2022年8月31日水曜日

90代の死亡記事(ゴルバチョフ;稲盛)

 西側諸国との冷戦を終わらせたソ連最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ元大統領が30日、病気のためモスクワで死去した。91歳。タス通信が伝えた。

1980年代半ばに疲弊していた体制を立て直す「ペレストロイカ」政策に取り組んだが、結果としてソ連崩壊を招き、国内では批判にさらされた。一方でノーベル平和賞を受賞するなど外国では高く評価されて、皮肉な半生を送った政治家だった。



弊社創業者・名誉会長であり、KDDI株式会社最高顧問、日本航空株式会社名誉顧問、公益財団法人稲盛財団創立者の稲盛和夫は、2022年8月24日(水)、京都市内の自宅にて老衰のために永眠いたしました。生前のご厚誼に深謝し、謹んでお知らせ申し上げます。

なお、通夜および葬儀は近親者を中心に執り行われ、訃報のご連絡も法要後とさせていただきました。

また、ご遺族の強い意向により、ご供花、ご供物、ご香典、ご弔電、ご弔問等は固くご辞退させていただきます。何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

故人氏名 : 稲盛 和夫(いなもり かずお)
生年月日 : 1932年1月30日(享年90歳)
出 身 地 : 鹿児島県鹿児島市
死亡日時 : 2022年8月24日(水)午前8時25分
死  因 : 老衰

なお、後日、お別れの会を執り行う予定ですが、現時点で詳細は未定です。

90歳を超えると、死因は老衰が多い。天寿山への道すがら、96歳の老衰の身で生きているものにとっては、さびしいニュースである。100歳近くまでマスコミにとりあげられたのは、あの女流作家だけであった。

2022年8月30日火曜日

パラリンピック( Paralympic Games)

 オリンピックを前にして、オリンピックを前にして、パラリンピックの選手の紹介がよく報道されるが、かれらの努力に感銘する。

パラリンピックは、オリンピックにあわせてパラレルに開催されるからパラリンピックとよばれるという説もあるが、正式には違うようだ。
20世紀初頭から、散発的な障がい者スポーツの大会は記録されているが、この大会の起源とされているのは、1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされる。これは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものである。その後いくつかの経緯をへて1960年よりパラリンピックとよばれるようになった。
パラリンピック( Paralympic Games)は、paralysis(麻痺)とolympicsの合成語で、世界最高峰の障害者スポーツの総合競技大会となった。

それ以外にもパラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピック(Olympic)の造語とか、デフリンピック( Deaflympics)「ろう者(Deaf)+オリンピック(Olympics)」とよばれる時代もあったようだ。の選手の紹介がよく報道されるが、かれらの努力に感銘する。

パラリンピックは、オリンピックにあわせてパラレルに開催されるからパラリンピックとよばれるという説もあるが、正式には違うようだ。
20世紀初頭から、散発的な障がい者スポーツの大会は記録されているが、この大会の起源とされているのは、1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされる。これは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものである。その後いくつかの経緯をへて1960年よりパラリンピックとよばれるようになった。
パラリンピック( Paralympic Games)は、paralysis(麻痺)とolympicsの合成語で、世界最高峰の障害者スポーツの総合競技大会となった。
それ以外にもパラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピック(Olympic)の造語とか、デフリンピック( Deaflympics)「ろう者(Deaf)+オリンピック(Olympics)」とよばれる時代もあったようだ。

隔離病棟のレポート 内海信彦

  暗闇の隔離病棟には、絶え間なくさまざまな絞り出すようなうめき声と、唸り声、ため息、止まらないしゃっくり、便意を訴える声が聴こえています。皆、魂から絞り出される声です。命に関わる魂の絞り出すような小さな叫びです。この叫びのひとつひとつに込められているおじいさん、おばあさんの魂が、深夜の暗闇にある隔離病棟の中を駆け巡っています。看護師さんは、機械的にお仕事をされているのではなく、その魂の絞り出すような小さな声だけを頼りに、命と魂と意識の在り方を探究して守っておられるのです。

