2020年10月31日土曜日

新見 豊前守正興(外国奉行)のファミリーと彰義隊

 新見 正興(しんみ まさおき)は、幕末幕臣

1860年1月に外国奉行として日米修好通商条約批准書を交換する正使の大役を帯びて渡米した。日本史では同時に渡米した咸臨丸の軍艦奉行木村喜毅と、勝海舟、福沢諭吉らが有名だが、外国奉行の新見は、米国の軍艦で出発したので、あまり歴史書に記載されていない。

その当時の名乗りから、新見 豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。

その孫娘が柳原白蓮であった。


その玄孫の新見正裕さんがモデル業。



来歴

西御丸小納戸役・三浦義韶の子として生まれたが、文政12年(1829年)に大坂町奉行新見正路の養子となる。天保10年(1839年)より小姓、次いで中奥小姓となる。

嘉永元年(1848年)10月に新見家の家督を継ぐ。安政元年(1854年)8月に小普請組支配、

安政3年(1856年)3月には小姓組番頭となり、安政6年(1859年)7月に外国奉行に任じられ、8月より神奈川奉行を兼帯する。

万延元年遣米使節

日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年、1月)に、正使新見正興(外国奉行)、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣された。

その護衛の名目で木村喜毅(海軍奉行)を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。

1月22日に横浜でアメリカ軍艦「ポーハタン」に乗り込み、ハワイ王国のホノルルを経由して太平洋を横断、サンフランシスコにいったん寄港の後、一路パナマへと向かい、パナマ地峡鉄道で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク英語版」に乗って北上、首都ワシントンD.C.に到着したのは万延元年閏3月25日(1860年5月15日)のことだった。

ワシントンでは大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日(5月23日)に国務長官ルイス・カスと批准書を交換。一行はその後フィラデルフィアニューヨークでも熱烈な歓迎を受けた。

5月12日(6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し、西回りで大西洋からインド洋に入り、9月27日(11月9日)に横浜に帰着した。新見はこの功績により300石加増され、10月には外国奉行専任となった。

 渡米時の写真。

中央が新見豊前守(サンフランシスコにて)

前列中央が新見豊前守(米国海軍工廠にて)


帰国後

文久2年(1862年)6月、側衆となり、伊勢守に叙されるが、元治元年(1864年)9月に免職となる。桜田門外の変以降、情勢が変わって攘夷の空気が強まったため、予定していた港の開港を遅らせるなど後ろ向きの交渉が多くなる中、開港への要求を強める各国公使と攘夷の要求を強める朝廷との板挟みで、神経が擦り切れる毎日だったと推測される。事実、外国奉行の中には、窮地に立たされて切腹した人もいた。

慶応2年(1866年)12月に隠居し、閑水と号する。明治元年(1868年)、武蔵国下奥富村(現埼玉県狭山市下奥富)へ帰農したが、しかし翌明治2年(1869年)4月病気療養のため再び東京へ行き、そこで10月に病没した。享年48。

新見家は明治維新後の混乱の中で没落した。


正興死後の娘たち

正妻との間に娘が3人いたが、長女は北海道へ嫁ぎ、次女・ゑつと三女・りょうは奥津家の養女となり、そこから柳橋に芸者として売られた。

姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった。

りょうは16歳の時、伊藤博文柳原前光が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。

柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後の有名な柳原白蓮(燁子:あきこ)である。


女児は前光の正妻・初子に引き取られた。産後病がちになり、明治21年10月7日、21歳で死去。りょうの元で養われていた母は、姉のゑつの元へ引き取られた。

ゑつは吉原の顔役であった飯島三之助に病身の母ごと落籍され、一人息子の房次郎をもうける。

房次郎が芸事を嫌ったことから、吉原の芸妓から見込みのある娘・とめを養女として迎え、奥津姓と芸を継がせた。房次郎の妻の思い出によれば、ゑつは武家のように礼儀に厳しい姑だったという。昭和19年、80歳で死去。

