1860年1月に外国奉行として日米修好通商条約の批准書を交換する正使の大役を帯びて渡米した。日本史では同時に渡米した咸臨丸の軍艦奉行木村喜毅と、勝海舟、福沢諭吉らが有名だが、外国奉行の新見は、米国の軍艦で出発したので、あまり歴史書に記載されていない。
その当時の名乗りから、新見 豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。
その孫娘が柳原白蓮であった。
その玄孫の新見正裕さんがモデル業。
来歴
西御丸小納戸役・三浦義韶の子として生まれたが、文政12年(1829年)に大坂町奉行・新見正路の養子となる。天保10年(1839年)より小姓、次いで中奥小姓となる。
嘉永元年(1848年)10月に新見家の家督を継ぐ。安政元年(1854年)8月に小普請組支配、
安政3年(1856年)3月には小姓組番頭となり、安政6年(1859年)7月に外国奉行に任じられ、8月より神奈川奉行を兼帯する。
万延元年遣米使節
日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年、1月)に、正使新見正興(外国奉行)、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣された。
その護衛の名目で木村喜毅(海軍奉行)を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。
1月22日に横浜でアメリカ軍艦「ポーハタン」に乗り込み、ハワイ王国のホノルルを経由して太平洋を横断、サンフランシスコにいったん寄港の後、一路パナマへと向かい、パナマ地峡鉄道で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク」に乗って北上、首都ワシントンD.C.に到着したのは万延元年閏3月25日(1860年5月15日)のことだった。
ワシントンでは大統領のジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日(5月23日)に国務長官のルイス・カスと批准書を交換。一行はその後フィラデルフィアやニューヨークでも熱烈な歓迎を受けた。
5月12日(6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し、西回りで大西洋からインド洋に入り、9月27日(11月9日)に横浜に帰着した。新見はこの功績により300石加増され、10月には外国奉行専任となった。
渡米時の写真。
中央が新見豊前守(サンフランシスコにて) |
前列中央が新見豊前守(米国海軍工廠にて) |
帰国後
文久2年(1862年)6月、側衆となり、伊勢守に叙されるが、元治元年(1864年)9月に免職となる。桜田門外の変以降、情勢が変わって攘夷の空気が強まったため、予定していた港の開港を遅らせるなど後ろ向きの交渉が多くなる中、開港への要求を強める各国公使と攘夷の要求を強める朝廷との板挟みで、神経が擦り切れる毎日だったと推測される。事実、外国奉行の中には、窮地に立たされて切腹した人もいた。
慶応2年(1866年)12月に隠居し、閑水と号する。明治元年(1868年)、武蔵国下奥富村(現埼玉県狭山市下奥富)へ帰農したが、しかし翌明治2年(1869年)4月病気療養のため再び東京へ行き、そこで10月に病没した。享年48。
新見家は明治維新後の混乱の中で没落した。
正興死後の娘たち
正妻との間に娘が3人いたが、長女は北海道へ嫁ぎ、次女・ゑつと三女・りょうは奥津家の養女となり、そこから柳橋に芸者として売られた。
姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった。
りょうは16歳の時、伊藤博文と柳原前光が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。
柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後の有名な柳原白蓮(燁子:あきこ)である。
女児は前光の正妻・初子に引き取られた。産後病がちになり、明治21年10月7日、21歳で死去。りょうの元で養われていた母は、姉のゑつの元へ引き取られた。
ゑつは吉原の顔役であった飯島三之助に病身の母ごと落籍され、一人息子の房次郎をもうける。
房次郎が芸事を嫌ったことから、吉原の芸妓から見込みのある娘・とめを養女として迎え、奥津姓と芸を継がせた。房次郎の妻の思い出によれば、ゑつは武家のように礼儀に厳しい姑だったという。昭和19年、80歳で死去。
柳原家とは身分違いであることから、飯島家から憚って親戚付き合いはなかったが、白蓮は宮崎家の人になってから生母の墓を探し当て、従兄弟の房次郎とも交流している。