2025年12月11日木曜日

夢野久作の背景

 杉山茂丸 と 大島ホトリが結婚して、夢野久作が生まれるまでの流れと、夢野久作の想い。

高夢野久作の実母は、大島家の娘で、大島ホトリと申しました。大島ホトリは、黒田藩の馬廻役二百石の大島義賢の長女でありました。
 大島家は、西公園の西南麓にあります、旧福岡師範学校の敷地の大半が本来の場所であり、福岡師範学校が設立された後、その南側の道路の南側の角に当時、邸があったということです。
(もしかしたら、現在 #福岡教育大学付属小学校 中学校 があるあたりなのかもしれません。町名で申しますと、荒戸町五番丁であります。)
彼女は、小学校時代から中々活発な少女であったようで、当時、呉服町に初めて出来た小学校に荒戸町から歩いて通学しました。
当時、呉服町の角に人力車夫の溜り場があり、これを立場(たてば)と申していました。彼女は、そこにいた気の荒い人力車夫の連中から、
「ほうら、大島のお転婆娘がいきよる」
 とヒヤかされた程であったということです。
 小学校は一番で卒業し、福岡師範学校の中に、父、義賢は、彼女を入れるために、女子師範をつくったと申しています。
 彼女は、また、唐人町にあります浄慶寺の大塚品(シナ)という通称、大塚のお品さんから漢字の教授を受けたということです。
 ホトリは、本来、自分の希望は、東京の美術学校にいき、陶器の絵付けの研究をしたいという希望をもっていたということです。
 (夢野久作が後年修猷館時代、父の茂丸に対して、美術で身を立てたいと願ったのも、血脈的に、この生母の能力を、うけていたのかもしれませんし、その影響もあったのでしょう。)
 さて、彼女が杉山茂丸と結婚するようになったのも、従来秘密というか公開されていませんでしたが、大島家の言い伝えによって明確になりました。

 大島家の話によりますと、杉山茂丸の継母友子は、大島家に一週間泊りがけで、ホトリを茂丸の嫁にと、強談判をしたということです。
 大島家と杉山家は、黒田藩の同じ馬廻り役であったことと、また親類でもあったので、大島ホトリの人柄を見込んで、茂丸のような飛び廻る男の嫁に、ということになったのでしょう。
 大島家には、父 義賢と母 ひなと、ホトリ、マドカ、驍(タケキ)、スミカの三女一男の外、義賢の妹が黒田公の奥女中を長年勤めて帰って来ていました。
 この妹婆さんと友子の泊りがけの強談判で、父の義賢も奥女中の叔母さんも折れて、大島ホトは、本来の美術学校への入校をあきらめて、杉山家に嫁ぎ茂丸と夫婦になったといわれます。
 
 さて、このようにして結ばれた二人が、どうして、二人の間に生れた夢野久作が僅か一歳にならぬ前に別れねばならなかったのかということは、茂丸は勿論、夢野久作も、私達杉山家のものに、何も言い遺していませんので、大島家に伝えられているものしかありません。
 杉山家は、本来三郎平が修猷館の朱子学、国学の助教授をしていましたので、勿論漢学の素養がありますし、茂丸もその子ですから、明治維新後、三郎平が山家で敬止義塾という家塾を創立したとき助教として教えたということであり、十六才で学校の先生として勤務したということですから、漢学にも通じていたと思われます。

 茂丸は、明治に入り、小学校制度ができた時に、近隣に創られた筑紫小学校(現在の筑紫野市立 #筑紫小学校)で教えたと、前筑紫野市教育長の高嶋先生から教えていただきました。
 また、杉山茂丸著 百魔 によれば、弟 五百枝は、 #本道寺 村で無給教員として住み込み、卒業免状を受け取る資格があるかを確認する試験で、30名中22名を合格させたと紹介されています。】
 ここに、ホトリが嫁として入って来ましたので、この三人は漢学の話が合いますが、当時の女子は、学校は勿論、学問は無用といわれた時代でしたので、姑になる友子のみ、話題から外れた存在になったと思われます。
 
 このことがホトリの離婚の原因になったのでしょう。
 
 ホトリの茂丸との結婚生活は仲睦まじかったようです。住吉下宮崎町の杉山邸の前を流れる那珂川の流れでの川洗濯など楽しい思い出が、後にホトリが杉山家を離縁され、高橋家に嫁いで生れた人々に話として遺されていました。
 
 或る日、夢野久作が生れて間もなくのことですが、ホトリは、姑の友子から、実家の父、大島義賢に宛てた一通の手紙を預かりました。そして、友子から、父にその手紙を渡して来るように命ぜられたので、何んの気もなしに西公園下の大島家に帰りました。

 父が、その手紙を開いて見ると、離縁状であったそうです。それを読んだ義賢は大変怒り、ホトリに、「一週間も泊りがけで、嫁にくれといったのに、一通の離縁状をもたせて帰すとは、言語道断だ、今後、杉山家に帰ることはならぬ」と言い、ホトリは、その後、杉山家に帰れぬようになったということでした。
以上 西の幻想作家 夢野久作

 夢野久作は、小さいころ、病弱だったと聞いています。
茂丸は、ホトリさんと離婚させられた後、再婚していて、夢野久作が物心ついたときに母と思った女性は後妻さんだったのです。

 ですから、夢野久作は、義母がいなかったら、私の命はなかったと、思っていたようです。
母と思った女性が、後妻さんだったとわかった時の夢野久作の気持ちに思いを馳せ、その寂しさを想うと、かわいそうで仕方ありません。
その後、杉山家に自分さえいなかったら、父と後妻さんで、いい家庭ができるのに・・・
と思いながら、少年時代から青年時代を過ごしたと、思っています。
その寂しさが、小説の原点の一つ
そして、三歳から、祖父、杉山三郎平から叩き込まれた儒学 特に陽明学的な解釈が
もう一つの小説や童話の原点だと思います
先日、毎日新聞の記者の方とお話させていただいたときに、夢野久作の小説のお話になり、
おどろおどろしいというイメージになっていますが、私のイメージは違いますと申し上げました。
夢野久作の作品は、最初、いじめられたり、ひどい扱いを受けた弱い立場の人々が、最後に、上から目線だった人をやっつける話です。
と申し上げると、賛同していただけたようでした。

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