柳原家とは身分違いであることから、飯島家から憚って親戚付き合いはなかったが、白蓮は宮崎家の人になってから生母の墓を探し当て、従兄弟の房次郎とも交流している。






ロッキード事件とダグラス・グラマン事件

 1976年(昭和51年):ロッキード事件

一国の首相が収賄で逮捕されたということで有名な話。

全日空にトライスターの売り込みのための賄賂を、田中首相がうけとっていたとされた。

トライスター

逮捕された者は 18人,起訴された者は 16人に及んだ。起訴された 16人のうち田中元首相を含め 5人が公判中に死亡して公訴棄却となり,1995年2月に最高裁で田中の元秘書官と丸紅元会長の上告が棄却されたのを最後に、残る 11人全員が有罪となった。

事件の背景には、ベトナム戦争がからんでいる。敗退するアメリカ軍。傭兵部隊(韓国軍を含む)を投入し、兵站基地の日本がありながら、アメリカは負け続ける。

日本の戦後の歴史は、東京を中心とした一極集中型の歴史観を日本全国に配信した。いつしか、マスコミも東京を中心とする情報を画一的に垂れ流すだけで満足している。
 しかし、ここに落とし穴がある。

 首都圏への物流はトラックが主流になっている。しかし、トラック・ドライバーは慢性的に不足する。そのことは、50年以上も前から言われていた。

高速道路網はGHQの高官が、アメリカの自動車メーカーのキックバック目当てに建設したともいわれる。目算は外れて、アメリカ車は売れなかった。
 
ならば、ボーイング、ダグラスの民間航空機を売り込もうか?
 成田空港を建設したのも、見えざるGHQの亡霊の仕業なのか?


そんな中、軍産複合体は生き残りをかけて、軍用機メーカーから民間旅客機メーカーへの転身を図っていた。先発したのは、ボーイングだった。

 しかし、ボーイング727は折々、事故を起こして墜落した。さらには、岩手県雫石町の上空では、空自の練習機と空中衝突。音速に近い速度のボーイングと朝鮮戦争時の戦闘機とでは、まるで速度が異なるが、結局、政治力で空自の責任となった。

後発のダグラス、グラマンも民間旅客機を日本に売り込むために奮闘。

ロッキード事件は世間の注目を浴びたが、ダグラス・グラマン事件は、扱いが極めて小さかった。

このダグラス・グラマン事件の渦中の方の葬式が、つい先日、あった。文科省が弔旗を上げろと指示した、しないで、揉めたが。

 大久保利通の孫である大久保利春が、ロッキード事件では丸紅専務として国会での証人で登場した。「あの、大久保の・・・」と世間の目は冷ややかだった。

1979年:ダグラス・グラマン事件

1968年
防衛庁第2次防衛力整備計画における、次期FX計画主力戦闘機導入発足、選考にはロッキードCL1010-2、マクドネル・ダグラスF-4SAABビゲンダッソーミラージュF1が候補に挙がる。
1969年
F-4Eを元にしたF-4EJの採用決定。
F-4EJ

昭和54年(1979年)元総理大臣2人、その後に総理大臣になった人1人を含む政界を揺るがす
 巨大汚職事件「ダグラス・グラマン事件」がおこる。

1月4日 - アメリカのSECが、グラマン社が自社の早期警戒機E-2C)の売込みのため、日本の政府高官(岸信介福田赳夫中曽根康弘松野頼三)らに代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、不正資金を渡したことを告発。
相次ぐ証言を受け、東京地検特捜部は、米SECに資料提供を要請し捜査を開始。
2月1日 - 日商岩井航空機部門担当の島田常務が、赤坂の同社本社ビルから遺書を残して投身自殺。遺書には「日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠の為に私たちは奉仕すべきです。私達の勤務はわずか20年か30年でも会社の生命は永遠です。それを守るために男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社はイメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。」と書かれていた。キーマンの自殺によって、捜査は行き詰まる。
多くの政治家や商社マンに嫌疑がかけられたが、結局商社の3人だけが起訴され、日商岩井・海部八郎副社長に懲役2年執行猶予3年の判決。被告原告共に控訴せず、同年8月7日確定。

