2013年12月31日火曜日

馬の呼名

午年なので、語源辞典を調べてみた。 シュメール語:「アンシェクルラ」  古代インド語:「アンシュワ」 ラテン語&フランス語:「シュヴァル」 トルコ 語:「アトウ」 中央アジア語:「マル,メルー」 古代ドイツ語:「マラー」 中国語:「マーmar,バーbar,メmer」 朝鮮語:「マル」 日本語:「マル,ウマ、バ」; 馬場:「ババ」「ババンバ(神を祀るため掃き清めた場所)」     

鳥の名前

カラス、ウグイス、ホトトギス、カケスなど、皆語尾がスである。 スは古代アッシリア語で鳥の意味だという。 ほんとかな? スのつく鳥はこの4種類しかいないようだ。 スのつかない鳥は鳥でないのかな? こんな本はあまり信用できない。

2013年12月30日月曜日

地球の温暖化

平均気温は上昇しているのに、やはり冬は寒い。 
寒暖の差が激しくなり、天候被害が大きくなっている。 
地球をこわしているのは人類か、太陽か?
COPも21回目だが、まだ世界の足並みは中々そろわない。

2013年12月28日土曜日

よもがえる天平文様

うちの子の仕事が新聞に大きく取り上げられた。






2013年12月26日木曜日

アジアは一つ

岡倉天心のこの言葉はかって軍国主義に利用された。しかし彼の本心は今のEUのような姿だった。彼のつくったオペラではインド、シナ、日本の言葉のセリフや歌が流されたとう。 彼の葬儀でも、各国の衣装の人が参列し、各種の歌や読経が次々にながれたようだ。 いまアメリカはアジアの対立を内心では喜んでいるようだ。

2013年12月25日水曜日

銅山跡

古賀市にも古代に銅山があったというが、今は遺跡らしきものはない。 江戸時代のオランダ貿易では、金、銀が枯渇したあと、銅がメインとなり、青森の安部城銅山から多くの銅が輸出されたという。当時は三大銅山の一つだったという。 大正時代で産出が終わったそうだが、あまり知られていない。足尾銅山のような公害が少なかったためだろうか。

2013年12月23日月曜日

孫の結婚

昨年は女の孫が嫁にいき、今年は男の孫が嫁をもらった。 血縁家族が二つ増えた。来年あたりは曾孫の顔がみれるかな。 そのぶんこちらの体も弱ってきており、あと7年後のオリンピックまでがんばれるかな。 とにかく年賀状だけは、去年と同じ100枚ペースで仕上げたので、明日投函しよう。

三池藩

 江戸時代三池藩が存在していたことはあまり知られていない。  高橋家の高橋紹運は大分の大友家の家臣で、立花道雪の同輩として岩屋城を守っていた。  長男の統虎を立花道雪の養子にだし、次男の統増はまだ幼いころ、島津軍が北上してきて、岩屋城で玉砕した。 
 統虎は秀吉の援軍の力を得て、島津軍を撃退し、柳川の地に領地を得て立花宗茂となる。
その後、関が原の戦で西軍について領地を失うが、数年後に複権してまた柳川藩主となる。  弟の統増は島津戦のときは宝満山にいて玉砕を逃れており、その後宗茂とともに行動していたが、宗茂複権のとき5千石の旗本に取り立てられ、その後一万石に加増されて、三池藩主の始祖となった。  
三池藩は幕末までつづき、一時旗本にもどったが、また一万石の藩主となっている。  
最後の藩主立花種恭は子爵となり、学習院の初代院長を務めている。

2013年12月22日日曜日

聖徳太子の母

聖徳太子は用明天皇の子であり、その前の敏達天皇の皇后が推古天皇という女帝になった。
だから聖徳太子の母は推古天皇と勘違いしている人が多い。
 用明と推古は兄妹で、夫婦ではなかった。 
用明の妃は穴穂部間人皇女と呼ばれており、推古と穴穂部は、用明天皇の父の欽明天皇の別腹の姉妹である。
推古天皇は聖徳太子の伯母さんである

2013年12月20日金曜日

日本の三国時代

日本の古代史は、邪馬台国からはじまる。しかしその場所は九州か奈良か不明のままである。傍国の名前もたくさん挙がっている。 中国史でいえば春秋時代であろう。 その後奈良大和に政権が一極集中し、やがて京都へと移動していった。しかし東北地方はまだ放置状態の手つがずであった。 奥州藤原氏が権勢を誇っていた時代は京都、鎌倉、平泉と三極の政権が並列していた。こらを日本の三国時代とよんでよいだろう。

