2012年12月2日日曜日

相良義陽討ち死にの日(12月2日)

 肥後相良氏は人吉城(熊本県人吉市)を本拠とする名族で、戦国期には八代古麓城(同八代市)の名和顕忠を下して勢力を広め、肥後南部の雄として存在していました。
十八代当主となった相良義陽(よしひ)は天文十八年(1544)二月、晴広の子として木枝上田館(同錦町)で生まれました。

 天正六年(1578)十一月の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、北上を企図する島津氏は次なる矛先を相良氏に向けてきました。
 この年の八月、島津氏は肥薩国境に近い水俣城(同水俣市)へ攻め寄せ、降伏と同じ和議を結ばされる結果となり、八代も島津氏の支配下となります。
 そして島津義久は相良義陽に対し、御船城(同御船町)の甲斐宗運討伐を命じました。
 相良義陽は阿蘇氏の筆頭家老・甲斐宗運とは親交を結んでおり、義久の命を拒めば滅亡は明らかで、宗運を討てば日頃の信義に背くことになるが、迷い悩み抜いた末に遂に決断を下し、宗運討伐への出陣を承諾しました。
 義陽は戦死を決意していました。彼は家臣の反対を押し切って響野原(同宇城市)に陣を敷きますが、これは正に「背水の陣」で、友人宗運には彼の心中がよくわかっていました。
決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かず、そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫ったが、義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます。
天正九年(1581)12月02日でした。

 宗運は変わり果てた義陽の姿に涙を流して合掌し、深く同情して義陽の死を悼みました。義陽は歌道にも秀でた文人でもあり、家中からの信頼も厚く、また慕われていたようです。後に生き残った家臣の犬童頼安は密かに戦場を訪れ、義陽の墓前に一首を献じました。
 「思いきや ともに消ゆべき 露の身の 世にあり顔に 見えむものとは」
 頼安の亡君に対する思いがひしひしと伝わってきます。義陽享年38。島津氏でもさすがに気の毒と思ったか、子の忠房に家督を認めて人吉城を返しています。

2012年11月26日月曜日

首羅山遺跡と薩摩塔

今年度国の文化審議会が文部省に答申した中に、久山町の首羅山遺跡があり、来年2月には国史跡に指定される見通しとなった。
首羅山遺跡は中世の山林寺院跡で、最盛期には350の僧坊があったとされ、山頂には中国から持ち込まれた石塔(薩摩塔)や石駒の石造物などがあり、磁器なども出土している。



薩摩塔



その中でも薩摩塔は、中世時代の特殊な形をした石灯篭で、九州の西半分に分布していることがわかった。
最初に薩摩半島で見つかったので薩摩塔と名付けられているが、原石は中国産であり、形も中国福建省あたりのと同じなので、唐や宋時代の中国商人が九州に持ち込んだもとと思われる。


博多周辺では、堅粕の馬頭観音、久山の白山(首羅山)などで発見された。宝満山、背振山にもみられるようだ。
平戸島周辺、薩摩半島の枕崎から川辺に最も多いようだ。本の硫黄や木材と、中国の陶磁器の交易が盛んだった頃の在住中国人の信仰の証だったという。
薩摩、平戸、博多周辺に多く分布しているようで、放送大学では、1年前の放送よりさらに新しい調査結果がふえていたようだ。しかしまだ解からないことが多い。 
日本にチャイナタウン(当房、東方など)があり、その住人の信仰の対象であれば、中国にもっと同じものが残っている筈だが、本拠地での変化が激しすぎるようだ。

博多周辺の国際交易が盛んだったことの実証遺跡で、保存状態が非常によい。
2012年11月23日 
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今日は久山町白山288mの山頂付近にある宋風の薩摩塔・獅子などの石造遺跡が残る首羅山遺跡の見学会に参加した。来年2月に国指定の史跡となる予定で、250人位の見学者が集まっていた。地元の人の猪汁の炊き出しを味わい登山の疲れを解消した。

久山町では、首羅山遺跡が国指定になり、そのPRをかねて雅楽の東儀秀樹さんをよんでイベント祭りをおこなった。

遺跡の山腹の林のなかで東儀さんの笙の笛での演奏がはじまると、周辺から鹿の鳴き声がおこり、東儀さんは驚き、そしてよろこんだそうだ。
ビデオ撮影の監督尾登さんも感激したと話されていた。



2012年11月20日火曜日

時代の変化

年末の選挙で、なんだか大きな時代の変化がおこりそうだ。
民主政権への期待は大いにはずれたが、今度の選挙でどんずまり状態の日本がどこまで変わるか?多党乱立で国民は迷うばかりだが、
1)自民がトップとなって、民主との連携がなりたつか?
2)維新中心の第三極がトップをとれるか?
1)ではやや好転するが、おおきな変化はなさそうだ。
2)では政治家の顔ぶれはかなり変わるが、長くはもたない政権となろう。
「石・橋を 叩いて渡る 自公民」 という 川柳 は石原と橋下の連合をを批判している。
この間にアメリカが 新ガスエネルギーの普及とメイドインアメリカの復活をどこまで推進できるかで、時代は変わっていくだろう。

2012年11月12日月曜日

耳川の戦(今日の歴史11月11日)