私がダグラス社を訪問した1968年は、この事件のはじまりになるF-4EJの売り込み開始の時期だったらしく、民間人なのに、昼食に豪華なビフテキ料理がだされて驚いた。
当時はこんな背景を知るよしもなく、ジャンボJet機の開発中の機体を見学し、戦前から雁ノ巣飛行場でなじんでいただクラス機DC-3の製造元をはじめて見学できて、感激していた。
叔父が大日本航空のパイロットだったので、戦前の中学生になったとき、DC-3に乗せてもらった時の記憶は今もはっきりのこっている。
DC-3

現在ダグラス社はロッキード社に吸収され、グラマン社はノースロップ社と合併している。
ロッキーード社もコロナの影響で苦戦している航空業界である。


2020年10月30日金曜日

磐井の乱の評価



昨日、継体天皇の時代の歴史番組で、最後の磐井の乱について、討論された。

出演者 4人がすべて、継体天皇の大和朝廷は、磐井と戦うべきだったという側であった。

この勝利によって、日本の統一が確立されたとした。日本史さきにありきの番組であった。

そして磐井が戦った理由や、負けた理由などは、全く触れなかった。

また磐井なきあとの、大和朝廷の外交の失敗や、白村江での大敗などにも触れなかった。

ちょうど菅総理が、学術会議の6名の否認を、総合的、俯瞰的にみて判断したと、説明しているような番組で、九州人としては不本意な番組であった。

磐井の乱の客観的な評価としては、正しくは、磐井政権と畿内政権による戦争であるる。

磐井の乱は、事実としては、畿内政権と磐井政権とのあいだでおこなわれた対等関係による戦争であり、磐井政権領域下の那珂郡に鎮座する住吉氏や宗像郡の宗像氏はともに磐井軍にあり、麁鹿火と戦ったと云うことだ。末期に宗像氏が寝返ったので負けたというせつもある。

この時代には、畿内政権が当該地方を治める官庁としての「屯倉」の呼称はなく、屯倉・官家は畿内政権の統治機構として未だ成立していなかった。

磐井は肥国から北部九州一帯を統治し、畿内政権と対等の立場で対立していたと類推される。


磐井討滅後、その子・葛子が糟屋屯倉を朝廷へ献上したと日本書紀にあるが、糟屋屯倉を差し出すと云う記述は、そこに表現としての矛盾がある。まだ屯倉が九州になかった時代である。
表現に矛盾がある点を見逃し書紀の記述を事実だと考える歴史家が多い。



私の意見は次の「磐井の乱の全貌」でのべている。

西方浄土筑紫嶋: 磐井の乱の全貌 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)


磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。

2020年10月27日火曜日

柳川城の城主:田中吉政と水路工事

 柳川地方の支配者は、蒲池氏,龍造寺氏,立花宗茂,田中氏,立花氏と変化した。

 柳川藩藩主、立花宗茂(1567~1642)と妻の誾千代を主人公とするNHK大河ドラマの招致キャンペーンを展開する柳川市。

だが柳川には関ケ原の戦い後の8年間、宗茂に劣らぬ名君がいたことはあまり知られていない。

「筑後国主」として筑後地方一帯を治めた田中吉政(1548~1609)だ。

NHKファミリーヒストリーで、芸能人の田中裕二のルーツとして紹介されたが、その出身地の小郡あたりは、田中吉政の子孫が開拓していたらしい。

 吉政は近江国(滋賀県)生まれ。田中家は地侍だったと伝えられるが、豊臣秀吉、秀次に仕えて頭角を現し、三河国(愛知県)の岡崎10万石の城主となる。

関ケ原の戦いでは西軍の石田三成を捕らえるなどの功績を挙げ、32万5千石を得て1601年に、立花宗茂失脚のあとの柳川城へ入った。

 吉政は秀吉や家康といった時の権力者の近くで活躍し、筑後入封は島津や鍋島、黒田といった大名を抑える意味もあり、家康の信頼の厚さがうかがえる。

 さらに為政者としての能力も高かった。近江や三河、および亡くなるまでの短い間に筑後一円で手掛けた都市計画や事業を見て、全国の歴史家はもっぱら、「土木の神様」だと称している。

 代表的なものが、現在の大川市からみやま市にまたがる潮止め堤防「慶長本土居」。総延長32キロのうち、25キロの第1期工事は入封翌年の02年8月、わずか3日間で完成させた。

本土居は道路などに変わり原形をとどめないが、柳川市大和町には記念碑がある。用意周到に干潮と小潮を見極め、農民を総動員して一気に造った。築堤は有明海干拓による新田開発にも貢献した。

 柳川城と支城の久留米城をほぼ直線で結ぶ「久留米柳川往還」も同年の事業。

県道23号はこの道路が礎で、今も「田中道」と呼ばれることがある。

大木町の住吉宮など、沿線には吉政を祭る多くの社がある。短い治世だったが、いかに筑後の発展に貢献した人物であったか分る。

 城下町柳川の原形となる町割りや掘割の整備、5層の天守閣の建造なども吉政の手による。掘割の水路は、住民の生活水にもなっており、現在では川下りの観光資源にかわっている。

柳川の川下りコース中間点には彼の銅像が建つ。右手に扇、左手には望遠鏡。何やら工事の現場監督のようなたたずまいだ。


慶長14年(1609年)に京都伏見で没した。参勤交代の途中であった。享年62。

田中家は跡を継いだ忠政が男子を残さぬまま死去したために、元和6年(1620年)に改易された。

あとに立花宗茂が復活して入城し、田中の跡の土木工事を継承した。

戦後、上下水道を普及させていくときに、掘割を下水道として埋める計画もでたが、住民の反対で保存され、現在も住民の努力で清掃や管理がされている。

掘割の水はダムの役目ももっており、昨年の大水害のときも、近隣の大川市などは、大被害をうけたのに、はやがめに水路の水を放水したおかげで、町での浸水被害は2軒だけですんだ。

坂本竜馬と高杉晋作:いろいろ

 晋作と龍馬の関係は次の3つがよく知られる。

1)晋作が龍馬に漢詩とピストルを贈る。竜馬はこれで命拾いをする。
2)小倉戦争を共に戦う。慶応2年(1866)6月17日未明晋作に依頼された龍馬は、乙丑丸で対岸の旧門司の幕府軍砲台を艦砲射撃し、勝利の援助をする。
3)薩長同盟のため龍馬は晋作らと尽力し、長州藩が政変・禁門の変などにより「薩賊会奸」と呼んだ薩摩と、恨みを越えて同盟を結びそして維新回天の大業に導く。
東行庵にも、その顕彰掲示板がある。別途、海峡沿いには青春交響の塔がある。
二人はともに慶応3年になくなった。(生まれは天保6年と10年)




高杉晋作の名前はいくつあるのだろうか。
諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。
号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。
変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。
東行庵の記念館に花押があった。晋作と春風の文字を複合した書体である。
晋作の祖父が春時、父が春樹だから、「春」が高杉家では続いたが、晋作は子供の名を東一と名付けた。
孫の名前は春太郎にもどったが、これは伊藤博文が潜伏時につかった変名でもある。