八重の桜

あまり期待していなかった大河ドラマだった。視聴率も低く、下から4位だったようだ。 しかし山川健次郎が予想以上に大きく取り上げられたのは驚きだった。九州での活躍まではなかったのは残念だが。 脚本家の山本あゆみさんは、2年前に書き始めたときには、健次郎のことなど全く知らなかったという。会津の歴史は敗北の歴史なので、分散した状態で埋もれている。 最初の1年間は脚本の粗筋をを書きながら地元をあちこち調査してまわり、つぎつぎに掘り起こしていったという。そして登場人物も増え、歴史が複雑になったになり、難解になって、視聴率もさがったのだろう。 もともと東北の震災で、会津若松の観光客が10%に減り、東北復興のために始めたテーマだったので、視聴率よりは会津の歴史、そして会津藩の名誉回復が一つ目的となっていた。その目的は達成されたと脚本家は考えているようだ。

2013年12月13日金曜日

一光三尊と一光寺と咸臨丸


善光寺の一光三尊


一般の一光三尊
私の菩提寺は一光寺というが、その語源は一光三尊らしい。三体の仏像の背後を、大きな1枚の舟形光背がおおっているのを、一光三尊という。

善光寺式と一般の一光三尊像の比較 :


中尊の阿弥陀如来、両脇侍観音菩薩勢至菩薩の3体とも立像である。
多くの阿弥陀如来は、左手が「与願印」で法衣は「片方の肩」であるが、善光寺式の阿弥陀如来は左手が「刀印(下げた左手の人差し指と中指を伸ばし、他の指を曲げる)」で法衣は「通肩(両方)」である。 両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね「梵篋印(ぼんきょういん)」、独特の宝冠をかぶっている。

一光寺の本堂で確認したら、現在の三尊は上記の一般のものだが、光背は一つでなく、三尊に個別についている。

一光寺は、創設時の名島地区からの移転や、箱崎千軒地区の大火による消失などで、本尊も作り変えられたようで、当初のものや名称とは無関係になったらしい。

一光寺の本堂

一光寺の460年史にも記載されている歴史で有名な事件:

黒田11代藩主の黒田長溥は蘭学に熱心で、蘭学者永井青崖をかかえていた。

若き日の勝海舟は、その永井に蘭学を学んだ。辞書を借りて2冊の写本をつくり、1冊を売って学費とした話は有名だ。

藩主はこの経緯をしっていたので、長崎海軍練習所時代の勝海舟に、博多湾に寄港するように要請した。

1866年に勝の咸臨丸が博多湾に寄港したとき、黒田藩は乗船員を、秀吉も利用したことのある「箱崎御茶屋」で歓待した。
咸臨丸

その時、幹部にはオランダ人やイギリス人もいたので、博多の聖福寺に泊め、下士官は近くの箱崎一光寺に泊めたとい
う。

彼らは一光三尊や阿弥陀如来像をどのようにながめたであろうか?


2013年12月10日火曜日

秀吉の子

秀吉には実子がいなかったというのが通説である。 しかし長浜城主時代の側室南殿から男の子と女の子が生まれていたという。 男の子は秀勝となのらせたが、7歳で病死したので、信長の第4子を養子に迎え、同じく秀勝となのらせた。 しかしこの子も朝鮮兵役で17歳で病死したという。 歴史はあいまいな点が多い。

明治維新

明治維新の主要な人物 幕府政治の廃止と、民主政治の確立というう視点からみる。 
武士の立場から、薩摩と長州の下級武士の活躍がとりあげられてきた。
 西郷、大久保、高杉、木戸など。坂本なども加わっている。
 幕府なきあと、藩主にも引退してもらうことが課題であった。
 公家の立場から、三条、岩倉。王政復古といえども、摂政・関白制度の廃止問題が課題であった。
 幕府の立場から、勝海舟。慶喜、和宮、篤姫の処遇が課題であった。 
民主国家になったかに思えたが、体質的にはまだ封建的色彩が抜けきらずに、太平洋戦争に突き進んでいった。

宇都宮鎮房3





しずふさと思っていたら、しげふさと読むようだ。

築城町では鎮房を主役とした市民劇団ができているそうだ。

イーロン

ロケット、EVカー、太陽光発電、どれもが国家レベルでも手を焼く難事業だが、それをイーロンはひとりでやろうとしている。アップルのスティーブ・ジョブズは、パーソナルコンピュータで人々の生活に革新をもたらした。ジョブズを超えると言われているイーロン・マスクは、人類と地球の歴史を変えようとしている。 イーロン・マスクは21世紀の最高の発明家になれるのか。イーロンは未来の先導者なのか。幸運にも、我々はそれを見届けることができる時代に生きている。

2013年12月5日木曜日

プリンター

不調のプリンター、知人の助けをかりて、復活した。 これで年賀状も何とか出せるようになった。

2013年12月2日月曜日

年賀状の印刷

CG教室での年賀状印刷が今年は不可能? わが家のプリンターも不調? さて今年はどうしよう?