耳川の戦いで島津軍が大友軍に大勝、戦死者四千を出した大友家は以後衰亡の一途を辿る。
 この年の十月二十日、離反した日向松尾城主・土持親成を討伐した大友宗麟は、日向北部にキリシタンの楽園(ムジカ)を建設しようと、家臣の反対を押し切って再度出陣した。
田原紹忍(親賢)を大将とする四万の兵が高城(宮崎県木城町)を囲み激しく攻撃したが、守将の山田有信はしぶとく粘る。
この事態に島津義久は薩摩から三万の大軍を率いて救援に駆けつけ、佐土原(宮崎県佐土原町)に本陣を敷いた。義久の弟で猛将として知られる義弘も、都於郡城(同西都市)に出陣、高城へ救援の兵を送る。ここに戦いのスケールが大きくなり、大友勢は十一月十一日の夜に軍議を開いた。
 総大将の田原紹忍は慎重論を唱えるが、田北鎮周らは直ちに攻撃すべきと主張、軍議は決裂した。そもそも大友家の軍師として知られる角隈石宗も、この戦い自体宗麟の厄年に当たること、不吉である未申の方角への出陣であること、去年より彗星が現れ光の尾が西へ靡いていることなど数々の凶兆を挙げて反対したが、宗麟は耳を貸さず出陣した。
 その後、この夜のうちに一部の武将らが、続いて翌未明には田北鎮周が出撃していることから、紹忍が結局大友軍をまとめきれなかったことが窺われる。さらに佐伯宗天・斎藤鎮実・吉弘鎮信らも次々と出撃、命令指揮系統がほとんど機能しない状態で島津軍との激突が起こる結果となった。
 一方の島津義久は九日に義弘も交えて佐土原城で軍議を開き、十一日には高城と小丸川を挟んだ根白坂へ兵を進め、万全の体制で待ち受けていた。
 もはや勝敗は既に決していた。この日両軍が衝突するや義弘の伏兵が起ち、出足の止まった大友勢の横合いから義久の本軍が襲いかかる。
 劣勢となった大友勢が退却を始めると高城からも兵が出て追撃を開始、ここに大友勢は四分五裂となり佐伯宗天はじめ多くの将が戦死するなど惨憺たる大敗北を喫した。
 務志賀(延岡市)に布陣していた宗麟は、敗報に接すると同伴していた宣教師たちを置き去りにし、這々の体で豊後へ逃げ帰ったと伝えられている。
 従軍した軍師角隈石宗は田北鎮周らに進言を無視され、死を決して秘伝の書を焼き捨てて出陣、力戦ののち戦死したということだ。

2012年10月26日金曜日

門司城の攻防戦(10月26日)

 永禄4年(1561)毛利元就と大友宗麟が門司城で激戦を展開。10月26日大友軍は退却を決定しました。
 
 門司城(北九州市門司区)は早鞆の瀬戸を望んでそびえる古城山(標高175m)の山頂にあり、防長二国を固めて九州進出を目論む安芸の毛利氏と、豊前~筑前を支配下に置こうとする大友氏の間で、天文23年(1554)の戦いを皮切りに幾度となく争奪戦が繰り広げられていました。
当初門司城は大友氏の属城で奴留湯主水正(ぬるゆ・もんどのしょう)が城代を務めていましたが、毛利元就は吉川元春と小早川隆景を派遣して攻撃させ、城を落としています。

 さて、この年(永禄4年)の6月に大友宗麟は三万の兵を率いて北上し、門司城を攻撃しました。
しかし急峻な坂道のため攻め上る大友勢は苦戦、そこで宗麟は一計を案じ、当時滞在していたポルトガル船の船長に海上から大砲で支援攻撃をするよう命じました。
 こうして8月、陸からは吉弘加兵衛尉らの一万五千で、海からはポルトガル船の砲撃で一斉に攻撃をかけました。
 城内は前代未聞の攻撃に大混乱となりますが、元就もすぐさま嫡子隆元と小早川隆景に一万数千の兵を付けて救援に向かわせる一方、北九州の土豪たちに再度蜂起するよう画策しました。

 この戦いにおいて宗麟に不運だったのは、ポルトガル船に十分な弾薬が用意されていなかったため海上からの砲撃は尻切れ状態となり、加えて9月からは能島村上氏が毛利氏に加勢したため、大友氏は押され気味になりました。ちなみに村上水軍は翌年正月まで門司周辺の海域を押さえ、海陸の戦いとも抜群の軍功を挙げたと伝えられています。

 10月2日、総攻撃を決意した宗麟は城の麓に進出、10日に城攻めを開始すると同時に各所で毛利勢と戦いが起こりました。激戦となりますが結局宗麟は城を落とせず、この日に行われた戦いでは毛利氏が勝利しました。

 宗麟は結局10月26日に門司城の攻略を断念、11月5日に撤兵しています。
信州では上杉と武田が川中島で激突した年でした。

2012年10月19日金曜日

転落事故

染五郎さんが大転落事故のあと、やっと記者会見できるまでに回復された。右側の頭、肩肋骨などの負傷で、まだ11月の舞台復帰は延期され、来春からになるらしい。
先週類似の小連絡事故をおこし病院通いをしている私としては、この記者会見に共感をおぼえた。多少の痛みをこらえても来週のゴルフにでたいという思いをこらえて、ドクター指示に従い月末の脳の再CT検査まで安静にすごすことにした。