東行庵にある晋作の顕彰碑は大きいが、墓は予想していたより小柄な墓であった。
明治42年ごろにできたものだが、一緒に建てられる奇兵隊参謀の福田公明(侠平)の墓が先にできた。完成を待ち望んでいた梅処尼は「旦那のがまだ来ない」と言いながら、ついに墓石をみずに67歳で亡くなったという。彼女の墓も近くに建てられている。




高杉晋作の東行庵に山形有朋の銅像がある。何故だろうと思ってしらべた。
この清水山麓には、もともと奇兵隊陸軍監山縣狂介が新婚生活を営んでいた小さな家があった場所で、それを晋作の愛人うのに譲って東行庵となったそうだ。
東行庵建立寄付者のなかでも、毛利公55円についで、50円組4人のトップに名前を書き、あと井上、山田、伊藤とならんでいる。

竜馬がいろは丸沈没事件のとき、巧な交渉術で和歌山藩からの賠償金要求に成功した話は有名である。相手に国際法をもちだして強硬な態度で臨み、世間に情報をばらまいて世論を味方につけたという。
貴乃花巡業部長は、刑事訴訟と沈黙という方法で、情報社会を湧き立たせて、日馬富士を引退に追い込んだ。医療ホッチギスの写真リークの効果も大きかったようだ。


2020年10月26日月曜日

考古学における年代計測法の進歩(改訂)

放送大学の講義内容の要約。

最近の年代計測は放射性炭素のよる年代測定である。
しかし計測する年代によっては、不正確になり、大幅に較正する必要がある。
これを補正する方法として、年輪年代法がすすんでいる。

この方法も、技術が進み、精度が向上している。


針葉樹以外の年輪計測も、酸素同位体の比率比較で、可能となった。
杉の木は最も正確なマスタークロノジーが完成されている。


炭素法と年輪法の相関係数も高くなっている。
従来の土器型式との関係も、正確に分類されている。


土器の型式と、年代測定結果の対比も正確なった。
 








静かな湖底の体積地質調査で、年縞が発見された。(福井県の水月湖で、安田・中川教授らによる研究)


その集積で、7万年の標準年代計測が可能になり、いまや世界標準と認定された。








年縞内の植物のC14とひかくして、年代の補正もできている。

滋賀縣の名前の由来


 テレビで滋賀県の県名があまり知られていなくて、近江や琵琶湖が有名だから、県名変更の話もあると報じていた。

地名の由来は、石の多い地域を指す「しか」(石処)という言葉が転じたものと考えられる。
「滋賀」が明治時代に県名に採用されたのは、県庁が置かれた地域が「滋賀郡」だったこと由来するが、滋賀郡(現在の大津市)には「石山寺」「岩間寺」などの石に関係する寺社も古くから存在する。聖武天皇の時代に、一時、紫香楽宮が置かれたことも関係しているらしい。
近代では「滋賀」という漢字が用いられるが、これは「しか・しが」という音への当て字であり、漢字に大きな意味はないと考えられる。
そのため、これまでの歴史で多くの表記が存在し、志我、斯我、四賀、志賀などが使用された記録も残っている。
2006年に大津市へ吸収合併されるまでは、2種類の「しが」を用いた「滋賀郡志賀町」が存在していた。

2020年10月24日土曜日

正倉院展

 毎年、正倉院展の時期になると、娘の著作が話題になる。





エッフェル塔

 