 今、看護師さんがマグライトで回診に見えました。小さな声で「大丈夫ですか?」とエンジェルに尋ねられて「はい、大丈夫です。ちょっと書きものをしているので」と答える私ですが、深夜、バックライトを落として何やら書いている私が、一番心配をかけているかもしれません。
 昼間の看護師さん方も同じです。看護師の皆さん方は若い方ばかりです。お医者さんも若い先生ばかりです。この社会が若い方たちに対して向けている眼差しでは、到底、この隔離病棟で格闘する若い看護師さんやお医者さんの想いを視ることはできません。昼夜問わず、暗闇の中に在る、隔離病棟の看護師さんとお医者さんたちには、本当に敬服させられています。一日中、心から温かくしていただき、さり気ない言葉に魂を揺さぶられるのです。
 死の淵にある方が少なくない隔離病棟に入っているお年寄りは、看護師さん地には、だいたいぶっきらぼうで、ため口で、ありがとうも言いませんし、ちょっとなあと思うこともあります。でも看護師さんたちは、見せかけの愛想や、マニュアル通りの優しさの演劇などしていません。すべて本気なのです。皮相な見方しかできない人が多い日本社会で、隔離病棟の暗闇で、どんなことにも即座に対応し、自主的にてきぱきと実践する看護師さんたちをマニュアルに従っているとしか思えない人もいるでしょうが、全く違います。
 この日本社会が学ばなければならないのは、暗闇の中で苦闘していながらも、向こう側にいつ発ってもおかしくないお年寄りの命に寄り添い、魂の絞り出すような小さな叫びに心を寄せる若い看護師さんたちの真実だと思うのです。寺院や、教会や、モスクに必ず伴われていた日常に中に在る祈りです。人類史は祈りによって成り立つ宗教の歴史です。

 医療の場に祈りが無いわけがありません。隔離病棟には沈黙する祈りがあります。祈ることを笑うものたちは、死の淵に際して何を想い、何を遺すのでしょう。資産や預金や土地など隔離病棟には持ち込めません。彼方に持って行くことなどあり得ないのです。言葉にして遺す、形にして伝える、音として伝承する、死の淵に際して最も必要な宗教と芸術が不在なのです。
 現実に存在する宗教と芸術は、壺を売り、聖典を買わせるカルト組織を嘲ることができるでしょうか。医療の場、終末の場、葬送の場に在る視えない祈りを言葉や形、音で表現する創造力と想像性の欠如が、欠如の想像を妨げています。

2022年8月29日月曜日

感情と涙の成分と横隔膜

 人は感情的になると涙が出てしまう生き物ですから、誰もが1度は涙を流したことがあるでしょう。

そんな涙ですが実は涙の味は感情によって変わってくるって知ってましたか?

涙の味は涙を流しているときに交感神経が働いているのか、
それとも副交感神経が働いているのかによって味が変わってきます。

交感神経が働いているときは悔しいときや腹が立っているときであり、
このときは塩辛くてしょっぱい味の涙が流れてくるそうです。

逆に副交感神経が働いているときは、嬉しいときや悲しいときのようで
涙の味は水っぽくて少し甘めの涙となるようです。

ちなみに、涙を生成するときは血液を原料として涙腺で作られていて、無色透明の涙は
血液と非常に似ているため、冷血動物 のような秀才官僚の涙は、甘くも辛くもない液体でしょう。

人間が怒ったり感情が高ぶったりしているときは、興奮をつかさどる交感神経が優位にはたらく。すると、腎臓からのナトリウムの排出が抑制されるので、涙の原料になる体液のナトリウム濃度が多くなる。そのため、怒りの涙や悔し涙は塩辛い

これに対して、喜んだり悲しんだりしているときは、感情が外に放出されて副交感神経のはたらきが優位になる。腎臓のナトリウム排出はよく機能するので、体液のナトリウム濃度は上がらない。そのため、うれし涙や悲しみの涙はあまり塩辛くはない。特に、感動のあまり流す涙は量も多いので、塩分濃度が薄く、水っぽい少しあまめの味がする。

涙には、プロラクチンや副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)、コルチゾールなどのストレスホルモンも含まれているので、泣くことによってこれらが体から排出され、脳内からは快感物質のエンドルフィンも放出される。泣くとなぜかすっきりした気分になるのは、このためである。