著名人になる文学者

泉鏡花は9人兄弟姉妹で、その中には当時は有名な探検家や音楽家がいた。しかし現在では鏡花の名前だけが広く知られている。
童話のグリム兄弟も9人くらいの兄弟がいて、画家などもいたそうだが、やはり文学分野の兄弟だけが世界的に名を残している。
わたしの旧制高校の同窓会誌でも、作家の壇一雄が有名人のトップである。 文学の世界が多くの人の心に一番近いのであろう。

2012年10月10日水曜日

近代産業遺産

福岡県には、かって九州の主要産業だった炭鉱跡を近代産業遺産としようとする動きがある。筑豊地区、三池地区を含めて調査されているが、現在残されている遺跡も次第に減少しているようだ。
佐渡金山は1601年から平成元年まで400年間も操業され、現在近代産業遺産として登録され、整備されている。
その紹介番組をみたが、江戸時代から、明治、大正、昭和の時代の歴史的変遷が良くうかがえる。手掘り時代の木製構造物、それをコンクリートでカバーした時代、さらに鉄骨に変化した建造物。
明治時代の輸入電機品、大正時代の国産電機品(奥村電機などの懐かしい名前も)なども残っている。

江戸時代の奉行所も復元されているが、福岡ではこれほと幅広い史跡の保存は無理であろう。

2012年10月8日月曜日

島国の歴史

日本の古代史は文字情報がなく詳しいことが不明だ。
ハワイの歴史も14世紀くらいまで文字情報がなく、口伝えの歴史だという。
10~30万人代の人間社会では、文字がなくても社会生活できたという証拠だろう。
大航海時代となり、外部からの船の往来がはじまり交易をはじめると、多くの渡来人が住み着くようになる。すると外来病により先住民の数は1/7に激減してしまったという。その間に経済的基盤が外来人により抑えられてしまい、その結果ハワイ独立王国はクーデターにより消滅した。
沖縄の歴史もハワイと良くにており、日本の古代でも同じようなプロセスがあって原住民が減少し、天孫降臨の伝説のような渡来人国家が成立したのだろう。

2012年10月1日月曜日

毛利の厳島の決戦と浦宗勝の活躍

今日10月1日は安芸厳島にて毛利元就が奇襲で陶晴賢を破り、晴賢が島内大江浦で自害した日。

当時、元就は兵力面で晴賢に大きく劣っており、単独で戦うには無謀の状態。そこで元就は晴賢を何とか厳島におびきだして戦おうと考え偽の情報をながし、さらに厳島で決戦するにしても水軍力が不十分だった。
元就は毛利水軍を率いる三男・小早川隆景に属す浦(乃美)宗勝を使者とし、村上水軍の将・村上(能島)武吉のもとに派遣して加担を要請、武吉を味方に付けることに成功した。
宗勝寺
この浦宗勝は小早川隆景が立花城から名島城に移ったあとの立花城城代となり、今その山麓(原上)の宗勝寺に眠っている。

2012年9月26日水曜日

音楽演奏会

戦時中は軍歌が主流の時代、敗戦後やっとクラシック音楽が聞けるようになった。
敗戦直後の福岡に、諏訪根自子、安川加寿子、井口基成など当時一流の演奏家が九州まできたのは、主に労組主催の行事だった。まだ市内に演奏会場など無いので、企業や大学の講堂が会場だった。
20代で聞いた3人の演奏会の記憶はいまで良く残っている。
その中でタダ一人の生存者だった諏訪根自子さんが92歳で最近亡くなり、一つの時代が歴史入りした。

2012年9月18日火曜日

藤崎八幡宮

先日は孫娘の結婚式で、熊本のキャッスルホテルに泊った。
丁度藤崎八幡宮の秋季大祭で周辺はにぎやかだった。
この八幡宮は935年に朱雀天皇の敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けて創建されたそうだ。
鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。
もとは熊本城の中にあり、鎌倉時代以降歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた。
明治10年(1877年)、西南戦争で社殿を焼失し、その後現社地に移転して復興されたそうだ。

徳川の仕掛けた日(9月18日)

今日9月18日は、徳川家が豊臣家の鐘の文言「国家安康」「君臣豊楽」に言いがかりをつけた日という。

これが原因で大阪冬の陣となり、やがて夏の陣で豊臣家は滅亡した。
さらにこの文言をかいた和尚や、その和尚と親しかった茶道の古田織部にも、疑念をもった徳川は、家康暗殺の嫌疑で切腹をいいわたした。
無理な言いがかりだが、この文言が無くても別の言いがかりで戦を仕掛けたであろう。
戦争とは無理な欲望から発生する。
尖閣列島もそのような事にならねばよいが。