2013年11月30日土曜日

ハミという馬具

馬具にはいろんな種類がある。その名前も特殊なものが多い。 それぞれに研究の歴史があるようだ。中西さんはこれらを調べていた。そのなかで、 ハミ(馬銜、銜、英: bit)は、馬具の一種であり、馬の口に含ませる主に金属製の棒状の道具である。轡(くつわ)。この発見者の歴史は古く、また競馬などでは、その調整で勝負がきまると言われているそうだ。

春秋時代の国名と地名

世界の歴史シリーズに載っていた地図が、最も詳細なものだった。 現代の地名に残っているものは皆無である。

2013年11月29日金曜日

孔子と論語

玄界塾で論語の講義があり、孔子の弟子に子路という人がいることをきいた。 井上靖の孔子の本を読むと、3大弟子の一人で、孔子より若くて死亡したという。 ネットが不調のあいだに一気に孔子を呼んでしまった。 中国の春秋時代の歴史がわかり、北京から中原を汽車で旅した場所を思い出し、懐かしかった。

2013年11月27日水曜日

ネット速度

今日8時頃はネット速度が快調。昨日10時頃は全く遅かった。原因不明。 今日10時頃また試してみよう。

2013年11月26日火曜日

国宝級の馬具

国宝級の馬具が古賀市で発券されて、大きなニュースになってなっています。 来年は馬年であり、もっと宣伝したら良いだろう。

2013年11月25日月曜日

パソコンの引越し

千早の家から小竹の家にパソコンの引越しをした。 工事は17日、接続のためCDを見ながらやったが、アカウント変更手続きに時間がかかり、1週間後にやっと完了した。 C領域の最適化などをして、操作速度が向上したが、まだフェイスブックなどは時間がかかる。

2013年11月16日土曜日

清洲会議

三谷の清洲会議の小説をよみ、おもしろかったので、昨日映画をみた。 映画もおもしろかったが、小説ほどではなかった。 文章の独り言のような微妙な心理展開が、映画では普通の会話になってしまうので、興味が薄れる。 帰って、丹羽、池田、滝川らのその後の人生を調べたら、丹羽と滝川が生き延び、池田は戦死していた。、

2013年11月13日水曜日

伝法寺の地名と人物(宇都宮記録)





城井谷にある伝法寺という地名だけ知っていたが、ここに堂山城があり、城主として「伝法寺兵部」という武将がいたという。

古文書の宇都宮記録にも、「家老」の2番手にその名が書かれている。ほかの家老名の地名はのこっていないようだ。

伝法寺は宇都宮鎮房(しげふさ)の家老であり、黒田官兵衛に包囲されたあとは、降伏するように調停役をつとめたようだ。
小和田さんの本には、くわしく書かれているのに驚いた。


古文書の「一族家中」の名前のなかには、わたしの妹の嫁ぎ先の渡辺や、知り合いの加来などの名前がある。

さらに鎮房と中津に同行して殺された人物の名前の中にも、渡辺、神崎、松田、中野など地元の人の名前がある。

地元では築上町と豊前市の住民らが豊前国「宇都宮連合」協議会をつくったり、鎮房を主役とする劇団をつくったり、オリジナル切手を出したりして、宇都宮一家のPRに努めているようだ。

2013年11月5日火曜日

同名の縁

阿川弘之や佐和子が、山口県の阿川町を訪問し、阿川家のルーツ探しをしていた。 藤野という地名は、札幌市と相模原市と岡山県和気町にあり、それぞれ藤野小学校がある。 さらに札幌と相模原には藤野神社がある。相模原の藤野神社には、藤野大明神が祭られているという。ルーツさがしにでかけるとしたら、岡山と相模原だろう。

結納

孫の婚約が成立し、11月2日が結納の日だった。大分の実家まで、長男夫婦が出向いて、無事に挨拶を済ませたようだ。 孫も二人目の結婚で、やがて曾孫の誕生が近い。ゴルフが好きな家族のようで、そのうち一緒にプレイできるだろう。

2013年10月30日水曜日

風神雷神図

この絵の作者は俵、尾形、田村の3人もいる。 この時代にこのような抽象絵に近いものは、珍しいと言われえてきた。 しかし、文殊菩薩と普賢菩薩をえがいた宗教絵という解釈もあるようだ。 どちらが正しいのだろうか?、

烏天狗

日本の神話には烏がよくでてくる。 八尺の烏などが有名。 彦山、求菩堤山などには烏天狗がいたという。 天狗は鼻が高いから烏のくちばしににている。 その木像が歴史資料館に飾ってあったし、九州国立博物館でも展示された。

2013年10月25日金曜日

中津城での謀殺の理由

「築上町でのシンポジュウムで、小和田先生の話。」 
黒田官兵衛は地元豪族にたいして、黒田に従えば現在の領土は安堵すると宣言していた。 
宇都宮氏もそのつもりで安心していたのに、秀吉から四国への移封命令がでた。 
しかもその正式書類も届かない状態が続いた。 そこで遂に反抗の兵をあげたものと考えられる。 
官兵衛も兵力戦では解決が長引き、佐々のようになるのをあそれて、謀殺の手をえらび、 自分も隠居して、長政に家督を譲ったと思われる。

