古賀市千鳥小学校卒業の比江島 慎選手の バスケットボール ワールドカップ 2023
出場は、市役所に大きく掲示されていた。
中学は強豪百道中に進み、高校は洛南高、大学は青山で活躍。
今回の第1戦ドイツには敗北したが、第2戦フィンランドには競り勝った。
最年長の比江島選手の活躍もすばらしく、今朝の新聞でも大きくとりあげられた。
ここからロングシュートを決める |
追記:ついにアジア代表として、五輪に出場することに決まった。
地球内部の基本構造は、地殻・マントル・コアの3層
コアは外核(液体)と内核(個体)に分離
マントルも上部と下部に分離
パレンバン奇襲と大東亜戦争
『筑前國続風土記』によれば、元応2年(1320)に開基された。開山は乗阿上人。
寺号の由来は、施主が稱阿・名阿という父子であり、その父子の上の字をとって稱名寺となったという。 当初は博多土居町にあり、大正9年(1920)に現在地に移転した。
小学生の頃は、寺の境内で遊んだりして、大仏の姿をよく覚えているが、中学時代に戦争で、金属回収のため姿を消した。
伊藤氏メモ福岡市博物館の発行している『企画展示解説445号』に次のような記載がある。
称名寺の「伝教大師坐像」は、かつて同寺境内にあった「博多大仏」に付属する「八宗開祖像」の一躯で、銘文から福岡仏師の高田又四郎良慶(1847-1915)が明治37年(1904)に製作したことが分かる。
又四郎は日本の伝統的な仏像様式と明治期に西洋から学んだ写実表現を融合した仏像を残したことで知られている。 晩年に製作した佐賀県基山町瀧光徳寺の「弘法大師坐像」にもその作風がよく表れている。()
伊藤氏メモ九州俳壇の重鎮・河野静雲が、称名寺に寓居していた昭和16年(1941)に刊行された句集が『閻魔』である。大正5年(1916)から昭和15年まで『ホトトギス』や『俳諧』などに掲載された句から、高浜虚子が選んだ600句が収録されたものである。
虚子は静雲に対して、句に滲む人生観が気に入ったと語っている。
我が家にも、静雲の書「熟慮」の大きな額があったが、戦後のどさくさでなくなった。
ロシアのプーチン大統領は、「ウクライナは歴史的にロシア領土であった」と主張している。
歴史的にというのは、何時頃の時代をさしているのか、調べてみた。
人類史の起源は、四つの大沖積平野からはじまる。4大文明の時代では、欧州やロシアは未文明の地だった。
エジプト文明とメソポタミア文明が合流したアケメネス帝国が、紀元前6~4世紀には黒海周辺まで領有して、ウクライナ地区に文明が発生した。黒海は地中海の奥座敷として交易が発達していた。「キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。
キエフ・ルーシを形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つです。
東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウの始まりだとされています。
その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移し、キエフ・ルーシを建国しました。
キエフ・ルーシがヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ・ルーシは商業を重視して富を得ていたと考えられます。
例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。
その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。
キーウ(キェフ公国) |
キーウ公国 |
最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは諸原因で衰退過程に入っていたようです。
これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。
こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。
初回放送日: 2023年7月26日 録画すみ。
新発見が相次ぐ古代史。今、ホットなのが古墳だ。
蛇行剣の発見で注目の奈良・富雄丸山古墳。なぞの4世紀の古墳。
現代アートのような九州の装飾古墳。
日本各地の古墳を訪ね、古代史の謎に迫る。
福岡第一飛行場(ふくおかだいいちひこうじょう)は、かつて逓信省航空局が福岡県糟屋郡和白村(現在の福岡市東区)雁ノ巣に設置した飛行場。通称・雁ノ巣飛行場(がんのすひこうじょう)。
大日本航空によって朝鮮、台湾、中華民国、東南アジアへの路線が運航され、戦前における国内最大規模の民間飛行場であった。
叔父が大日本航空のパイロットだったので、中学生時代に飛行場やDC2旅客機の見学をさせてもらった。当時は箱崎の我が家の2Fから、旅客機の発着がよくみえていた。中学時代の友人も遊びに来た時の記憶は、雁ノ巣の飛行場のことが多い。
1929年(昭和5年)から大刀洗陸軍飛行場で民間の定期便が運航されていたが、大刀洗は福岡市街地と離れていて利便性が低かった。
当時福岡市近辺には水上機専用の福岡飛行場 (名島水上飛行場)があったが、陸上機の運用が可能な飛行場が求められたため、市周辺の候補地を調査・選定し、1934年(昭和9年)雁ノ巣に決定した。
1935年(昭和10年)1月に着工、総工費59万円を掛け、敷地面積59万平方メートルに滑走路(600×30m)1本、海岸に水上機の滑走台(80m)と格納庫2棟が整備され、翌1936年(昭和11年)6月1日に開港した。
「昭和11年10月現在で東西550m、南北800mの滑走区域」と記載されている資料もある。福岡 - 那覇 - 台北を開設、翌年には、東京 - 福岡 - 京城 - 新京の急行便を開設した.
