2021年9月29日水曜日

「只管打坐(しかんたざ)」と「万里一空」

 道元がひらいた曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということ。

昨日の「ためして合点」では、座禅の効果が科学的に解明され、脳の海馬を大きくして、ストレスを解消し、認知症を改善することがわかったという。
医師で「安楽詩」の著者塩谷氏の「正心調息法」にも、腹式呼吸法のやりかたと効果が詳しく紹介されている。
塩谷式では、吸息:鼻から肺の底まで吸う。 充息(息を止める):息を下腹(丹田)に押し込め肛門を閉め10秒堪える。 吐息:鼻から静に、腹の力を抜き凹ませる。 小息:小さな呼吸を一つする。 その繰り返しです。

毎日3分の実行を心がけよう。



古谷君のコメント:

スウソクカンでどんなに頑張っても3分もできません。
15秒できたら良い方だと思ってます。
θ波が15秒しかでないですね。感覚として。まだ若いのかな。

「万里一空」
琴奨菊の選んだ四字熟語が話題になっている。
宮本武蔵の五輪書の最終巻「空の巻」
     「兵法三十五箇条」の三十六項目の語句だそうだ。
早速、わが書棚の五輪書の本をとってみると、地、水、火、風のあとに空の巻があり、「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」
この本の現代訳では、「空」に力をいれており、空は無だが無知の迷いではなく、すべての武芸、武道をきわめて迷いの雲が晴れた状態が「真の空」であると解説している。
水の巻では、剣のさばき方など実践的な言葉が多く、ゴルフのスイングに通じる点など多かったが、最終章ではさすがに「心の迷い」をなくすことで括られていた。
良い言葉を選んだ琴奨菊は、実戦でその成果を示してもらいたいものだ。

龍宮寺:人魚伝説

 龍宮寺:人魚伝説

博多駅の近くに童話の世界のような寺がある。「龍宮寺」といわれる浄土宗の寺だが、ここには人魚伝説がある。この寺が博多湾沿いにあった貞応元年(1222)、人魚が打ち上げられ、寺に奉納されたという。そこから龍宮寺(りゅうぐうじ)と呼ばれるようになった。(真偽は別にして、空想の世界を楽しむしかない)
 その後、文明12年(1480)に連歌師の飯尾宗祇がやってきて、この寺に宿泊し、連歌を楽しんだという。この当時の博多は大内氏が統治していたが、明の国、南蛮貿易で栄えていて、文化の方も隆盛の時代だった。
 現在、周辺はビルが建てこんでしまったが、貿易で栄えた当時は当時でにぎやかなところだったのだろう。





2021年9月26日日曜日

近代科学と技術の進歩の経緯

自然科学の現象まで、キリスト教の教義で解釈されていた古代から、近代にはいり、ベーコンやデカルトなどの哲学者が登場し、自然征服思想や機械思想などを提唱しはじめた。



ガリレオは望遠鏡による実験データと数理解析を結合して、地動説をうみだした。

ニュートンは地球の引力に関する実験を数理解析により、万有引力の法則をうみだした。


ファラデーは電流と磁石の関係を実験により発見して、電磁誘導の法則をうみだした。
その後産業革命で、蒸気機関による動力革命がおきると、カルノーは熱的な自然エネルギーと動力エネルギーの関連性を解明した。


19世紀後半から20世紀、21世紀は原子核エネルギーの時代に突入していった。

2021年9月25日土曜日

朝河貫一

浦辺氏のFB記事:


 

最近、時間をかけて読了したもの。

『天皇制と日本史』矢吹晋著、集広舎
・驚愕の史実、重たい問題提起の一書
表紙写真の人物に見覚えがあった。平成30年(2018)11月24日付、読売新聞西部版「維新150年」特集に取り上げられた朝河寛一(1873~1948)だ。「おごる祖国 愛国の苦言」という見出しの脇に表紙と同じ表情があった。
(朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年明治6年)12月20日 - 1948年昭和23年)8月10日)は、日本歴史学者日本人初のイェール大学教授。

本書は、全9章、600ページに及ぶ大著。なかでも、第2章の『入来文書』において、朝河が早くに文書を読み解いていたことに驚く。中世日本(鎌倉時代)の封建制成立過程を知りえる資料として貴重なものだ。
この『入来文書』については九州大学名誉教授の秀村選三氏(81ページ)から直接に話を聞いたことがある。『入来文書』解読は朝河が勤めていたイェール大学の委嘱が発端だが、その先駆者が朝河であったと知り、驚いた。
日本の連作可能の稲作、欧州の休耕地、牧草地を必要とする畑作との比較は斬新。ふと、欧州の海洋進出の理由の一つが、肥料となる海鳥の化石化した糞鉱石を求めてであったことを思い出した。