2012年9月11日火曜日

戸次道雪の人生


立花道雪
 戸次道雪は永正十年(1513)三月十七日、豊後大野川流域の戸次庄を本拠する藤北鎧嶽城(大分市/豊後大野市)主・戸次常陸介親家の二男として生まれた。
 戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。緒方家は源義経側に付いて破れ、勢力を減じたあと、大友家の傘下に入ったという。 
幼名八幡丸、通称は孫次郎、長じて戸次鑑連と名乗り丹後守(丹後入道)・紀伊守(紀伊入道)・伯耆守を称した。
のちに筑前立花城督から城主となり、立花氏の名跡を嗣ぎ、また出家して麟白軒道雪と号したことから立花道雪の名で広く知られるが、本人は立花姓をきらい、名乗らなかった。


道雪とは、路傍に降り積もった雪が露となって消え去るまでの間を、潔白な武士の節操に例えて名付けたものと伝えられます。
(以下、呼称は道雪で統一)
立花山遠景
 道雪は生涯大友家の支柱として活躍し、ある時は切り込み隊長として、またある時は大友宗麟の諫言役として、まさに八面六臂の活躍。
道雪の勇名は遠くにまで聞こえ、あの武田信玄がぜひ会ってみたい武将だと評したと伝えられる。
 男子がいなかった道雪は晩年、盟友の名将・高橋紹運を説得してその嫡子(宗茂)を養子に迎える。その際の道雪の言葉は感動的なものた。
「私はもう七十歳。御家は衰運であろうか、賊徒は戦に敗れても日増しに勢いが強まり、味方は勝っても日々勢いは衰えてゆく。近くは島津・龍造寺、遠くは毛利という大敵を、我死して後に誰が御辺(紹運)と力を合わせて大友家を支えるだろうか。宗茂をして戸次の家を嗣がせ、私が死んだ後にも御辺と心を合わせて国を支えるべきである。私の家のためではなく、国のために是非とも願う次第である」
そして猛将・道雪も病には勝てず、筑後に出陣中の9月11日、北野高良山の陣中にて、大友家一筋に忠誠を尽くした73年の生涯の幕を閉じた。
彼は九州という地政学的に特異な部分と、名門大友家をいう、村社会の家制度における上位と現場のギャップを埋めようとした人物であった。
九州大友家は鎌倉からの流れを組む地頭で、源を組む名門。その20~21代大友宗麟期の大友家を支える道雪は、この時期がんばれば、すぐに城もち(城主)になれるはずだが、ながらく城督というポジションで苦闘の日々を送る。
城主が株券主や自己独立グループ長とするなら、城督は権限は同じでも、自身では所有できない、今で言う業務執行役員のようなもので、業務に責任は負うが、取締役ではない。
その中で、筑前で、道雪は、類まれなるリーダーシップを発揮していく。しかし、社長である大友氏は、ブレブレでたよりなく、また気づきも少なく、病的な部分があり、最後の最後まで、道雪を苦しめる。
その中でながらく大友氏を支えた城督として彼のマネージメントは、今の時代にも通用するものであって、日本社会の闇と、日本の人と人とのありかたを表していると思える。

紹運が島津軍と戦って玉砕したあとも、宗茂が立花城を守りぬいて島津軍を総退却させる。

道雪の言葉のとおりの歴史となった。

2012年9月3日月曜日

炭坑の記録

田川の山本作兵衛氏の炭坑記録画が世界記憶遺産となって有名になった。敗戦直後の若い頃何回か坑道に入り、採掘現場をみたことがあるので、記録画をみるとその時の雰囲気と緊張感を思い出す。


先日のテレビで、ゴッホが若い時、宣教師として炭鉱町に赴任していたころ(まだ本格的な画家志望でない頃)、坑夫の絵をかいているのが紹介された。
純真な心をもち、炭鉱夫達の貧しい生活に心を痛める宣教師ゴッホは、そこでストライキで闘う抗夫達の力になろうとする。しかし、その行為は教会の怒りを買い、やがて弟のテオの助力のもと、本格的に絵を描き始める。


何処か山本と共通した哀愁のある絵だった。

蚤虱

蚤虱馬の尿する枕もと
芭蕉の奥の細道にある一句である。旧制高校の寮や動員先の宿舎では、蚤虱との縁は深かった。さすがに馬の尿との縁はなかったが、親類の農家の納屋には牛馬が何頭かいた。
昨日のテレビではその現代版がでてきた。
芭蕉が泊った「尿前の関の宿」は現在も存在しているそうで、そこに、わざわざ馬をつれてきて宿泊する人物の話であった。
「枕もと」というイメージよりも、少しは距離のある場所に馬はつながれていたが、人馬同居の時代を懐かしむ心理が少しはわかる気がした。

2012年9月1日土曜日

陶晴賢の謀反

今日天文20年9月1日1551年9月30日は大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自刃した日。享年45歳。
大内義隆は尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)を攻めるが大敗を喫し、その際に尼子氏の追撃により養嗣子晴持をも失い、寂しさを紛らわせるためか次第に文化に傾倒していった。
 この頃から大内氏の内部で不協和音がはっきりと表面化し、軍事派の陶晴賢(当時は隆房)と文治派で義隆の寵愛を受けていた相良武任とが対立、このため晴賢は義隆から距離を置かれる。
晴賢は謀反の意を固めると毛利元就の抱き込みを企て、毛利氏も一旦は同調したという。
晴賢は富田若山城(山口県周南市)を出陣、山口を襲うが、事前に晴賢の動きを察知していた義隆は法泉寺へと避難し、夜陰に乗じて脱出し長門へと向い、何とか長門仙崎(同長門市)に到着する。
ここから乗船して沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入る。
 しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、義隆は最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろす。
しかし陶晴賢もやがて毛利元就の謀反にあって生涯を閉じた。
この混乱の間に、わが立花城は大友勢が大内勢から取り戻し、1551~1587年間(柳川移封まで)大友勢のものとなる。
ただし1569年の立花鑑載の乱で半年間ほど毛利に占領される。