黒田は福岡にうつり、細川が中津城に入ったが、さらに小倉に移動した後、奥平が中津城に入り、この地区を治めた。

2013年10月23日水曜日

宇都宮氏(城井氏)の滅亡1

黒田官兵衛が城井谷の城井氏(宇都宮氏)を謀殺した事件は、福岡市の人たちにはあまり知られていない。 豊前の人たちでも若い人はあまり知らないようだ。全国的にも有名な事件ではない。 今度の大河ドラマでどの程度とりあげられるか?疑問である。官兵衛にとって最大の汚点だから。

2013年10月17日木曜日

城井谷の歴史1

12日に求菩堤温泉にとまる。 13日にそこの歴史資料館で如水の書をよむ。その後32号線で城井谷にでて、城井上城の巨岩をみる。3丁弓岩なども迫力だあった。 南下し天徳寺で宇都宮鎮房らの墓をおがむ。だらに松丸の宇都宮館あとをみて、蔵内館を見学。 蔵内は宇都宮の家臣であったことをしる。 豊津(みやこ町)にでて、3重塔と馬ヶ岳の登山口までいく。2時に行橋市内で昼食をとる。 充実した一日であった。

2013年10月11日金曜日

宇都宮氏

築上町城井谷の豪族、宇都宮氏は鎌倉時代から九州にきた関東武士である。
 秀吉の九州平定に反抗して黒田官兵衛の謀殺された。 
その遺跡や城跡を小和田先生も昨年末に視察されたそうだ。 わが家も家内のほうの出身地なので、明日から1泊2日で見学にでかける。

2013年10月9日水曜日

島津と黒田

島津は鎌倉幕府の時代から九州南部を領有し、幕末まで支配してきた。 
黒田は関ヶ原以後の筑前に入り、幕末まで支配してきた。 しかし如水や長政の血筋をひく子孫は5代あたりで絶えて、養子の連続でつないできた。
 福澤諭吉は、宇都宮一族をだまし討ちにしたことの祟りだといったいる。 
島津からの養子の長博は両藩の接点となって、いろいろ歴史的な仕事をしたが、悪名のほうが高くて、記録が残されていない。

2013年10月8日火曜日

如水の生誕地を地図で確認

摂津や播磨地区は土地勘がないので、官兵衛の生誕地の名前をきいても ピンとかない。 昨日は詳細地図で、琵琶湖の北端の木之本村や、西垣市の北西にある黒田庄町などをしらべて、やっと明確になった。 当時の豪族の行動範囲からみて、黒田庄町のほうが生誕地として合理性があるように思えた。

2013年10月6日日曜日

黒田官兵衛の魅力

生誕の地姫路の歴史研究家黒田さんの講演を聞いた。 歴史的に新しい事実は、彼の生誕地が姫路か、黒田村か2つの説があること、 小寺に就職活動をしたことなどであった。 天下とりの勢力を、毛利から織田に切り替えたことの根拠なども不明のままだった。 大河ドラマに採用の努力など、5年かかったことなど裏話が面白かった。

2013年10月3日木曜日

太陽の惑星

太陽系の惑星は地球を含めて9個の惑星がある。 火、水、木、金、土の5星ほかに、あらたに天王星、海王星、冥王星が見つかった。 これらの新しい惑星は直接の観測ではなく、ニュートン力学による軌道計算により予測されたあと、観測されたという。人類の頭脳はその後も宇宙解明におおきな謎と戦っている。

印度とは。

岡倉天心はの晩年は印度にでかけて、世界観が変わったという。晩年の10年。 敦子も印度にいって性格が変ったようだ。 私は印度を知らない。しかしなんとなく印度的なものに興味がある。 仏教の原点、雅楽のルーツ、などなど。行ってみたいものだ。

2013年9月30日月曜日

立花城と名島城:豊臣秀吉と小早川隆景

織田信長の時代、毛利氏は尼子氏を滅ぼし、中国地方の全域を制覇して、120万石を領有をする大国であった。


秀吉が備中高松で毛利征伐の最中に本能寺の変がおこり、秀吉が和睦して中国大返しをしたとき、毛利三柱のなかで、秀吉追撃に反対したのは小早川隆景であった。


秀吉はこれを高く評価し、隆景に伊予を与え独立させようとしたが、毛利家の領地にゆずった。
その後秀吉の九州征伐では、小倉城を攻略し、朝鮮出兵でも大軍を退ける武功をあげ、秀吉の信頼を勝ち取った。



秀吉は九州出兵で島津氏を押さえ込み、九州を平定したあと、中国の毛利氏をすべて九州(筑紫・肥国)に移封しようと考えたという説があるが、結果的には毛利氏の勢力を分散するために、小早川隆景を筑前に移封した。  

しかし小早川は、筑前で大友/毛利時代に争奪戦が繰りかえされた立花城を当面の拠点にしたが、すぐに名島城の築城計画もたてていた。
その背景には、すでに秀吉の朝鮮出兵の計画があったからだという説が最近唱えられている。
名島城跡


