磐井の乱については、いままで何人も専門家の話を聞いたり読んだりした。
総合的に判断すると、だいたい次のような背景と経過をとどったと思われる。
1)乱の原因
磐井の君は6世紀初頭には、北部九州をほぼ勢力下におさめていた。
海の向こうの新羅とむすぶか、同じく海の向こうのヤマトとむすぶか、の選択をかんがえた。
当時はどちらも外国であり、交易相手であったろう。
新羅には鉄鋼の素材と製鉄技術があり、ヤマトには特殊な交易の魅力がなかった。
当時は南韓の東の新羅、西の百済、その中間に伽耶と呼ばれる小国群があり、両方から侵略されていた。そのなかの任那には倭人も多くいて、ヤマトは百済と親交があり、磐井は新羅と親交があった。
新羅が伽耶を侵し、さらに百済と争うようになった時点で、倭国内部でもヤマトと磐井の争いとなった。
2)戦闘の経過
1年半におよぶ戦闘が九州北部で行われたが、詳細な経緯の記録は何も残っていない。
ただ磐井軍が敗北し、磐井の君は、記紀では殺されたと記され、筑前国風土記では豊前の国上膳の縣の遁れたと記されている。
突然の敗北には、火の君や宗像の君の裏切りがあったのだろうという推測がされている。
理由は乱のあとに、火の君の勢力範囲が増えたり、宗像の君がヤマトと婚姻関係をむすんだりしているからである。
3)磐井の子孫
磐井の君の子供の葛子は、死をのがれるために糟屋の屯倉をヤマトに献上して、事件は治まったことになっている。
糟屋の屯倉の範囲は不明であるが、糟屋郡の範囲くらいが考えられている。
一部の人の意見では、宮地嶽の巨大石室古墳や宗像の桜京塚装飾古墳は葛子の墓ではないかとい説もあるようだ。
葛子の子孫も、この周辺に存在していたのだから、その痕跡が残っているのは当然である。
最近の発見では、福津市の大石、多須田、津丸に、葛子の孫の三兄弟が住んでいたという古文書がみつかり、それぞれ江戸時代までの村の名前になっていたことがわかった。
また葛子の弟は、鞍橋の君という弓の名手で、日本書紀によると百済支援のヤマト軍に参加して、聖明王の子を救出するという手柄をたてており、その根拠地は鞍手町の新北熱田神社であったようだ。
この乱後、6世紀後半には、「糟谷屯倉」・「那津官家」の設置が
される。
さらにこの時期に、囲柵建物群が比恵・有田・鹿部田淵遺跡が玄界灘沿岸に設けられる。
その後磐井の所有地あとに設けられた宗像の首長墓は、奴山・大石・須多田系列が9基、全長60~100m級の前方後円墳、天降神社・須多田ミソ塚・須多田上ノ口・須多田下ノ口・在自剣塚古墳・奴山12号・30号墳・大石岡ノ谷1号・2号墳などである。
さらに田熊石畑遺跡は、このような情勢下で、宗形氏の経済的基盤を支えた倉庫群と考えられる。
玄界灘沿岸では、博多湾の今津の港に今宿大塚古墳(全長64m)、比恵遺跡に近い東光寺剣塚古墳(全長75m)が造墓される。
また磐井の乱後に大野城市牛頚窯の生産が拡大することや砂鉄原料の鉄生産の盛行は、ヤマト政権の地域生産集団の再編と思われる。
5) 第2次磐井の乱(壬申の乱)
磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。
これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。
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