本書第4章の「ペリーの白旗騒動は対米従属の原点である」は必読の箇所だ。第6章、第7章において提起される問題の「原点」でもあるからだ。嘉永6年(1853)、ペリーが黒船を率いて来航した。
この時のペリーの通訳官であるウィリアムズに注目した朝河の慧眼には恐れ入った。
歴史の現場の生き証人である通訳官の記録は、今後の歴史解説の見本ともいうべきものだ。


この通訳官の存在の重要性を受けての第7章「日中誤解は『メイワク』に始まる」は、歴史に残る誤訳事件。
事件の背後を丹念に追った著者の記述はミステリーを読んでいるが如くで、読み手を飽きさせない。
一般に「マーファン事件」ともいわれるこの事件は、1972年(昭和47)、日中国交樹立の最終場面で起きた。田中角栄首相(当時)の「迷惑」と発言した箇所が中国側の誤解を招いた。通訳官がスカートに水がかかった程度の「麻煩(マーファン)」という中国語に翻訳したからだ。この「マーファン事件」を読みながら、日本人の記録文書に対する曖昧さを再認識した。根本に、記録を重視しない、解読しようとしない国民性とでもいうべき感覚があるのだろうかと訝る。そう考えると、本書が大分であることの意味も納得できる。
余談ながら、この「マーファン事件」については、筆者が初級中国語講座を受講している時、横地剛先生から教えていただいた。同文同種と思って安易に中国語を理解しないようにとの戒めを込めてだった。
冒頭、読売新聞の記事を紹介したが、その締めくくりは「戊辰戦争の敗者の側から朝河という世界的な知性が生まれたことも、近代日本の一断片だった。」である。まさに、本書の総括にふさわしい言葉である。なぜ、日本の歴史学会は、このような学者の存在を無視し続けたのだろうか。
ちなみに、実名を挙げての研究者らを批判する文章が目につく。しかし、朝河寛一の如くあれとの著者の警告ではと感じた。歴史は、何のために存在するのか。
それは、後世の人々に同じ失敗の轍を踏ませないためだ。驚愕の史実が開陳されると同時に、歴史解読の問題提起の書であった。

注:マーファン事件の決着

添了麻煩(ティエンラ・マーファン)とは中国語で「迷惑をかけた」という意味の語である。1972年田中角栄首相が中華人民共和国を訪問時に周恩来総理に「貴国に迷惑をかけた」と発言したのを翻訳したもの。これを聞いた周恩来が激怒した。いわゆる『迷惑事件』である。

第26回日中外相会談での妥協

大平外相は「文言を変えてもいい」と中国側に大きく譲歩した。大平は以下の案を姫鵬飛外相に示した。

「過去、戦争によってもたらされた苦しみと損害に対して深く反省の意を表明する」

しかし姫外相は「苦しみ」を削除し、「責任」を追加。

「日本側が過去、戦争によってもたらした重大な損害の責任を深く反省する」

としたが大平は「責任」とは何の責任かと姫に問い、姫は「損害を与えた責任」と反論。日本側はこれに「痛感」の言葉を加えることで、「責任」という表現を受け入れた。

「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」

というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれた。

2021年9月24日金曜日

小松左京氏の短編SF小説

 小松左京氏の短編SF小説に

「そして誰もしなくなった」というのがある。


あるとき突然、某国の総理大臣が「やーめた」と言って辞めてしまう。それが伝染し、国民が次々と「やーめた」といって、仕事や勉強や、日常生活の活動を止めてしまう。当然、皆お腹が空いて来るのだが、食事も作らず、ただ只ボーっと滅びを迎える・・・
この小説が書かれたのは1970年。大阪の万博が開かれ、日本中が「人類の進歩と調和」を確信していた時代であた。


当時は、荒唐無稽な与太話としか読めなかったが、小松左京氏は高度成長にまい進する日本人の心の奥底に潜む、無気力さの芽生えを感じていたのだろう。
平成16年度の労働経済白書に「無職業非学生の若年層が52万人に達した」という報告がされ報じられている。正社員よりも、パートの方を好む傾向が出てきた。
最近、総理大臣が急にやめたでが、幸い政治家の「やーめた」の連鎖反応はなかった。
コロナ感染予防のため、外出自粛、三密禁止で、社会活動がとまり、社会保障、(Go Toとらべる、Go Toいーと、Go To イベント、Go TO商店街など)で賄う行政がつづいている。
日本人が無気力に、この行政にあまんじていたら、小松SFの世界に落ち込んでしまう可能性がある。