名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
さらに、瀬戸内の村上水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的で、当初の九州での秀吉政権の柱としようと考えたようだ。
だからこの二つの城で、織豊時代の新しい築城技術を小早川軍に教え込んで、朝鮮での倭城作りの訓練をした。
立花城には2,3年しかいないのに、大改修をおこなった理由は、この訓練のためであった。

「今日は玄界義塾で、「名島城の縄張りから何がわかるのか」‐-朝鮮出兵を通じた小早川・毛利氏の近世大名への道程ーーというタイトルで、九大の木島先生の講演を聞いた。
従来の歴史書では、九州平定後に秀吉が小早川に筑前入国を命じたのは、毛利の戦力分散を考慮したとする説が多かった。
木島先生の話では、名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
瀬戸内の水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的だったようだ。
その裏付けとなる資料や古文書を多数しめされたし、レジメもいつものように多頁の立派なものであった。
秀吉は隆景を信頼していたので、自分の死後秀頼を守るための五大老に徳川、前田、宇喜多、毛利輝元とともに小早川隆景をいれた。



しかし隆景も秀吉のあとを追うようになくなった。
関ケ原の戦では、その養子の小早川秀秋が、東軍勝利の切っ掛けをつとめた。

徳川将軍家と黒田家

古賀市の清滝寺に、葵の家紋がついた位牌がある。
八代将軍吉宗は、奇跡的な幸運でえらばれた将軍職を、自分の血筋に継がせたいと思った。
そこで田安家や一橋家をつくり、今までの御三家のほかに、将軍継承の権利をつくった。
三男が一橋家を継ぎ、その四男(吉宗の孫の一人)が、黒田家に襲封して7代藩主黒田治之となった。
彼が持参した父の位牌であり、西公園の松源院にあったものが、院は廃止された時に、同じ天台宗の古賀の清滝寺に移されたものである。

2013年9月25日水曜日

蜂須賀小六ー2

黒田官兵衛と蜂須賀小六が、秀吉の軍師として活躍した。官兵衛のほうが有名だが、小六のほうが先輩せあった。 長政の妻には小六の娘がえらばれたから、二人は姻戚関係となった。 しかし関ヶ原のあと、長政に52万石の筑前領を与える条件として、家康は保科の娘を養女として長政に押し付けてきたので、小六の娘は離縁されてしまった。 官兵衛と小六の縁も薄れていっただろう。

2013年9月20日金曜日

蜂須賀小六(ころく)

秀吉との出会いは橋の上。年上なのに出世がおくれ、秀吉の部下となる。信長の側室吉乃の縁者で秀吉とむすびついた。 秀吉が琵琶湖のほとりに、初めての長浜城主となったときは、秀吉の弟秀長が8000石、蜂須賀が3000石で、実質最高の家臣となる。 しかしその後は黒田などの軍師のかげにかくれて名前が出ない存在となる。 不思議な人材である。

2013年9月17日火曜日

志賀島

こみねという割烹旅館で昼食会をした。もう50年以上も営業しているという。 金印ご膳というのが1500円で、ちょうど手ごろな昼食だった。 中学同級の上野君がやっていた松屋旅館は、彼が平成5年ごろなくなって、子供たちが経営をやめたという。 志賀島は市街化調整区域になっていて、新しい観光産業がなかなか興りにくいそうだ。

金星

松鳳山が横綱日馬富士を破った。うれし泣きの涙を流しながらの退場だった。

2013年9月14日土曜日

イプシロン

今日は無事にイプシロンの発射が成功し、衛星が軌道にのった。 イプシロンの文字のかたちが、迷走を生んだのか?

萩原重秀

貨幣の価値は金貨の質できまるか? 新井白石と萩原重秀の論争で、新井が勝利したため、幕末の開国の際に日本は大きな損失をした。 新井白石の評価を変えなければいけない。

2013年9月10日火曜日

松山のゴルフ

フジサンケイのゴルフで松山が優勝したが、きわどい綱渡りだった。 2打リードで17番のショートホールで池にいれ、プレイオフとなった。 そのため放送時間がきれてしまい、バンカーからのピンそばによせたプレイは 夜の部の放送でやっとみることができた。

オリンピック

東京でまたオリンピックが開催されることになった。 総和39年の時の特集記事を保存していたが、どこにいったか行方不明だ。 第五郎さんが組織委員長のときのものだから、廃棄したはずはないのだが?

2013年9月3日火曜日

YOUTUBEにゼロ戦の話

堀越の本をよんでいたら、たまたまYOUTUBEにゼロ戦の話が5部もあるのを知り、全部みてみた。 機体、エンジン、操縦性、銃撃性、整備性など各種の議論が出ている。 当時の技術者と操縦者の苦心がよく理解できた。

2013年9月2日月曜日

ゼロ戦の開発

堀越二郎が開発リーダーをつとめたゼロ戦の開発記録本を読んだ。 その中で振動問題を解析して名をあげた松平精の名前が何回もでてきた。 IHI時代に何回もあった方で、よく知っていたが、その内容をはじめて 詳しく理解できた。

2013年9月1日日曜日

大河ドラマのミス

「八重の桜」で山川健次郎が帰国して、アメリカの大学の卒業証書をみせた。 文学士の学位になっていたが、実際は理学士である。 大きなミスだ。

2013年8月29日木曜日

藤四郎

安川敬一郎の幼名は藤四郎である。 黒田藩士に藤(フジ) 四郎という人物がいる。
 脱藩して長州の騎兵隊にはいった勤皇の志士である。 野村望東尼を姫島から脱島する際に活躍した人物である。 
その名前を子供につけた徳永家も勤皇派であったのだろうか? ただの偶然なのだろうか?