エッフェル塔の建設秘話のテレビをみた。公共の計画による建設と思っていたが、エッフェルが75%の資金も負担していたのに驚いた。あらためてかれの経歴をしらべてみた。

エッフェルの略歴(WIKの抜粋)
1832年12月15日一家の長男として、フランスのディジョンに生まれる。家系はフランス革命時にその姿を消した王室室内装飾業者で、彼はそれを誇りに思っていたと伝わる。10歳の時、教会と風車がある箱庭を一人で造り、その見事さに人々は驚いたと伝わる。
中等学校を優秀な成績で修了後、1850年パリに出てパリ大学に付属したコレージュ・サント=バルブ (Collège Sainte-Barbe) に学ぶ。1852年にエコール・デ・サントラル(中央工芸学校)化学科に入学。一年間の学業を終えて、中央工芸学校からの技師免状を取得する。
卒業後一時は義理の弟が経営する鉄鋼所に勤めた後、自らの今後を考えたすえ鉄道関係の仕事をすることになる。当時フランス全土に鉄道網建設の計画が進んでおり、鉄道に興味を覚えたとされている。
1856年、鉄道資材建造業シャルル・ネブザーと出会い、土木技術を修得する。ネブザーには目をかけられ、当時有名な科学者に次々と引き合わせてもらったという。
1858年〜1860年、7スパンの含む延長500mの大鉄橋ボーデラックスの橋梁工事でその工事のすべてを担当。圧送空気を用いた杭打機を使用して建設技術者として貴重な経験を得る。この工事の功績により、ポーエル社より個人名での商談を許されるようになる。
1862年マリー・ゴドレと結婚、5人の子をもうけた。1864年外部に個人商談用の技術コンサルタント事務所を発足させる。
まもなくヨーロッパをおそった経済危綬によってポーエル社工場は閉塞に陥る。
このため1866年ルヴァロア・ペレ(バリ市北西近郊)にサントラルの後輩で資産家T・セイリグをパートナーとして独立、エッフェル社を創業する。
独立後の仕事は、万博の展示場、駅舎ホール、チャペル構造、ガス工場、鉄道高架橋、可搬橋や可動橋、天文台の丸天井など多種の鉄骨造にわたり、ヨーロッパ各地はもとより中国や東南アジアまで広い範囲に及ぶ。
1875年にはハンガリーのペスト市終着駅とポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋の工事を受注する。
1876年1月に着工し1877年11月には開通式を迎えたドゥロ河マリア・ピア鉄道高架橋(ポルトガル)は、全長353m、中央のアーチはスパン160m、ライズ37.5mの大鉄橋であり、当時つり橋を除けば世界一の長スパン橋梁ある。
1878年の万博パビリオンやアーチの長き110メートルのタルド河にかかるエヴオー高架橋(クルーズ県)を建設する。
1880年フランス・ガラビーの鉄道高架橋(フランス・カンタル県)はアーチスパンは165mで渓谷の底らは122.2m、輪脚の高さは89.64mである。
その他実績として工場、軍隊用組み立て式の橋梁などもある。
エッフェル塔(建設過程)
1884年、パリ万国博覧会においてシンボルとなる建物のコンペティションがおこなわれ、エッフェル社鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクランと組立工法部部長エミーユ・ヌーギエらは1884年6月6日には塔の原案を作成し、建築部長ステファン・ソーヴェストルに相談する。図案にほ地面と第一プラットホーム(2階)との間に半円形の巨大なアーチがあったが、最終案は現在見られるように、アーチの役割は補助的なものとなり、全体に機能主義的構造になっていた。1884年9月18日エッフェル、ケクラン、ヌーギエの3人で鉄塔の新案特許(164364番)を登録し、同年9月27日、設計図はバリ装飾美術展に展示された。
1887年から1889年にかけて、革命百周年記念となるパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔をシャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建設することになる。これが有名なエッフェル塔である。完成当時は賛否両論だったが、今ではパリを代表するシンボルとなっている。
7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した。
これらの資金は当時パナマ運河建設工事に伴う事業利益をあてたとされるが、のちに裁判沙汰となった。
また20年後にパリー市に引き渡し、解体される契約も、無線通信の実験場所となり、さらに軍の通信設備や電波放送の設備として利用されて今日にいたっている。
自由の女神像 (ニューヨーク)のも参加。
「世界を照らす自由の女神」-フレデリク・バルトルディの彫刻による自由の女神像は鉄の骨組みの上に銅をかぶせたもので、1884年パリで製作しアメリカへ贈られ、1886年ニューヨークで祝賀会が催された。
1889年にはパリの女神像も担当。また同年には民間技師協会の会長に就任。
その後パナマ事件で罰金つき有罪とされたが、最高裁判所で無罪となる。パナマ事件はパナマ運河建設をめぐる.第3共和制最大の政治・金融スキャンダルで1881年レセップスがパナマ運河建設に乗り出したが、1889年事業清算。この際におけるフランス政界への政治工作が問題化した。
エッフェルは建設業者として建設事業に参加し、事件に巻きこまれ起訴された。判決ほ懲役2年、罰金2万フランであったがエッフェルは控訴し、最高裁で無罪となる。
しかしこの事件は長く心の痛手となった。この時に、エッフェルは会社経営から身を引き、娘婿のアドルフ・サルと旧友モーリス・ケクランに経営を委ねる。
晩年はエッフェル塔の4階にサロンを設置し、ここで気象観測、天体観測、生物学的観測、無線逓信研究にいそしみ、これに当代一流の科学者が研究に参画した。
また彼は多くの経験の中で風に対する問題を認識していたが、1903年、70歳をすぎて改めて風の制御に関する研究にとりかかり、1909年エッフェル型と称される風洞を建設した。その後この風洞はパリオトゥイユに移され、本格的な風の研究が続けられる。風洞によって科学的な風の解析をはじめ風の科学が確立され、風の現象は視覚化された。これは当時実用化に向けでの開発の緒についた航空機の進歩に大きく貢献するものとなり、自身もついには.L.E(ラボラトワール・エッフェル)と名づけられた航空機の設計にまで手をかける。
妻には1877年に若くして先立たれ、続いて父、母を失ってはいたが、1920年に引退の後は孫たちに囲まれ、おだやかな晩年をすごした。
1923年12月27日にパリの自ら設計した自宅で死去。91歳。パリのルヴァロワ・ペレ墓地に眠っている。
1996年に発行されたエッフェル肖像200フラン紙幣の表にはガラビ橋、裏にはエッフェル塔が描かれている。

