2025年7月31日木曜日

三角波対策の歴史

 三角波(さんかくなみ)とは、進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、三角状の、波高の高い波のことである。波の峰がとがっている

例えば、暴風の中心が通る水上などに起こる。暴風域のいたるところで波が発生しているため、それらの波が全て様々な角度で重なりあうためである。また、絶壁や防波堤などの近くでも生ずることがある。入射波反射波が重なりあうためである。また、潮流の向きとの向きが反対の場合にも生じる。

船乗りからは大変恐れられている波である。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ揺れ幅がみるみる大きくなったり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられるようなかたちになり、突然安定を失い沈没させられてしまうことがあるためである。

中程度以上の大きさをもつ安定した船であっても、あっけなく沈没させられてしまうことがある。経験豊富な船乗りでも打てる手はあまり無く、できることと言えばせいぜい三角波が生じそうな海域には近付かないこと、また入ってしまった場合はその海域から早く脱出すること。 また、転覆や沈没が避けられない状態に陥ったら、敢えて船体を座礁させることくらいしかない、と言われている。日本列島の近海では、東北地方の東海域に多発し、船舶被害も多発していた。明治時代には、外国から輸入した軍艦が三角波で折れて、沈没した事件もあった。

このあたりの海底の地形も複雑で、今回の津波の到来も複雑であったから、三角波に関係しているかもしれない。


九州大学造船学科の組織に属する応用力学研究所で、三角波の造波機をつくり、三角波に強い船体の構造を研究する計画が、昭和30年代後半に、津屋崎の敷地内で始まった。
安川電機の社長安川寛は、東大工学部機械学科の講師だった時代に、栖原教授のもとで学位をもらい、父安川清三郎の急死で、安川電機の社長に就任し、その後栖原教授を研究所顧問に招いていた。
栖原顧問の息子さんが九大の教授で、三角波の造波機開発の担当者だったので、その制御装置の製作を、安川電機に依頼された。
特殊な装置なので、事業部では対応できず、研究所の私の研究部隊が制御装置や駆動装置の設計、製造を担当し、無事三角波を発生させることができた。
当時国内は初めての装置で、海外でもまだ無かったようなので、多くの見学者が来られた。

その見学者の一人に、長崎海洋気象台の石黒鎭雄さんがおられた。

 
明治専門学校(現九州工業大学)電気工学科出身ということで、私も非常勤講師をしていたので、記憶に残っていた。電気屋は波の形をフーリエ変換してエネルギー計算するのが得意で、その成果が認められ、英国のNIO研究所からの招聘をうけて、英国で北海の波の研究に専念されることになった。

当時1954年生まれの長男の一男さんは5歳であったそうだ。すっかりイギリス人として成長した一男さんが、ノーベル文学賞の作家となったので、父の鎭雄さんも[時の人]となった。

九大の栖原教授たちが、NIO研究所を訪問し、石原さんの研究装置を見学したさいの写真がネットで紹介され、晩年の写真も紹介された。



87歳で亡くなれたそうである。

最近では、三角波による事故のニュースも無くなったようである。



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