2013年8月27日火曜日

安川敬一郎の時代

大河ドラマ「八重の桜」は幕末明治を敗者の立場で描いたものだ。 
主人公の八重子は、安川敬一郎より4年前にうまれ、4年後に死亡している。ほぼ同じ時代の人物である。 


そこで敬一郎の本などを読み直して、当時の地元の動きをしらべてみた。
 黒田藩は勤皇の志士を皆殺害して、佐幕体制であったため、戊辰戦争が起こってはじめて3人の家老を切腹させ、戊辰戦争への兵隊を送った。
 敬一郎も戊辰戦争に出兵予定だったが、安川家の養子となり中止となった。
 明治になり江戸への派遣留学生にえらばれ、上京する舟のなかで、長州武士にあい、はじめて西郷や大久保の名前を知ったという。
 勝海舟にあって、西郷や大久保や佐久間などの人物像をきいたという。その後薩摩藩士の事件にであい、薩摩や長崎にもでかけた。これにより敬一郎の世界がひろまったようだ。 
再度上京し福沢諭吉の門下生となる。
しかし長兄が贋札事件の責任者で切腹し、次兄が佐賀の役で戦死したため、帰郷して炭鉱経営を引き継ぐこととなった。 
頭山満の父は、戊辰戦争に参加した人物だから、病で死亡するときは、畳の上では死ねないといって、庭の土の上に移させたという時代である。
 戊辰戦争では、会津藩は壊滅状態にされたが、庄内藩は最後の交渉で、多額の献金条件を提示して殆ど無傷の条件で、明治をむかえている。新政府の弱点をうまく利用した藩もあった。 
安川敬一郎は、苦しい炭鉱経営を見事に立て直し、さらに紡績業や鉄鋼業にも手をひろげた。
その利益を國家に還元するために、会津藩出身の東大総長だった山川健次郎の力をかりて、戸畑に明治専門学校を設立したことは有名である。
 それ以外にも大河ドラマの人物と接触したことがありそうだ。 
頭山満や玄洋社のメンバーとは親しく交流して、中国の孫文を支援したりし、衆議院議員にもなっている。
グラバーの子息の「倉場」の日本名を提案したという話もある。

2013年8月21日水曜日

今山の奇襲戦

【今山の戦い】元亀元年(1570)8月20日 鍋島信生(のち直茂)が、大友宗麟が差し向けた佐嘉攻めの大将・大友親貞を今山に奇襲して討ち取る。 この年の三月末、豊後の大友宗麟は肥前佐嘉城(佐賀市)の龍造寺隆信討伐の兵を挙げ、六万(兵数には異説あり)の大軍で肥前へと侵攻しました。宗麟は筑後高良山(福岡県久留米市)に本陣を置き、先陣の立花道雪・高橋紹運は三万の兵を従えて阿祢堤原に布陣、これに筑後の国人衆や肥前の反龍造寺氏勢力が集結して加わり、佐嘉を遠巻きに包囲しますが、戦線は膠着状態となりました。 七月~八月にかけて大友方の筑後勢が攻めかかりますが、龍造寺勢は必死に防戦して撃退します。 好転しない戦況に業を煮やした宗麟は弟(一説に甥)の親貞に三千の兵を与え、親貞は八月十七日に佐嘉城の北西・今山に陣を置きました。 対する隆信は納富信景に二千騎を与えてこの方面の押さえとし、翌十八日の夜に成松信勝が忍びの者を放って敵情を探ったところ、親貞は圧倒的な状況に楽観視していて兵の統制も取れていないとの報告がありました。 夜襲の絶好の機会と判断した信生は、隆信の許しを得ると直ちに行動に移りますが、城を駆け出た時はわずか主従十七騎だったと伝えられます。一方の親貞は二十日に総攻撃と決定しますが、前夜には酒宴を開いている有様で士気は緩んでいました。  後から駆けつけた者を合わせて三百騎となった信生勢は夜陰に紛れて迂回し、親貞の裏手の山へと回ります。そしてこの日の未明、一斉に鬨の声を上げて貝を吹き鳴らし、大友勢の本陣に切り込んでいきました。直ちに山麓の納富信景も呼応して攻め上ると、油断していた大友勢は大混乱に陥り、我先に壊走を始めました。  親貞主従三人は何とか混乱を脱し、山伝いに筑後方面を目指して退却しますが、成松らに追いつかれてついに首を挙げられました。大将を討たれた大友勢は一瞬にして烏合の衆と化し、二千余の兵を討たれて潰走、この戦いに大勝した龍造寺隆信は以後急速に勢力を拡大することになります。