2020年10月23日金曜日

藤ノ木古墳


 斑鳩の藤ノ木古墳の被葬者については諸説あった。

当初は男女ニ体の遺骨といわれたが、京都大片山一道名誉教授らの精密調査の結果、30歳前後と20歳前後。
1人は身長165cm位で血液B型の貴公子形の男子と判定された。
この結果、2人の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子の可能性が高いと考えられいる。作家の黒岩重吾らもこの説に近い。


また副葬品や埋葬の様子から、元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬されたとの説もある。


蘇我
馬具などの埋葬からみても、私が当初聞いていた埼玉大学の原島 礼二教授の「茨原城皇子と磐隈皇女」の説は影がうすくなった。

全く盗掘されずに現代まで存続した奇跡のタイムカプセルである。

注:(丁未の乱

物部守屋と蘇我馬子は義兄弟で、若いころは友好関係であった。

しかし用明天皇が崩御したあとの後継者選びで、大きく対立した。

物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫(のちの推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。

(用明天皇の後継者争いが、守屋と馬子の対立の最大の原因と考えられる。穴穂部皇子の乳母は、物部系の人物であったという。

伝物部守屋墓
大阪府八尾市 大聖勝軍寺付近)

7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。

守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

しかし、迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺した。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。

生き残った守屋の子のうち片野田と辰狐兄弟は、前者は筑前国鞍手に、後者には前国松浦に流罪されたという。

この戦いは丁未の乱と呼ばれる。



八尾市南太子堂には迹見赤檮が物部守屋を射たときの矢を埋めたとされる鏑矢塚、その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある(迹見赤檮発箭地史蹟、とみのいちいはっせんちしせき)。

物部と蘇我の争いに悩んだ聖徳太子が、斑鳩の地に二人の遺体を引き取り、埋葬したのが、藤ノ木古墳と推定されている。