2021年9月23日木曜日

気象学

 テレビでは、豪雨災害のニュースや避難勧告情報などがながれている。

現在では、人工衛星などで気象予測のレベルも上がったが、それでも水曜日の雨のち曇りの予測ははずれた。

日本海海戦の天気予報で有名な岡田武松氏の気象学講話の本によると、洪水の原因は、霖雨(ながあめ)と豪雨と雪解け水の3種類をあげている。
現在増えている集中豪雨は、まだ認識されていなかったようだ。
最近では「線状降水帯」や、「記録的短時間大雨情報」いわゆる“キロクアメ”などの新用語も登場している。
彼がつねに強調していた、大衆に解りやすい表現が、現在の気象庁では、豪雨を次のように述べている。
今日の雨は、わが家ではザーザーであった。
1時間の雨量(mm)
10以上~20未満
やや強い雨 ザーザー
20以上~30未満
強い雨   土砂降り
30以上~50未満
激しい雨   バケツをひっくり返したような
50以上~80未満
非常に激しい雨 滝のような
80以上~
猛烈な雨   息苦しくなるような


最近の常温核融合の研究


NHK:フランケンシュタインの誘惑「夢のエネルギー“常温核融合”事件」

昨日9.22.NHKで常温核融合の研究について、詳しく解説する番組を見た。

1)1989年3月23日にイギリスサウサンプトン大学マーティン・フライシュマンアメリカユタ大学スタンレー・ポンズが、この現象を発見したとマスコミに発表した。フライシュマンとポンズは、重水を満たした試験管(ガラス容器)に、パラジウムプラチナの電極を入れ暫らく放置、電流を流したところ、電解熱以上の発熱(電極の金属が一部溶解したとも伝えられた)が得られ、核融合の際に生じたと思われるトリチウム中性子ガンマ線を検出したとしている。

フライシュマンとポンズによる常温核融合に成功したという報道は、結局不正な論文であった。

当時、私は、糸川英夫氏の科学技術講演をきいたが、資源が無限に手に入るエネルギ源で、未来は明るいと楽観的な評価をかたっていた。


2)しかし、その可能性を信じる一部の研究者たちが地道に研究を続け、徐々にこの現象の再現性が高まってきた。2010年頃から、米国やイタリア、イスラエルなどに、エネルギー利用を目的としたベンチャー企業が次々と生まれている。日本では凝縮集系核反応、米国では「低エネルギー核反応」という呼び名で、再評価する動きが出てきた。

アメリカでは、2011年に常温核融合に関連する特許を認可した。




これは最近のナノ技術により金属の分子間距離を縮小して、そのなかに重水素を収入するという技術であるという。日本でも酸化ジルコニウム・パラジウム合金を格子状のナノ構造にし、その構造内に重水素ガスを吹き込むと、常温で過剰熱とヘリウムが発生するという方式が研究されている。


3)東北大学でも、常温核融合の研究が進んでいるという。技術内容の説明は抽象的であったが、実は、東北大学に新設された凝縮系核反応共同研究部門は、クリーンエネルギー分野のベンチャーや研究室などに投資するクリーンプラネット(東京・港)が研究資金を出し、東北大学が施設や人材を提供するという形で2015年4月に発足した。

「核融合の際に発生する膨大なエネルギーを安定的に、安全かつ低コストで取り出せる道が見えてきたことで、欧米を中心に開発競争が活発化している。日本の研究者は、これまでこの分野を主導してきた実績がある。実用化に向け、国内に蓄積してきた英知を結集すべき」。クリーンプラネットの吉野英樹社長はこう考え、東北大学に資金を投じたのだ。




そのほかにも、世界角国で、常温核融合の研究は続けられている。実用化されるのは何十年先だろうか。


石原志乃武FB記事:9.21.

 九州大学で実証実験中の核融合炉の見学をさせて頂いたことがあります。核と聞くとそれだけで身構えてしまうのですが、核融合は要するに太陽の放射原理なので、事故があっても反応が停止するだけでメルトダウン無し、放射能も実質影響無し。極端に言えば街の真ん中にあっても大丈夫なもので、素晴らしいと思いました。

まだ技術的にはクリアすべき課題も多いそうですが、再生型エネルギーに多くのエネルギー量は期待できず、かといって従来型の原発では大きな危険と隣り合わせということであれば、この技術に期待すべきことは大きいのです、政策論争にも出てくるようになった核融合炉、多くの生徒・学生に知らせ、正しいエネルギー利用の在り方を共に考えていきたいと思います。




2021年9月22日水曜日

世界遺産「大足の石仏」と、数珠手観音

 令和3年9月に中国重慶の世界遺産「大足の石仏」の近況がテレビで紹介された。四半世紀前に訪れた時は遺産登録まえで鄙びた田舎だったが、今は修復されて賑やかな観光地になっていた。