2012年8月29日水曜日

築山殿の命日(8月29日)

天正9年8月29日:今日は徳川家康が正室築山殿を、武田氏内通の嫌疑により遠江富塚で野中重政に命じて殺害した日。
 築山殿はその実家関口家(のち瀬名と改性)の記録などにも、嫉妬深く狂気じみていると記されており、新婚時代には瀬名の御前、瀬名の御新造とよばれ、岡崎にきて駿河の御前となり、家康との関係が悪化し、築山御殿に隔離されてから、築山殿と蔑称されたらしい。
築山殿
内通の嫌疑とは、「武田勝頼に対し、徳川領をそっくり信康に与えること、自分を武田家中のしかるべき人物の妻とすることを条件に、信康を教育して武田方に付かせると申し入れた」ので、勝頼が承諾して起請文を送ってきた。
これが侍女に感ずかれ、侍女の妹が信康の室・徳姫(信長の娘)の侍女であったことから、事は徳姫の耳に達し、 徳姫が急ぎ父・信長に手紙で報せる。

事態を重大視した信長は酒井忠次を呼び糺しました。手紙には信康の暴虐的振る舞いと築山殿の悪行が認められており、信長は一つ一つ忠次に確認しますが、忠次も築山殿に反感を抱いており、すべてを肯定してしまいます。
信長は直ちに築山殿と信康の処刑を命じました。家康は苦悩の極地に立たされますが、断腸の思いで両者の処断を決意、信康を岡崎から大浜・遠江堀江を経て二俣城(静岡県浜松市)へ移すと、この日築山殿を討つよう野中重政(異説あり)に命じました。重政は三名の士とともに彼女を連れ出して遠江富塚にて殺害、遺骸は浜松の西来寺に葬りました。
一見九州とは無縁の築山殿ですが、今川家の祖先今川了俊は
南北朝時代に、足利幕府の九州探題の長として君臨していたことがありました。

2012年8月27日月曜日

国家権力と幕府政治

武士が政治の世界に介入しはじめたのが鎌倉幕府政治である。
このような2重の権力構造は世界でも少ないといわれている。
源頼朝は平家や義経の残党を抑えるという理由で全国に守護、地頭を派遣し、実際には国税の徴収という国家権力を手にいれた。
養老律令に規定されていない幕府組織、これが室町幕府、江戸幕府と続き、明治憲法で一旦終了したかに思えた。
しかし憲法の欠陥を潜って、日本陸軍が権力をにぎり、「三宅坂幕府」とよばれた。
戦後も今や財務官僚が権力をにぎり、「霞ヶ関幕府」とよばれている。
日本人は幕府政治がお好みのようだ。

2012年8月26日日曜日

由布城

立花道雪の母は由布城城主の娘だったという。
市民歴史講座で中世の話(立花城の攻防など)を24日にして、その午後湯布院温泉に休養に出かけた。
由布城は由布岳の中腹くらいにあったのだろうと思ったが、観光案内図には出ていない。翌日湯布院観光案内所で、城のあった場所を尋ねたが、若い事務員さんは当然知らなかった。
しかし電話連絡などをして、盆地のJR湯布院駅の近くにある宇奈岐日女神社(別名六所宮)の南側にある丘陵にあったことを書いた資料を出してくれた。
秀吉が九州の島津軍を討伐するときには、この城の周辺に10万の兵を結集したので、島津は戦意を失ってしまったことも書かれていた。
ここでも
立花城と同じく島津軍との対決があったことを初めて知った。さっそく宇奈岐日女神社という珍しい名前の神社にお参りして帰った。

2012年8月22日水曜日

村上武吉の命日(8月22日)と九州

今日8月22日は瀬戸内海の村上水軍の頭領・村上武吉が周防屋代島で没した日。享年72歳。
能島周辺の地図
 天文二年(1533)の生まれで、能島村上氏四代当主の義雅が若くして没すと家督相続争いが起こり、武吉は敗れて一時肥後の菊池武俊のもとへ逃れ、肥後で元服、「武吉」の諱は菊池武俊の一字を拝領したものと伝えられている。
村上武吉
その後武吉の後見人である叔父・左近大夫宗勝(隆重)の活躍で、迎えられて能島村上氏五代当主となる。
弘治元年(1555)十月の厳島合戦は、大内義隆を滅ぼした陶晴賢と毛利元就の間で行われた戦いだがが、毛利方に加担した武吉は毛利水軍と行動を共にし、毛利勢が大勝した。こうして武吉は親毛利氏の立場を取ることになる。
その後、武吉は小早川隆景に従って筑前名島城(福岡市東区)へと移り、朝鮮出兵の際にも一緒に活躍する。

