは大平ミホは「トエ」として登場している。

「島尾敏雄日記」(島尾敏雄・新潮社)によると、島尾は徴兵検査の結果、第三乙種合格だったので、果たして陸軍の内務班生活に耐えられるか不安だった。島尾は当時軽いうつ症で、なるべく少人数で軍隊生活を送りたいと思った。それで、海軍の飛行学生を希望した。パイロットなら多数の人間と軍隊生活を共にすることはないからだ。

だが、希望に反して、海軍予備学生合格後、水雷学校と魚雷艇訓練所で訓練を受けた後に、第十八震洋隊という、百八十余名の隊員と、五十隻の震洋艇の特攻兵器部隊の指揮官にさせられてしまった。島尾にとっては思いもよらない結果だった。
震洋艇は敵の米軍から「スイサイド・ボート」(自殺艇)と呼ばれた緑色小型艇の特攻兵器だった。長さ五メートル、幅一メートルのベニヤ板でできた高速ボートだ。
一人乗りで、敵艦船に突っ込んでいき、衝突させる。その瞬間、頭部に装着してある火薬に電路が通じて爆発する仕組みになっていた。
その威力は、二隻の特攻で、一隻の輸送船が撃沈できる程度のものだった。震洋艇の乗員は目標の敵艦船の百メートル手前で、進路を絶好の射角に保ったまま舵を固定し、海中に身を投じてもよいことにはなっていた。だが、そのようなことが現実にできそうもなかったの。だから、乗員たちは皆、成功するためには、最後まで、舵を取りながら敵艦船に突っ込むほかはないように思っていた。
1945年8月13日の夕方に特攻戦が発動され出撃命令を受けたが、敵艦隊が姿を見せず、発進の号令を受け取らぬまま14日の朝を迎えた。震洋での特攻戦は夜襲を原則としていたため日中の出撃はありえず機会は翌晩まで延期されることとなった。
その日の正午に大島防備隊司令部から全指揮官参集の命令を受け、翌15日に即時待機状態のまま敗戦を知った。