2021年12月12日日曜日

太平洋戦争開戦前夜

戦争の遠因:

明治37年(1904年)の日露戦争で日本はロシアに勝利し、満州での権益を手に入れた。これは中国に権益を持つイギリスや、中国の権益を狙うアメリカと対立を引き起こす羽目に。
さらに第一次世界大戦で日本は連合国側に立って参戦し、東アジアおよび南太平洋のドイツ領を攻撃し、これを手に入れたが、これにより、フィリピンを植民地とするアメリカと太平洋で対立することに。
さらに日本政府は中国に山東省の旧ドイツ権益を譲渡さたが、中国との対立も起きた。

目ざましい勢いで進出する日本を抑制するため、大正10年(1921年)英米はワシントン体制を確立。ワシントン軍縮条約で日本の主力艦の保有数を制限し、日英同盟も破棄されることに。
さらに9ヵ国条約で日本が得たばかりの山東省の旧ドイツ権益を破棄させ、これにより英米と日本との対立が本格化した。





1939年9月1日にヨーロッパで勃発した第2次世界大戦で、ドイツはフランスを占領しイギリス本土を空襲するなど、その勢力を広げていた。

1940年9月23日 日本軍が北部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)への進駐を始める。ドイツ占領下だったフランスのヴィシー政権はこれを承認。

当時の「日本ニュース」は、一部仏印軍との交戦を経たが「平和的進駐」だったことを強調している。日本の目的はアメリカやイギリスなどが蒋介石政府を支援する「援蒋ルート」を断つことだった。

しかし、このことがアメリカにとって許せない一線を越えた。

それまで段階的に日本に対して輸出を止めてきたアメリカは、石油や鉄といった、戦争遂行に必要な資源を含め、すべての物資の日本への輸出をストップした。

この動きにイギリスやオランダなども加わり、実質的に欧米諸国からの日本への物資輸入はほぼすべてストップした。

1940年9月27日 日本・ドイツ・イタリアが同盟を締結。当時の「日本ニュース」は、世界新秩序の建設を担うと伝えている。

日本が日米開戦へ向かう前提として、ヨーロッパでのドイツの勝利があった。そのドイツの勝利を日本が信じた理由に、ヒトラーの信頼が厚い駐独大使・大島博からの情報。

ドイツ・イタリアがヨーロッパの大部分で勝利をおさめ、イギリスも苦境に立たされていたことから、当初アメリカは太平洋方面で日本と戦うことは好ましくないと考えていた。

しかし、1941年6月にドイツがソ連との間で結んだ不可侵条約を破り、突如ソ連に対して攻め込んだことで、アメリカはソ連を連合国側に引き込むことで、日・独・伊を中心とする枢軸国に対抗できると考えた。

当時のアメリカ大統領ルーズヴェルトは、大統領選挙の際にアメリカは他国の戦争には参加しない、と国民に約束していたこと、さらにアメリカ国内の人々の意見として、他国の戦争に関わりたくないという意見が根強くあった。

そのために、ルーズヴェルトは自ら戦争に参加すると言い出すことが難しく、戦争に参加する理由を探していた。だから好都合だったのが、日本を挑発し、日本から戦争を仕掛けさせることであった。

ドイツに友好的なリンドバークの開戦反対や、渋沢栄一ら民間人の友好関係復活活動なども行われた。

1941年1月7日(火)連合艦隊司令長官山本五十六が真珠湾攻撃の作戦案を海軍大臣に提出。

元駐米武官でアメリカを知る山本。作戦目的は開戦時に大打撃を与え相手の士気を失わせることだった。ただ戦えるのは2年程度としっていた。

内閣では、大本営政府連絡会議(第二次近衛内閣の時は、連絡懇談会と改称。後に連絡会議に戻る。)が何回も開かれる。当初の会議では松岡外相はドイツ、イタリアにソビエトを加えて、アメリカと対抗しようと考えていた。これは、大きな誤算であった。

1941年12月の会議メンバー写真


この会議で、論議された項目は多岐にわたるが、内容は貧弱であった。


日米軍事力の比較予想図

石油の減少予想図(赤線はインドネシアの石油入手予想))


輸送船の増産予想図(一人の技術将校が目的も知らされずに計算した資料が会議に)

前述の如く、昭和15年(1940年)9月23日、日本はまず北部仏印に進駐。
イギリス・アメリカが妨害するが日本の南進は止まらず、ここでアメリカは日本への石油その他の物資輸出を全面禁止するという措置に
近代国家の血液ともいえる石油がなくなれば、海軍は2年以内に行動不能となり、重要な産業は1年以内に生産を停止することになる。
日本の命運が明らかになり、「これならばいっそ」と対米戦争は決定的な状況に。
太平洋戦争の直接的な引き金は「石油」だった

1941年9月6日 第六回御前会議

陸海軍は石油禁輸について全く想定しておらず、蘭印当局との日蘭会商も再開の見通しが立たなくなった。9月3日、日本では大本営政府連絡会議において『帝国国策遂行要領』が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衛は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日アメリカ合衆国国務省日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

9月21日、英米ソにより第1回モスクワ会談が開かれた。

アメリカはソ連への援助を発言し、10月21日には「大量の軍備品を月末までにソ連に発送する」旨の公式声明を発表した。また、アメリカは「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」とも主張していた。

戦争の決断を迫られた近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衛内閣は総辞職する。後継の東條内閣は10月18日に成立した。

1941年11月5日 第七回御前会議

11月1日の大本営政府連絡会議では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の『帝国国策遂行要領』が改めて決定した。その後11月5日御前会議で承認された。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。

軍人内閣での論議では、中国からの全面撤退などの米国の要求を受け入れることはできず、講話条件の論議すらなく、まして原子力爆弾の出現など皆無であった。

原爆を投下した米軍人


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