しかし瀬戸内の通行税(帆別銭)を徴収し続けていた武吉は秀吉に瀬戸内海を追われて、長門大津郡への移住を命ぜられる。
 武吉が瀬戸内海に戻れたのは秀吉の没後で、安芸竹原の鎮海山城に長男の元吉とともに住むが、関ヶ原の戦いの際に西軍に付いた元吉は、伊予松前(まさき)城(愛媛県松前町)の加藤嘉明を攻めた際、古三津刈屋口の戦いで戦死してしまう。
落胆した武吉は翌年元旦に二男の景親を頼って孫の元武とともに周防屋代島(山口県周防大島町)へと移り、この日同地で没した。
屋代島の地図
九州とも縁の深い人物だった。
村上水軍博物館


2012年8月19日日曜日

蒲田の地名

粕屋郡の蒲田地区に鎌倉から下向してきた伊東(河津)氏の領地があったという。蒲田は鎌倉の鎌ではないかなとと思い地名辞典をひらいてみた。
  • 湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶがそれが転じたものだ。
  • かつてこの辺り一帯は沼地であり、それにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている。
  • 飛び越えた所や沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」から来ている。
など、諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。『和名抄』にも記載があり、奈良・平安時代から続く古い地名である。

どうやら鎌倉武士とは無関係のようだ。

2012年8月16日木曜日

九州領主の歴史

来週の市民講座で中世の話をするので、地元領主の歴史を調べなおした。その結果いくつか新しい発見があった。

麻生氏と宇都宮氏:
豊前最大の豪族宇都宮氏は有名だが、麻生氏はその一族である。
宇都宮氏は下野国宇都宮より起こった。宇都宮宗綱の子朝綱には信房と家政のふたりの養子があった。
 信房は豊前守に任じられて、鎮西に下向し、宇佐宮造営奉行となり、建久六年には城井郷を本拠として神洛山城を築き政所とした。のちに地名をとって城井氏を名乗った。
 一方家政は高階氏業の子といわれるが、平家没官領である遠賀郡山鹿の地頭職となり、
山鹿氏を称し、のち麻生氏を名乗り、洞海周辺の若松・戸畑・八幡・黒崎・遠賀郡一帯に勢力をもつようになる。そして、惣領家をはじめ、格流麻生氏が筑前の各地に幡居した。
 戦国時代、麻生家信は大内氏に仕えたが、その没後嫡子で遠賀郡岡城主の隆守と庶氏で遠賀郡花尾城主弘家の間に家督争いが起こり、大内政弘は家督を弘家に譲るように命じたが、家信は抵抗して三年間にわたって大内氏と戦った。のち大内方の調停により家督を弘家に譲り、隆守は惣領家に属するようになった。
 その後、同族の遠賀郡八幡の帆柱山城主の麻生氏は、ひそかに大友義鑑に近づき、天文十五年(1546)大内氏への反乱を起こした。大友氏は家臣瓜生氏を派遣して岡城の隆守を攻め、隆守は抗しきれず落城、内浦の海蔵寺で自刃して果てた。
 永禄十一年、隆守の弟鎮里と惣領隆実とが対立して合戦。鎮里は宗像大宮司氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を捨てて薩摩の島津氏を頼った。
 麻生氏は筑前の国人領主として、戦国時代は大内、大友氏の二大勢力にはさまれ、くだっては毛利、大内氏の戦に翻弄されるなど、弱小勢力としての悲哀を味わっていたようだ。永禄年間に筑前国の城主として、花尾城に麻生隆実、山鹿城主に麻生元重の名がみえる。
 大内氏滅亡後に、麻生氏は毛利氏の幕下につき、大友方と対峙している。永禄十二年、大友宗麟は遠交近攻の策をとり、出雲の尼子氏と同盟を結び、その遺臣山中鹿介らに背後より毛利本国を攻めさせた。ここに毛利氏は本国防衛に廻らなければならなくなった。
 毛利軍は少ない兵力を残して筑前から去っていった。しかし、力と頼む毛利軍の撤退で取り残された高橋・秋月・ 原田・宗像、そして麻生隆実らは、その支柱を失って大友氏に降った。

戸次氏(緒方氏):

立花道雪の祖先、戸次氏は大友氏の傘下になるまえは緒方氏であり、範頼や義経に加担していた。

緒方惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将で、豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。惟義惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。

宇佐神宮荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家平重盛と主従関係を結んだ。

治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。

この時、平家に叛いた九州武士の松浦党菊池氏阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。

寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国原田種直山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。

同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。

このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。


曽我氏と河津氏と伊東氏:

西郷荘の河津隆業の祖先は、伊豆半島の伊東氏で、この前の大河ドラマに登場した伊東祐親もその一人であり、曽我氏とも一族であった。

曽我兄弟の父伊東三郎祐泰は、分家の河津姓を名乗り、工藤祐経に殺された。曽我兄弟は、母の再婚相手の曽我庄(小田原市曽我)の曽我太郎祐信(義父)の元で元服し曽我姓を名乗った。

 糟屋町蒲田にある曽我神社」の神殿内には、「曽我十郎祐成 曽我五朗時宗(時致)の塔」(曽我兄弟石塔)二基があり、碑表に「髙宗院殿峯岩良雲天禅定門・鷹嶽院殿士山良富士大居士、建久四年五月廿八日」と刻してある。

  これは、曽我兄弟が富士の裾野で狩猟した源頼朝の将・工藤祐経の寝所を夜陰にまぎれて襲い仇討ち成就後に落命した日とされている。

 宗像郡に在した「河津氏の家記」によると、河津氏は、もと伊豆国の武士で、河津右衛門尉祐重が蒙古襲来で戦功を立て長門豊東郡を領し下向した。

永仁元年(1293)3月、嫡子河津次郎筑後守貞重は、探題北条兼時に属して筑前迫門河内を賜り、移居したとき、同庄内に、往昔から民が三輪石と称し恐敬してきた二面の霊石があることを知り、先祖の曽我神社の一百年回に當るとして、往昔から当地(迫門河内=多々良川流域)にあった上記霊石二面に「曽我兄弟」の法名を刻し御神体として建立したということになる。
 
  また、上記の河津筑後守貞重といえば、「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争~須惠宝満宮④(須惠町)」で、「岳城山には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城・高鳥居城がある」と、その名を書いたことがあった。

 さらに、その子孫の「宗像郡の河津氏」は、元亀元年(1570)正月、蘿ヶ嶽城下の妙湛寺(宗像市陵厳寺)で盟友宗像大宮司氏貞に暗殺された上西郷(福津市)を拠点とした郷士西郷衆(西郷党)の頭領河津掃部助隆家がいる。
 その死後、鞍手に移された河津修理進盛長宗像士若宮郷士一統は、天正9年(1581) 11月13日(宗像追記考)、鷹取山城(直方市)から立花山城(新宮町)に帰軍中の立花軍(大友氏)を襲い小金原で全滅した。


足利氏:
足利尊氏が京都で敗れて九州まで西走してきた理由は、九州の領主たちと多くの婚姻関係があったからだ。 などなど。



2012年8月14日火曜日

立花宗茂の誕生日(8月13日)

戦国期の九州勇将で、筑前立花城主をつとめ、後に筑後柳川藩主となった立花宗茂は、永禄十二年の今日8月13日生まれ。
大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。
 宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどり、父鎮理は二十二歳の時に筑紫の名族高橋氏を嗣ぎ、高橋主膳兵衛鎮種と名乗り、後の入道号である紹運の名で広く知られている。
当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。
ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾、ここに宗茂は立花道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けて育ったた。
わが郷土史英雄の誕生経緯である。九州大学・九州産業大学の学長だった神田慶也氏も高田市の生まれだった。 

2012年8月7日火曜日

薩摩塔

最近の研究で九州の西半分に中世時代の特殊な形をした石灯篭が分布していることがわかった。
最初に薩摩半島で見つかったので薩摩塔と名付けられているが、原石は中国産であり、形も中国福建省あたりのと同じなので、唐や宋時代の中国商人が九州に持ち込んだもとと思われる。
博多周辺では、堅粕の馬頭観音、久山の白山(首羅山)などで発見された。




宝満山、背振山にもみられるようだ。
平戸島周辺、薩摩半島の枕崎から川辺に最も多いようだ。
日本の硫黄や木材と、中国の陶磁器の交易が盛んだった頃の在住中国人の信仰の証だったという。
わが家から近い久山には早速出かけてみたい。

2012年7月24日火曜日

背振山脈とILC


十数年まえ佐賀県と福岡県の県境にある背振山脈地下に、リニアー加速器(ILC)の計画が起こっているというニュースをきいたことがあった。当時は夢のような計画で、なぜ背振なのかはよく知らなかった。
ヒッグス粒子が発見され、次の段階に必要なILCが昨日のプライムニュース2時間版で取り上げられ、その計画の詳細と理由や将来の問題点などがやっとわかった。
ILCに必要な強固な30Km以上の岩盤があるのは、背振山脈と岩手山脈の2ヶ所しかないそうで、それが背振が候補の一つにあがった理由であった。

当時理由を知らない人たちが宗像でも誘致したらなどといっているといううわさを聞いたこともあった。
いずれにしてもわが命のある時代の話ではない。ただし背振山脈ならば福岡県にも関係のある話である。
江戸時代の初期、背振山頂の神社の所有権を福岡藩と佐賀藩で争ったことがある。幕府が仲裁にはいって出した結論は佐賀藩の勝利であった。その理由は両藩が幕府に提出していた藩の地図で、佐賀藩のものには神社が記載されていたが、福岡藩のものには記載がなかったからであった。今は航空用レーダ基地が神社の近くに設けられている。
地方主権の時代のできごとであるが、ILCは大変な費用のかかる問題で、国際的な長期計画だ。
(その後の裁定で、ILCは東北の方に決定された。)



2012年7月22日日曜日

古子山と三柱神社


わが家の北側に見える里山は尾東山122mで、その西に続く少し低い山100mを古子山という。地図には名前が無いことが多い。


歴史書ではその古子山のほうに山城があったことになっている。
防御性よりも唐津街道を展望するのに良い場所だからであろう。
1568年立花城主立花鑑載は大友宗麟の乱行に立腹して本家に反旗をかかげ、毛利側についてその援軍を待った。
大友軍2万3千、守る毛利、原田らの援軍は1万余の対決となった。
しかし部下の野田右衛門らの裏切りにより立花山城を追われた立花鑑載がこの古子山まで逃れてきてこの城に入り兵を集めようとした。
だが兵は十数名しか集まらず、新宮湊に逃れるところを野田右衛門太夫らに発見された。鑑載はこれまでと決断し青柳の松原の中で自刃して果てた。
首なし塚
彼の首なし塚はかっては町川原の狐ヶ崎にあったが、今は青柳の三柱神社に合祀されている。

2012年7月17日火曜日

戸次氏の祖先

立花道雪の旧姓は戸次(べっき)であり、豊後国鎧岳城主であった。この城山は大野市と緒方町の近くにあり、一度城山の麓を訪ねたことがある。
戸次氏の祖は大神惟栄(緒方三郎惟栄)とする系図が数種類あるようだ。豊後国大神系図、筑後本大神系図、大田本大神系図、大神姓佐伯氏系図、大神姓賀来氏系図、緒方氏系図など、すべての系図が共通して、戸次氏の祖を緒方氏としているから、たしかな史実だ。
立花道雪が源義経に味方して滅んだ緒方一族の血を受け継いでいたことを最近やっと確認できた。

緒方一族

大分県緒方町は宇佐神宮の荘園であった。その荘官であった緒方一族は、平家と主従関係を結んでいた。
しかし源頼朝の挙兵のあと、宗家の佐伯、臼杵、長野氏らと共に平家に反旗を翻し、菊池、阿蘇、松浦らと組んで平家の目代を追討した。
平家が筑前の原田、山鹿の軍事力によて勢力を回復すると、清原、日田氏などの力をかりて平家を大宰府から追い落とし、平家側の宇佐宮司を攻めて神宮を焼き払い、源範頼に平家追討の船を提供する。
周防から豊後にわたり、さらに芦屋浦の海戦で勝利した源範頼の働きがあったから、その後の義経の屋島攻撃や壇ノ浦の勝利があり得たのだ。
 戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。
当時義経をかくまうために緒方氏が岡城を造ったともいう。

筑前で活躍した立花道雪の旧姓は戸次であり、豊後国鎧岳城主であった。この城山は大野市と緒方町の近くにあり、一度城山の麓を訪ねたことがある。
戸次氏の祖は大神惟栄(緒方三郎惟栄)とする系図が数種類あるようだが、豊後国大神系図、筑後本大神系図、大田本大神系図、大神姓佐伯氏系図、大神姓賀来氏系図、緒方氏系図など、すべての系図が共通して、戸次氏の祖を緒方氏としているから、緒方氏の子孫であることはたしかな史実だ。
立花道雪が源義経に味方して滅んだ緒方一族の血を受け継いでいたことは感慨深い。

2012年7月13日金曜日

鞠智城と菊池一族

熊本の鞠智城は、白村江の敗戦後、本土防衛のため作られた古代の城であり、現在復元されている。去年の春訪れた。

菊池一族は中世平安時代から、室町時代の後半まで約450年に渡って、この菊池地域を中心として活躍した豪族である
源平合戦や元寇など日本史上の有名な戦いにも参加し、元寇では、蒙古襲来絵詞にその勇姿が描かれている。
南北朝時代に、一貫して南朝のために働いた肥後の菊池一族は
戦前の歴史では忠君愛国のモデルとして、楠木正成と共に賞賛された。
もともと11世紀に九州に下向した藤原一族が在地名の菊池を名乗り、肥後国の在地勢力として定着したのが菊池一族で、その系図は膨大である。
源平時代にはまず平家につき、壇ノ浦の戦のとき寝返って源氏側についたが、頼朝の疑念をまねいて恩賞はすくなかった。
元寇に立ち向かったのは「鎌倉武士」ではなく、九州の土豪武士団VS元寇と考えた方が良い。
菊池市(熊本県)では、明と交易をしていた時の菊池川の船着き場の遺稿が発掘調査中という。有明海から奥まった場所にある菊池氏が大陸と交易していた事実が、元寇襲来の意味を、さらに書き換えるかもしれない。
 だから鎌倉幕府との関係はあまり良くなく、やがて幕府の勢力が弱まると、在地勢力としては鎮西探題を最初に攻撃した。
その後建武の新政が成立すると、菊池氏後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。

この地区の菊池神社には、当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している。
この中では太刀洗の戦いで武勇を示した武光がもっとも有名で、銅像もある。これは大保原の戦い(大原合戦ともいう)で正平14(延文4)1359年8月16日である。


大友や少弐が足利や北、南の様子をみながら組む相手を変化したのとは対照的であった。肥後モッコスの精神が一族に定着していたのだろう。
南北朝統合のあとは肥後守として定着していたが、一族間の家督争いがもとで滅亡してしまった。
しかし菊池地方の豪族として残った隈部親永や山鹿彦次郎らの一族は、秀吉の九州統治に最後まで反抗して戦った。

菊池一族の分家で家老だった赤星家の末裔がわが地元古賀におられる。