道元がひらいた曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということ。
2021年9月29日水曜日
「只管打坐(しかんたざ)」と「万里一空」
龍宮寺:人魚伝説
龍宮寺:人魚伝説
2021年9月26日日曜日
近代科学と技術の進歩の経緯
ガリレオは望遠鏡による実験データと数理解析を結合して、地動説をうみだした。
2021年9月25日土曜日
朝河貫一
浦辺氏のFB記事:
最近、時間をかけて読了したもの。
第26回日中外相会談での妥協
大平外相は「文言を変えてもいい」と中国側に大きく譲歩した。大平は以下の案を姫鵬飛外相に示した。
「過去、戦争によってもたらされた苦しみと損害に対して深く反省の意を表明する」
しかし姫外相は「苦しみ」を削除し、「責任」を追加。
「日本側が過去、戦争によってもたらした重大な損害の責任を深く反省する」
としたが大平は「責任」とは何の責任かと姫に問い、姫は「損害を与えた責任」と反論。日本側はこれに「痛感」の言葉を加えることで、「責任」という表現を受け入れた。
「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」
というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれた。
2021年9月24日金曜日
小松左京氏の短編SF小説
小松左京氏の短編SF小説に
2021年9月23日木曜日
気象学
テレビでは、豪雨災害のニュースや避難勧告情報などがながれている。
現在では、人工衛星などで気象予測のレベルも上がったが、それでも水曜日の雨のち曇りの予測ははずれた。
最近の常温核融合の研究
NHK:フランケンシュタインの誘惑「夢のエネルギー“常温核融合”事件」
1)1989年3月23日にイギリス・サウサンプトン大学のマーティン・フライシュマンとアメリカ・ユタ大学のスタンレー・ポンズが、この現象を発見したとマスコミに発表した。フライシュマンとポンズは、重水を満たした試験管(ガラス容器)に、パラジウムとプラチナの電極を入れ暫らく放置、電流を流したところ、電解熱以上の発熱(電極の金属が一部溶解したとも伝えられた)が得られ、核融合の際に生じたと思われるトリチウム、中性子、ガンマ線を検出したとしている。
フライシュマンとポンズによる常温核融合に成功したという報道は、結局不正な論文であった。
2)しかし、その可能性を信じる一部の研究者たちが地道に研究を続け、徐々にこの現象の再現性が高まってきた。2010年頃から、米国やイタリア、イスラエルなどに、エネルギー利用を目的としたベンチャー企業が次々と生まれている。日本では凝縮集系核反応、米国では「低エネルギー核反応」という呼び名で、再評価する動きが出てきた。
アメリカでは、2011年に常温核融合に関連する特許を認可した。
これは最近のナノ技術により金属の分子間距離を縮小して、そのなかに重水素を収入するという技術であるという。日本でも酸化ジルコニウム・パラジウム合金を格子状のナノ構造にし、その構造内に重水素ガスを吹き込むと、常温で過剰熱とヘリウムが発生するという方式が研究されている。
「核融合の際に発生する膨大なエネルギーを安定的に、安全かつ低コストで取り出せる道が見えてきたことで、欧米を中心に開発競争が活発化している。日本の研究者は、これまでこの分野を主導してきた実績がある。実用化に向け、国内に蓄積してきた英知を結集すべき」。クリーンプラネットの吉野英樹社長はこう考え、東北大学に資金を投じたのだ。
石原志乃武のFB記事:9.21.
九州大学で実証実験中の核融合炉の見学をさせて頂いたことがあります。核と聞くとそれだけで身構えてしまうのですが、核融合は要するに太陽の放射原理なので、事故があっても反応が停止するだけでメルトダウン無し、放射能も実質影響無し。極端に言えば街の真ん中にあっても大丈夫なもので、素晴らしいと思いました。
まだ技術的にはクリアすべき課題も多いそうですが、再生型エネルギーに多くのエネルギー量は期待できず、かといって従来型の原発では大きな危険と隣り合わせということであれば、この技術に期待すべきことは大きいのです、政策論争にも出てくるようになった核融合炉、多くの生徒・学生に知らせ、正しいエネルギー利用の在り方を共に考えていきたいと思います。
2021年9月22日水曜日
世界遺産「大足の石仏」と、数珠手観音
令和3年9月に中国重慶の世界遺産「大足の石仏」の近況がテレビで紹介された。四半世紀前に訪れた時は遺産登録まえで鄙びた田舎だったが、今は修復されて賑やかな観光地になっていた。
令和4年2月に、また大足の石仏の特集「大彫刻」ー石に魂をこめるーが放送された。
古墳時代甲冑と北部九州の出土状況と古賀市古墳の比較
古墳時代の鉄製鋲留板甲(短甲)と小札鋲留眉庇付冑(東京国立博物館所蔵)。 |
1)弥生時代から奈良時代にかけて日本で制作、使用されていた甲冑が短甲と挂甲である。
2)短甲は、腰から上(胴体・手と頭部)防御するための甲冑。全体が鉄でできており、この時代は鉄が大変貴重な物であったので、短甲は身分の高い人物しか身に着けることができなかったと考えられている。
3)そのあとに登場した挂甲は、短甲よりも丈が長く、部品の数も多くなったため、挂甲制作にはより高度な技術が要求された。
4)短甲が登場した当時、材質は鉄板のみが使用されていたが、時間の経過と共に鉄板を革で繋いだ短甲も登場してきた。
5)しかし、後期に作られた一部を除き、短甲には胴より下の箇所を守る「草摺」(くさずり)等は付いていはかった。
6)挂甲は、古墳時代の中期から奈良時代にかけて登場する。「小札」(こざね)と革を用いて作られた甲冑である。
「小札」(こざね)または「札」とは、甲冑を構成している小さな短冊状の板のことである。その形は、正方形、長方形、三角形などがある。
短甲よりも柔軟性を持たせたことで、より動きやすく機動性にも優れていた。挂甲は前で引き合わせて着る形式の甲冑で、イメージ的にはコートを羽織るように着る。7)挂甲は体全体を覆うため、大量の小札に小さな穴をあけ、革で繋ぎ合わせることが必要。そのため、挂甲は一着作るのに大変な手間と時間がかかる。
古墳時代甲冑の形式名称は、奈良・平安時代の文献史料にある語を引用し、板甲に「短甲」、札甲に「挂甲」の語が当てられて成立したものであった。
8)短甲、挂甲の着用者が被る兜は、大きく2種類に分けられる。それが「眉庇付冑」(まびさしつきかぶと)と「衝角付冑」(しょうかくつきかぶと)。
眉庇付冑は、つばの付いている野球帽のような形をした兜で、非常に作る手間がかかりました。一方、衝角付冑は、シンプルな形状でより実用的な兜である。
9)用語の変化:
「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式挂甲」を表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式挂甲」を表している。
現在「短甲」と呼ばれているような板造り甲(帯金式甲冑)を示していないことが確実視されている。「短甲」「挂甲」の語を使用し続けるのは不適切であるという意見もある。
(板物甲、小札甲)や、日本の帯金式甲冑と技術的に共鳴関係にある韓国南部の同形態の甲が「板甲」と呼ばれていることを参考として、「板甲」「札甲(または小札甲)」とするべきではないかと提言されており、これを使用する研究者が増加しつつある。
10)北部九州での甲冑出土の分布図
11)短甲と桂甲の年代変化永浦古墳の出土品 |
この冑は「竪矧板革綴冑(たてはぎいたかわとじかぶと)」。
22枚の縦長の鉄板(竪矧板)が革紐で綴じられ、頭頂部に伏板が取り付けられている構造。
伏板には、冠帽と呼ばれる烏帽子形の装飾が施されていた可能性があり、これは社会的地位の高さを示している。
船原古墳調査指導委員会の副会長で、記者会見に同席した桃﨑祐輔・福岡大学教授は「朝鮮半島の新羅や百済のみならず、中国の北朝や隋の使節が見ても、一目で最上位の武人とわかる冑だったと考えられる」との見解を示した。