叔父は台北や新京によく出かけていた。
1939年(昭和14年)からは博多湾鉄道汽船粕屋線(現在の香椎線)の線路を北側に移設するなど3カ年計画での大規模な拡張工事が行われ、総面積は開港時の倍以上の135平方メートル、滑走路は800m級2本の交差型となり、朝鮮・満州・台湾などへの中継地や国防上の要衝として重要度を増して行った。
拡張工事の土木作業に、学徒動員で出かけたことが何回かある。
1940年、福岡にレンジ・ビーコンが設置された。太平洋戦争中は海軍航空隊が置かれるなど実質的に軍用空港となった。
わたしは、海軍航空隊に、学徒の体験入営として、半月ほど訓練を受けた。カッター漕ぎや内火艇の操縦などを体験した。
叔父は軍属として海軍輸送隊に徴用され、ボルネオの落下傘部隊のリーダーとして働き、その後シンガポールに本拠地をおく海軍輸送機隊の隊長となっていたが、終戦前に戦死した。すでにアメリカではプロペラのない飛行機ができたことなどを話していた。
軍刀を手にしているのが叔父 |
戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」(Brady Air Base、施設番号・FAC 5006)の名称で主に輸送部隊の飛行場として使用されたが、1961年(昭和36年)の日米合同委員会でキャンプ博多・ブレディ飛行場・西戸崎通信施設の三施設を統合し、「雁ノ巣空軍施設」(Gannosu Air Station、施設番号・FAC 5005)として在日米軍に提供することが合意された。
1955年 (昭和30年) 時点での滑走路は 1280m x 45 (スチールマット) および、1158m x 30m (アスファルト) であった。また、朝鮮戦争後は一時的措置として自衛隊が落下傘降下訓練(香椎駐屯地を参照)に使用したほか、西日本空輸や福岡県警などのレシプロ機やヘリコプターが滑走路や格納庫の一部を共同使用していた。
1965年(昭和40年)から飛行場区域内に通信傍受用の大型アンテナとオペレーション施設の建設が始まり、共同使用の停止とともに滑走路の舗装が撤去されたため、事実上飛行場としての機能は終焉した。
通信施設は1966年(昭和41年)2月に完成し、第14陸軍保安局フィールドステーション(14th U.S. Army Security Agency Field Station)、海軍保安群博多部隊(Naval Security Group Activity, Hakata)、空軍第6918保安中隊(Air Force Security Service 6918th Security Squadron)などアメリカ3軍の諜報部隊が共同で北朝鮮方面の軍事(電波)情報の収集・分析活動を行っていたが、アメリカの国防予算と海外展開兵力の削減によって施設は閉鎖され、飛行場部分は1972年(昭和47年)、雁ノ巣空軍施設全域は1977年(昭和52年)に返還された。
跡地は運動公園やゴルフ場などに変わった。