2013年8月19日月曜日

箱崎の人形飾り

昭和初期の子供のころ、玄関の空間に砂をいれて箱庭を作り人形をならべてかざった。 箱崎の人形がざりの祭りである。 

富士山のすそのの鷹狩。



忠臣蔵討ち入りの、吉良上野の屋敷の橋の上の清水一角の勇姿。


さるかに合戦。



肉弾三勇士など、のおぼろげな記憶がある。


二三子も見た記憶があるという。わが家に見物にきていたのかも。 
となりの家の藤野重久さんが、平成時代になってこれを復活させたという。

硫黄島

硫黄島玉砕部隊の栗林隊長(大将)は、映画化された。 その娘さんの子供新藤義考氏は現在総務大臣。靖国神社には遺族として 堂々と参拝できる。 もし将来総理になっても参拝できる唯一の人だろう。

2013年8月16日金曜日

薦野増時と小野和泉(鎮幸)

古賀の郷土史の主役は薦野増時(立花三河)であり、市の広報誌にも特集が掲載された。 
 内容は充実していたが、小野和泉のことには触れられていなかった。
薦野増時
立花城の城主が立花道雪や立花宗茂の時代では、家臣は小野和泉(鎮幸)と薦野増時の両家老の二派に、分かれていた。
薦野は、中世からの地元豪族であり、小野和泉は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任してきた。

豊後国大友氏の家臣・小野鑑幸の子として誕生。

由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた。

筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。


小野和泉は立花城時代には、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦などで活躍した武将であった。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。

薦野増時は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人を越え、田舎豪族には稀なる人材であると同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、戦国の世の習いである。

薦野増時も、能力のある人物であることは確かなのに、武儀は二番のように、特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたようだ。

小野和泉派と薦野増時派の対立は、小野和泉派は相手を「比丘尼組」と呼び、薦野派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、それぞれに腹を立てさせることもあったという。


そのせいか古賀の郷土史家たちは、小野和泉のことを、あまり評価せずに、取り上げることが少ない。

小野和泉の子孫で有名なのがオノヨウコである。
彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡があるからだ。そのためか、ゲームの世界では小野和泉が有名になっている。

古賀市にもかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
薦野や筵内や米多比の地名は残っているが、小野の地名は消えて、小野公園や小野小学校の名前だけが残っている。
明治22年以前にも小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。 
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説もあるが、はっきりしない。

古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが、根拠がうすいので、招待できそうもない。

薦野増時のほうは、薦野城跡もあり墓もあって、薦野地区の郷土研究会で毎年記念行事や資料研究が行われている。



二人は現在でも、対照的な人物として取り扱われている。

お盆

6日にお寺で法要があり、13日に家で迎え火、お経、15日に家で送り火、お経をあげる。 提灯の出し入れもしんどくなってきた。来年はできるかな?

2013年8月14日水曜日

機雷と魚雷

関門海峡で戦時中の機雷がみつかり、爆破作業が行われた。 戦時中に博多湾にも投下された現物をみたことがあるので、まだ残存していたのかと驚いた。 
テレビでは人間魚雷の戦士で生き残りの人の話が放送された。こちらの残存はすばらしい。

鶴崎踊り

現在は大分市に合併された鶴崎町には有名な夏祭りの踊りが古くからあるそうだ。 テレビで紹介されたが、優雅な衣装を毎年つくるそうだ。

2013年8月9日金曜日

戦争を学ぶ

夏休みの宿題で、学生達に戦争を学ぶことを出題している先生が多いようだ。 
そして生徒達は、戦災の跡地をしらべて、悲惨な戦争を止めようと考える。
 負けた戦争の結果は悲惨だが、勝利した戦争の結果もある。 戦争の原因は複雑でなかなか複雑で、学生にはわかりにくいだろう。
 しかし戦災のことだけで、戦争を考えるのは過ちである。

2013年8月6日火曜日

黒田藩時代の古賀市郷土史


関ヶ原戦後に52万石で筑紫入りした黒田如水と長政親子。
江戸時代の古賀地区図(①~④は本文の中)
如水は古賀市の郷土史に直接登場することはないが、長政は千鳥ヶ池①で大雨に合い、流の泉林寺に雨宿りをしたという逸話がある。

薦野氏と米多比氏: 古賀市の黒田以前の戦国時代の代表的豪族は薦野氏と米多比氏であり、ここでは両者の比較をまとめてみる。
1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数。
2)こが広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載。
3)現在の行政区地名として、薦野区、米多比区が隣接しており、その東側丘陵地(300m弱)に,薦野城跡と米多比城跡が現存している。
4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
5)立花氏が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。 
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、その後柳川に移動する前後からは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。薦野増時は立花宗成の命により、黒田経由で家康との交渉にでかけてたりいる。
8)薦野増時の子孫の立花実山が、黒田藩史では有名だ。 