小学校3年生くらいまでは、よく泣いていました。4年生になったころ、男だからもう泣くまいと決心した記憶があります。

4年生から付属小学校に電車通学するようになり、家族以外の社会人と多く接するようになったのも、原因の一つです。

柔道の教科がはいり、スポーツ魂の基礎訓練 が加わりました。

詩吟や合唱曲などの大声での発生訓練も増えてきました。

人間の感情は、交感神経や副交感神経をとして涙の発生になる経緯には、横隔膜の振動があるそうです。横隔膜が強く発達すると、涙のコントロールも出来やすくなるようです。 

柔道や詩吟により、横隔膜が強くなって、あまり涙を流さなくなったようです。

 ただし高齢になると、また横隔膜が弱くなり、最近は涙もろくなってきたようだ。

2022年8月28日日曜日

日本海海戦と筥崎宮の大砲

日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊との間で歴史上に残る海戦が行われた。

この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上まれに見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼすべてを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた。

この結果は和平交渉を拒否していたロシア側を講和交渉の席に着かせる契機となった。

 115年前のこの日、東郷平八郎連合艦隊司令長官は開戦直前に旗艦「三笠」へのZ旗を掲揚し「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」というメッセージを全艦隊に伝えた。もしもこの艦隊決戦で敗れれば、東郷の言葉通り、「皇国は廃れ」てしまい、ロシアの属国になっていたに違いない。
バルチック艦隊が、極東に健在する唯一のロシア海軍根拠地のウラジオストクへの航路(コース)としては対馬海峡コース、津軽海峡コース、宗谷海峡コースの三コースがあった。




これについては、東郷司令長官はもとより、「智謀湧くが如し」と評された名参謀の秋山真之中佐(作戦担当)などが研究していたものだ。

秋山は、「焦慮細心は実行の要能である」というのが信条であり、「細心さ」の行き届かない軍人(指揮官・参謀)は戦争を企画・指導などできないと日頃から公言していた。その秋山が、これら三コースの可能性については、寝食を忘れて考究し、立案した連合艦隊の作戦計画は水も漏らさない完璧なものだったにちがいない。
 ○ バルチック艦隊が津軽海峡コースまたは宗谷海峡コースを通った場合
 当時は航空機による索敵などない時代なので、もしも対馬海峡を通らなけば、バルチック艦隊は日本連合艦隊の捕捉を免れ、攻撃を受けることなく津軽海峡・宗谷海峡までは行きつける可能性があった。
勿論、連合艦隊に抜かりはなく、バルチック艦隊が対馬海峡に来ない場合も想定し計画を練っていた。バルチック艦隊が対馬海峡に来ないことが判明次第、迅速に津軽海峡あるいは宗谷海峡に急行してこれを待ち受け、いずれかの海峡付近での艦隊決戦が起こったことだろう。
  〇津軽海峡及び宗谷海峡コースの場合は、バルチック艦隊の航行が遅延するリスクがあった。というのも、津軽海峡は機雷で封鎖されているので、損傷艦が出て、混乱している間に日本の連合艦隊に追いつかれて、補足される恐れがあったのだ。
また、宗谷海峡コースの場合も、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過する場合には、距離が長いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要があり、時間をロスするのは必至だった。

 〇バルチック艦隊は、連合艦隊が北上して津軽海峡及び宗谷海峡で待ち伏せするのを避けるためには次のような「策」が必要だったろう。
バルチック艦隊は、速度の速い少数の囮(おとり)艦隊(フェイント艦隊)を編成し、対馬コースを北上させ、日本の連合艦隊と接触したあとは、これを釘付けにする必要がある。
 連合艦隊が攻撃してきたら、逃げ、北進しようとすれば追撃するという、いわば、ゲリラ戦術がである。
 これを実行したとしても、バルチック艦隊のうち、どれほどの艦が残存してウラジオストックに入港できた(逃げ込めた)かは不明だ。
もしも、有力な艦隊戦力が逃げ 込めれば、対馬海峡・黄海経由の日本の兵站線(シーレーン)に一定の脅威を与えることができたことだろう。
 この津軽海峡・宗谷海峡コース案の特色は、対馬海峡コースに比べれば、「一か八かの大勝負」をせずに「生き残りを優先」した点である。

 そのぶん、日露戦争の戦局全体を決定づける効果――対馬海峡・黄海の兵站線(シーレーン)を切断して満州軍を孤立化させる――は得られなかっただろう。

 ○ バルチック艦隊による奇策――東京・大阪への直接攻撃




 ただ、想像逞(たくま)しくすれば、次のような奇策もあったのではないか。即ち、こういうことだ。バルチック艦隊を3つに編成する。第一グループは、前述の速度の速い少数の囮艦隊(日本連合艦隊を拘束する任務)。第二グループは瀬戸内海を経て大阪湾に向かう艦隊。第三グループは東京湾を目指す主力艦隊である。第一グループの任務については上述の通り。
 第二グループは豊後水道から侵入して、まず門司・下関を砲撃し、満州への軍需物資の積出港を破壊する。関門海峡を機雷封鎖することも必要だ。次いで瀬戸内海を遡上(そじょう)しながら山陽線を砲撃し、満州向けの兵站輸送を担う列車輸送にダメージを与える。呉の海軍工廠(こうしょう)(当時、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場)も砲撃・破壊する。最終的には大阪湾に入り、海軍陸戦隊を応急に編成し、大阪(可能なら京都も)を占領する。日本の連合艦隊の攻撃に対しては、大阪市民を人質にとって対処する、というものだ。石炭や食料・水などは「現地調達」による。勿論、海賊のように略奪するわけではなく、ルーブルや金を支払って「購
入」するのだ。バルチック艦隊には貴金属のインゴットなどを積んだアドミル・ナヒモフ号が随伴していたのだから。
 第三グループは東京湾口から侵入して、先ずは横須賀海軍基地・海軍工廠などを砲撃する。一隊を湾口に残置して、日本の連合艦隊の攻撃に備える。主力はさらに東京湾に侵入し、皇居を射程圏に収め得る水域に侵入する。海軍陸戦隊を応急に編成し現在の港区付近の要点を占領し、日本政府との交渉拠点を設ける。石炭や食料・水などは「現地調達(強制的に購入)」による。
このような「不敗・人質」態勢確立後、ロシア本国からシベリア鉄道~ウラジオストック~舞鶴経由で、ニコライ二世勅任の外交交渉団を速やかに派遣してもらう。大津事件で日本に遺恨を持つニコライ二世は、この挙を成し遂げたロジェストヴェンスキー提督に満足したことだろう。
 このような「奇策」を採用していれば、バルチック艦隊は対馬沖で海の藻屑(もくず)にならずとも、生き残るだけではなく、損害を最小限にして敵(日本)の策源地にダメージを与えるどころか帝都(天皇)さえも人質として外交交渉に持ち込めたことになる。
 日本は、昔も今も、極めて危うい安全保障環境の中にある。

しかし実際のバルチック艦隊は、長旅の疲れを背負いながら、津島海峡を通過する作戦を実行した。

ぎりぎりまで待ち受けた東郷元帥の日本連合艦隊は、有名なT字作戦で見事にバルチック艦隊を大破させた。

ロシア艦隊 38隻中 21隻を撃沈。
戦死者約5000名。捕虜は総司令ロジェストヴェンスキー含め約6000名。
日本側の被害は沈没 3隻。
戦死117名だった。
設立二百年のロシア海軍を設立数十年の日本海軍が、その時討ち破った。
それが日露、日本海海戦だった。

襲来したバルチック艦隊を迎え撃つ戦場となったのは対馬沖だった。
ここで「丁字戦法」東郷ターンと呼ばれる艦隊展開が海上に現れる。
敵前方に対し軍艦の横腹を見せることは、的を大きくし自滅するリスクと、主砲、艦隊砲の全面砲撃を浴びせることのできるメリットが共存する。
東郷平八郎は「Z旗」=「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮闘努力せよ」を意味する旗を掲揚し、約2分間で12発の砲撃を浴びながらも横腹を向けた。
「Z旗」掲揚の決意の通り、この一戦に敗北したら日本海はロシア領海とされるばかりでなく現在の北方領土どころではない国土割譲、いや占領もあり得た。
当時の軍艦はまだ石炭をくべる蒸気式軍艦だった。地中海ジブラルタル海峡向こうからアフリカ大陸喜望峰を周り、大量の石炭、真水、食糧を積み込み、途中補給も繰り返し7ヶ月もかけた長期航海をしてバルチック艦隊は対馬沖までやって来た。




ロシア兵が疲弊する間、迎え撃つ日本は海戦演習を繰り返し、前哨戦となった旅順からのロシア艦隊をバルチック艦隊に合流させないための初戦にも勝利し実績経験をも積んでいた。
そして世界中を驚かせた「30分」が始まる。前方を突き合わせ近づき合った双方艦隊のまみえる対馬沖で、突然の旋回を日本海軍は見せる。無防備な横腹を向けた回頭ターンで2分間の砲撃を耐えきったあと、艦砲総砲撃を開始! ロシア砲弾発射数9,050発、日本発射数11,159発の猛攻撃の応酬で進路を変えられずに突っ込んで来たバルチック艦隊は次々と対馬沖に沈んでいくこととなった。


日本海海戦での砲撃の音は、箱崎や津屋崎でも聞こえたという。現在は、南懐仁の大砲が筥崎宮に保管されている。




戦前は海岸近くの参道に日露戦争に使われた巨大な大砲も備えつけられていた。
私の小学生のころは、箱崎の白浜で海水浴のときは、その大砲の上で記念写真をとっていた。
戦時中に鉄不足で、解体されてしまった。
南懐仁の大砲




2022年8月27日土曜日

湯布院盆地

 湯布院盆地は大昔湖であったそうで、水の神様宇奈岐日女が水を引いて盆地にしたという。その神社が別名六所宮で、この周辺に由布城があったそうです。

お社のまわりは池でかこまれて、大きな鯉が沢山泳いでおり、境内には巨木の根も祀られていました。



2022年8月26日金曜日

皮下出血(皮下溢血)が治らない?

 皮下出血は一般には打ち身によって皮膚におこる出血を意味しており、皮下溢血(いっけつ)ともよばれている。病理学的には、皮膚の真皮や皮下組織にある毛細管や静脈の周囲におこる出血で、出血の面からいえば点状出血の形をとる場合が多い。


私のように血液さらさらの薬を飲んでいる老人などは、軽い打撲などでもよく皮下出血する。

普通は1週間くらいで解消するが、今回は2週間たっても解消しないので、病院でみてもらった。強い打撲の記憶はないのに、出血範囲が広がっていくので、動脈の破損などおきたのではないかと、不安になったからだ。

打撲部の血管部分をエコーカメラでみると、もう固まっているから、あと1週間もすれば解消するだろうと診断され、久光製薬の湿布テープを多めにもらった。

高齢者は1ケ月も解消にかかることもあるそうだ。若いドクターだったが、医師の説明をきくと、なんとなく安心するものだ。

お笑いヨガ

 お笑いヨガの流行をテレビで知ったのは大分以前だ。先週はじめてその教室を体験した。グループでむりやり大笑いして笑顔をつくればストレス解消し、いいホルモンが出るというが、身につくには2,3年かかるそうだ。

わが家の大黒さまの笑顔を拝みながら密に笑うことにしよう。


中川宮(今の久邇宮)

 大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場する数少ない皇族:中川宮・朝彦親王。

大河ドラマでは、薩長同盟・倒幕を目指し西郷吉之助らが奔走する中で、この朝彦親王は岩倉具視からは「曲者(クセモノ)」呼ばわりされて警戒されている。
岩倉具視の懸念どおり朝彦親王は一橋慶喜と裏で繋がっていて、一時的に吉之助を追い詰めることになるが、これはどうも確実な史実ではないようだ。
慶応3年王政復古の大号令によって倒幕派・尊王攘夷派の公家・三条実美、岩倉具視らが完全に力を取り戻すと、公武合体派だった朝彦親王は広島藩に預けられ政治の表舞台から姿を消したが、明治維新後に、謹慎を解かれて宮家の一員に復帰し、明治8年に、新たに久邇宮家を創設し、伊勢神宮の祭主に就任。神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始するなど政治以外の部分で活躍し、明治24年に死去した。
中川宮は今の久邇宮であり、昭和天皇の皇后(香淳皇后) は、中川宮のお孫さんであり、また島津久光のお孫さんでもある。
そのあと、弟の秩父宮妃は松平容保の孫、高松宮妃は徳川慶喜の孫と、公武合体?が続いた。

2022年8月25日木曜日

明日香の古墳群

奈良の明日香村には400以上の古墳がある。20年以上前に何回か訪問したことがあるが、

最近新しい発見が沢山あったそうだ。

昨日の歴史探偵では、飛鳥の古墳ツアーで、その概要をわかり易く説明してくれた。 



古墳の形は、四角形と、八角形と、円形の3種類がある。


四角形の古墳は、すべて蘇我氏の作った古墳で、初期のものである。


645年の乙己の変以後の天皇の古墳は、すべて八角形に作られている。唐の國の影響らしい。


天皇の子供たちの親王や皇子の古墳は、争いがないように円形につくられたという。

天気図の前線(陣線)

 天気図の前線を昔は陣線といっていた。

前線は近づいてきてやがて去っていく感じだ。今年の前線は陣取って居座り、なかなか動かなかった。
昔の陣線の名前のほうが適した言葉だ。

船の木材:楠

 お名前のTV番組で、杉は桶や樽、松は松明、柳は堤防、楠は仏像、樫は木刀など、それぞれの特徴を生かして使用されていることを紹介していた。

現在木造船が少なくなったので、船の話はなかったが、日本書紀のスサノオノミコトの説話では、日本は島国だから船がなくては困る。そこで、髭をぬいて杉にし、眉毛をぬいて楠として船にせよ、胸毛をぬいて檜とし宮殿にせよと教えたという。考古学的にも近畿の古墳時代の船は殆ど楠であることが判っている。
古事記、日本書紀には53種の樹種の記載があり、古代から日本人は樹木と深いかかわりを持っていたことがわかる。


長沢鼎

 明治4年、武士の秩禄処分の資金調達で欧米を回った吉田清成、大鳥圭介。

その吉田清成と一緒にイギリスに密航留学したのが長沢鼎だった。
薩摩藩が派遣した青少年たちの中で最年少。
森有礼の命令で、そのままイギリス、アメリカに残置される。
そして、アメリカでワイン王となる。
サンフランシスコの北東の


平松知事と大友宗麟

 故大分県知事平松守彦氏の「一村一品運動」は有名である。今日の新聞によると、「豊後水道」という演歌は、阿久悠さんにたのんでつくってもらったものだったという。

以前私がかってある企業の研修センターが国東半島にできた披露式のとき、知事と同席して聞いた話では、大分の大河ドラマをつくるため、大友宗麟の小説を遠藤周作さんに依頼した。
出来上がった小説「沈黙」が、宗教色が強すぎたため、大河にはならず、正月3日間の特別番組になったそうだ。心から大分を愛した人だった。

(1966年に出版された遠藤周作(1923~96年)の「沈黙」はキリスト教禁制下の日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴを主人公に「神の沈黙」に切り込んだ。キリシタンがすさまじい拷問を受け、殉教していくのに神は何もしてくれないように見える。だが、本当にそうなのか、と問い掛ける。)


現在の大分県知事は、平松さんと同じ通産省出身の、広瀬淡窓のご子孫のかたが務めておられる。




2022年8月23日火曜日

アルファベットの略語

 最近はやたらとアルファベットの略語が乱発されている。

aを頭に二文字だけみても、
50年前の略語辞典では、aa,ac,ad,ae,af,am,aq,av
20年前になると, aa,ac,ad,a/d,ae,af,ai,al,am,ap,aq,as,at,au,av
しかもacは、交流(alternating current)から適応制御(adaptive control)に、adは西暦紀元(anno domini)から現金自動預け入れ機(automatic depositor)に変わっている。
最近は、acジャパンなどもあり、adをやっていたと言う人物が、art directorのことと分かる迄時間のずれがあった。
三文字、四文字の略語になると、さらに分からなくなり、スマホの厄介になる。
戦時中、アメリカに勝ったら、すべて日本語教育を徹底して、英語を使わなくても良い時代が来るから、英語の勉強は不要だと豪語していた教師もいたが、負けたので、その逆の時代になった。
台湾では、日本語の魅力が低下し、学ぶ若者が減少しているという。日本語はどんな形で生き残るだろうか。

2022年8月22日月曜日

サイバーテロ

 防衛大臣がサイバーテロに対する防衛専門組織をつくるという発表をしたようだ。

今やサイバーという言葉が、広く使われるようになったが、昭和30年頃の英語辞書には、cyberという単語がない。昭和40年頃になって、少し取り上げられはじめた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、サイバーは、
・「コンピュータの」「インターネットの」等を指す接頭辞 (例:サイバースペース、サイバーテロ等)
・学問の一種であるサイバネティックスのこと
・サイエンス・フィクションのジャンルであるサイバーパンクのこと
・CYBER - PINK (バンド) のアルバム
・CYBER - ゲーム周辺機器メーカーサイバーガジェット社及び同社製品。
など列挙されている。
このなかで歴史的には、サイバネティックスが最もはやく、サイバネティクス理論とは、アメリカの科学者でマサチューセッツ工科大学の教授だったノーバート・ウイーナー博士が1948年に発表した理論である。
ノーバート・ウイーナー博士は、生物と機械の間には情報のやり取りやコントロールの仕組みなどに関する類似性があることに着目をし、自然から人工機構までを含めた多種多様な学問領域が協力して取り組んでいく新しい研究課題への道を切り開いた。
これをギリシャ語の「舵取り手」の言葉からとって、サイバネティックス理論と名付けた。
インターネット上の「サイバー」とは「サイバネティクス」を略した言葉である。
ウイーナー博士は、「18世紀の産業革命で、人間と機械の競争で機械が優位にたち、その後のコンピュータ技術の革命で、さらに人間の将来は危うい」という哲学的な危機意識を強くもっていたと言われている。
しかしサイバーテロなどという言葉がうまれ、こんなに広く使われるとは夢にも思っていなかっただろう。