令和4年2月に、また大足の石仏の特集「大彫刻」ー石に魂をこめるーが放送された。


大足の石仏が世界遺産に登録されてから、街は観光事業に力をいれ、年間70万人以上の観光客がおとずれるようになったという。
私が昭和64年に訪問した頃は、2階建ての商店が並んでいて、ホテルも小さなものだったが、今は大都市化しで、高層ビルが立ち並んでいる。

大足区出身の石彫刻家が3万人もいるし、画家も沢山押し寄せてきているそうだ。


大仏像が有名だが、大衆に人気のあるのは、やはり観音像が一番らしい。

その中でも最高人気は、媚態観音と呼ばれるもの。



正式には数珠手観音とよばれる仏像で、11世紀の作品である。手の組みかたが大変魅力的だたら、俗名がつけられたらしい。

これをコピーした石造が、いま中国の高所得者に大人気で、数百万円で売れているそうだ


古墳時代甲冑と北部九州の出土状況と古賀市古墳の比較

古墳時代の鉄製鋲留板甲(短甲)と小札鋲留眉庇付冑東京国立博物館所蔵)。

1)弥生時代から奈良時代にかけて日本で制作、使用されていた甲冑が短甲挂甲である。

2)短甲は、腰から上(胴体・手と頭部)防御するための甲冑。全体が鉄でできており、この時代は鉄が大変貴重な物であったので、短甲は身分の高い人物しか身に着けることができなかったと考えられている。

3)そのあとに登場した挂甲は、短甲よりも丈が長く、部品の数も多くなったため、挂甲制作にはより高度な技術が要求された。

4)短甲が登場した当時、材質は鉄板のみが使用されていたが、時間の経過と共に鉄板を革で繋いだ短甲も登場してきた。

5)しかし、後期に作られた一部を除き、短甲には胴より下の箇所を守る「草摺」(くさずり)等は付いていはかった。

6)挂甲は、古墳時代の中期から奈良時代にかけて登場する。「小札」(こざね)と革を用いて作られた甲冑である。

小札」(こざね)または「札」とは、甲冑を構成している小さな短冊状の板のことである。その形は、正方形、長方形、三角形などがある。

短甲よりも柔軟性を持たせたことで、より動きやすく機動性にも優れていた。挂甲は前で引き合わせて着る形式の甲冑で、イメージ的にはコートを羽織るように着る

7)挂甲は体全体を覆うため、大量の小札に小さな穴をあけ、革で繋ぎ合わせることが必要。そのため、挂甲は一着作るのに大変な手間と時間がかかる。

古墳時代甲冑の形式名称は、奈良・平安時代の文献史料にある語を引用し、板甲に「短甲」、札甲に「挂甲」の語が当てられて成立したものであった。

8)短甲、挂甲の着用者が被るは、大きく2種類に分けられる。それが「眉庇付冑」(まびさしつきかぶと)と「衝角付冑」(しょうかくつきかぶと)。

眉庇付冑は、つばの付いている野球帽のような形をした兜で、非常に作る手間がかかりました。一方、衝角付冑は、シンプルな形状でより実用的な兜である。





 

9)用語の変化:

「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式挂甲」を表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式挂甲」を表している。

現在「短甲」と呼ばれているような板造り甲(帯金式甲冑)を示していないことが確実視されている「短甲」「挂甲」の語を使用し続けるのは不適切であるという意見もある。

(板物甲、小札甲)や、日本の帯金式甲冑と技術的に共鳴関係にある韓国南部の同形態の甲が「板甲」と呼ばれていることを参考として、「板甲」「札甲(または小札甲)」とするべきではないかと提言されており、これを使用する研究者が増加しつつある。

10)北部九州での甲冑出土の分布図

11)短甲と桂甲の年代変化

12)兜出土の古墳

           眉庇付兜             衝角付兜

永浦古墳の出土品


13)船原古墳の兜

この冑は「竪矧板革綴冑(たてはぎいたかわとじかぶと)」。

22枚の縦長の鉄板(竪矧板)が革紐で綴じられ、頭頂部に伏板が取り付けられている構造。

伏板には、冠帽と呼ばれる烏帽子形の装飾が施されていた可能性があり、これは社会的地位の高さを示している。

船原古墳調査指導委員会の副会長で、記者会見に同席した桃﨑祐輔・福岡大学教授は「朝鮮半島の新羅や百済のみならず、中国の北朝や隋の使節が見ても、一目で最上位の武人とわかる冑だったと考えられる」との見解を示した。




参考資料: