慶長九年(1604)三月二十日、黒田官兵衛孝高(如水)が山城伏見で没す。(没地は筑前博多という説もある)
享年59歳。
卓越した軍略で竹中半兵衛重治とともに秀吉を助け、後に豊前中津城(大分県中津市)主となる。大河ドラマの主人公にもなった。
卓越した軍略で竹中半兵衛重治とともに秀吉を助け、後に豊前中津城(大分県中津市)主となる。大河ドラマの主人公にもなった。
黒田官兵衛は、天文十五年十一月二十九日、播州御着城(兵庫県姫路市:当時は福岡村)の城主小寺政職の家老・黒田職隆の嫡子として姫路に生まれた。
父職隆は滋賀県の黒田村の出身で黒田姓でしたが、敗戦で播磨の福岡村にのがれて、小寺氏に仕えて家老まで昇進した。
官兵衛も小寺氏に仕えて、いち早く毛利から織田信長につくように進言し、その後は秀吉の軍師となった。
豊前中津から筑前に移封になったとき、城の名前を福岡城としたのは、故郷の地名をえらんだものだ。
令和5年3月20日に、旧筑前黒田藩歴代藩主の功績を顕彰するための団体「藤香会」による黒田官兵衛公の420回忌が黒田家の菩提寺の崇福寺で行われた。東京から黒田長高氏を招いての会であった。
1600年に藩主長政公が名島城に入り、その後福岡城を築き、官兵衛公の屋敷も城内にあって、59歳で亡くなった。
解体された名島城の城門も崇福寺に鎮座している。
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