沖ノ島の信仰

 神宿る沖ノ島の信仰を、九大に留学中の女子研究者がしらべていることがテレビで紹介された。

彼女は沖ノ島信仰は一度途絶えたように考えているが、西谷先生は漁民により受け継がれたと説明していた。

国や権力者による信仰が宗像氏貞の死により途絶えたとはいえない。
江戸時代の黒田藩では、宗像宮に社領50石を寄進し、光之の時代に荒廃した社殿の再興をおこなった。さらに「沖ノ島番役」をおき、この御番を勤めた一人青柳種信は、在嶋4ケ月、「防人日記(沖ノ島日記)」に沖ノ島の実情を詳しく書いて、島の実情が世に知られるようになった。また「宗像宮略記」も書いている。
また図のように江戸時代中期に社殿も増設されている。









福岡歴史散歩:清田案

 12月1日(木) 紅葉の楽水園で「利休と博多」

矢倉門跡・博多区役所集合→房州堀東林寺住吉宮→(昼)「楽水園」
1月14日(土)志賀海神社勝馬詣と綿津見三座巡拝/志賀島参拝集合→禊ノ瀬→胴舞神事→休暇村志賀島昼食→勝馬
2月17日(金)jrうみなか線と志賀島航路で「梅」の香椎宮・宇美八幡・志賀海社巡拝
3月第1週 うみなか青年の家主催カヌートレイル
3月30日(土)臥龍サクラの名島城多々良川カヌー
4月1日(月)サクラの福岡城とロイヤル花の木ランチ「古図・古画で観る福岡城」
4月15日(土)山誉ツアー orうみなか青年の家主催?または、使用
5月2日(火)家康と官兵衛・長政1 /街歩き・講演テーマ「官兵衛・長政のキリスト教と家康」/崇福寺→濡れ衣塚→石堂口・海元寺→呉服町交差点→福岡藩製錬所跡碑→アクロス石垣→枡形門跡→勝立寺→昼食・赤煉瓦館
5月27日(土)カヌー・勝馬トレイル
6月2日(金)家康と官兵衛・長政2・/街歩き・講演テーマ「欠損・黒田近江源氏系図と家康」/崇福寺亀山上皇像→日蓮像→赤幡坊跡→筥崎八幡一の鳥居→恵光院(菩提樹祭)→昼食・福岡県立図書館
7月12日(水) 家康と官兵衛・長政3/講演会・於.冷泉荘「家康承認の官兵衛の九州関ヶ原戦」&集団山見せ
8月21日(月) 家康と官兵衛・長政4/講演会・於.冷泉荘「長政の関ヶ原工作と官兵衛〜一戦仕り候〜の真意」&大楠様千燈明お参り
案9月9(土)多々良川カヌートレイル、海上からの名島城・多々良大橋・水上飛行場跡etc
10月半ば、香椎宮境内末社・摂社詳細巡拝と流鏑馬観覧
9月29日(金) 〔旧暦8月15日〕街歩き・jr香椎神宮御飯山城跡・二神神社跡→閻魔堂→不老水→報恩寺古宮香椎宮貞明皇后碑→万葉香椎潟三首碑→社浜男・昼食→香椎宮御島神社例祭参列[15:33]
11月15日(火) 山誉ツアー orうみなか青年の家主催?または、、、
12月1日(木)家康と官兵衛・長政5 /街歩き・講演テーマ「官兵衛・長政、福岡築城と天守破壊の書状と家康」
福岡城追廻し門→武具櫓→多聞櫓→月見櫓→名島門→ 旧母里太兵衛邸長屋門→伝潮見櫓→下の橋御門・昼食/講演・福岡中央市民センターor大濠公園日本庭園or福岡市美術館会議

アンダーラインは、見学した記憶のある場所。

アンダーラインの無い場所は、ネット検索で、調査してみることにした。