団氏:
古賀に旦の原②という地名があり、ダンノハルという。
旦の字は日の出をあらわし、タンと読むのが普通である。
しかし旦那はダンナだから濁音もある。旦と団は意味が違うが、音は同じだ。
この地の出身豪族に団氏がいて、かってこの地の満本城の城主であった。
薦野氏との戦いに敗れて、その後は薦野氏にしたがって立花や黒田の家臣となった。
11代目の団尚静は幕末のころ黒田の勘定奉行までなったが、維新のころは江戸勤務であったため、黒田偽札事件には関係せずにすみ、同僚が多く罪にとわれるなかで、福岡藩から福岡県の官僚として生き残った。
筑前竹槍一揆が起こると、その事件処理に功績をあげて、県権大参事になった。
その子の団琢磨は藩の海外派遣員としてアメリカに渡り、鉱山学などを学び帰国した。東大の教壇にたったのち工務省の役人となり大牟田の三池鉱山の開発を担当した。鉱山の民営化で三井物産が入札したとき三井物産に天下りし、最後は三井財閥のトップとなるが、テロにあい生涯を閉じる。
その子の団伊能も実業家として活躍し、その長男の団伊久磨は作曲家として有名人となった。
伊久磨は団氏のルーツ探しに、古賀まで足を運んできたことがある。どんな感想をもって帰っただろうか。
今は九州高速道路の古賀パーキンエリアが出来て、九州では人気のある場所になっている。

飯尾理入
飯尾理入は国東半島の大友の城の一つの冨来城代として黒田と戦い、降伏して黒田の家臣となって、古賀の小山田地区③に居住した。その墓が古賀市薬王寺にある。この飯尾理入は豊後では垣見理右衛門と名乗っていた。「飯尾」の姓は祖先が「尾張の飯尾氏の養子になった」時代があったかららしい。
菅六之助正利
黒田25騎のなかで、一人だけ糟屋との関係記録のある人物がいる。「菅(カン)六之助正利」である。
筑前入して3000石となり、伊都郡や糟屋郡の郡奉行となる。
糟屋郡では、古賀の「新原村」の新田開発をしたという記録がある。
播磨国揖保郡のうまれで、如水のもとで若い頃から働き、初陣は17歳の時の賎ヶ岳の戦で、二人を倒して如水からほめられた。
岸和田の陣で根来雑賀衆と戦い戦功を上げた。
九州役でも築井城攻めで敗退のとき、長政を守って活躍した。
中津入りしたときは200石であった。
朝鮮の役では虎退治の武勇伝が有名である。
関ヶ原の役では小早川秀秋との連絡役をつとめ、本戦では鉄砲隊を率いて、石田側の重臣島左近を打ち負傷させた。
晩年は和泉守を名乗り、茶の湯を楽しみ、黒田長政の没後は出家したという。
古賀の新原には何も古文書や遺跡らしいものが残っていないのは残念である。
もと民主党の菅首相はこの一族の別れの末裔ということらしい。

斉藤甚右衛門 
古賀の筵内を領有していた斉藤甚右衛門は、黒田長政の家臣として筑前国いりをした。
斉藤家はもとは武田源氏の家臣だったが、信玄が死亡したあと武田家をはなれて保科家につかえ、さらに黒田家に移ったという。
甚右衛門は関ヶ原の戦のおり、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を後藤又兵衛と共同で苦労して救い出したのが大きな功績とされている。
関ヶ原以降は長政夫人付きの家老職をつとめたようだ。
筵内④の医王寺に一族の墓があり、幕末まで黒田に仕えていたようだ。
しかし薦野氏や米多比氏のように戦国時代から地元にいた武士ではないので、知名度が低いのはしかたがないだろう。

筒描

染物技法のひとつ。藤田画伯が愛したという。 ロウケツ染めの経験はあるが、それより繊細な絵画が染められている。

片寄平蔵

江戸末期から明治初期に、農家の子弟から身を起こし木材商から石炭商となり、財をなした。常磐炭田の発見者であり、地元の開発に貢献した。ただし反感者におそわれ命をおとしたという。

2013年8月1日木曜日

■【岩屋城の玉砕】高橋紹運(改訂版)

天正十四年(1586)7月27日、筑前岩屋城に籠もる高橋紹運が、島津軍の猛攻の前に再三善戦した後に自刃、城兵も全員玉砕して落城。紹運享年39歳。 



 紹運は入道名で、本命は高橋鎮種(しげたね)。 天文十七年、豊後大友氏の一族で豊州三老(大友三家老)の一人・吉弘左近大夫鑑理の二男として豊後国東郡筧(かけい)城(吉弘館=大分県豊後高田市)に生まれました。 
幼名は弥七郎、初め吉弘鎮理(しげまさ)と名乗り、のち高橋氏を嗣いで高橋主膳兵衛鎮種と改名します(以下紹運で統一)。 
紹運は寡黙沈着で勇気があり、口数は少ないが言うべき時には自分の意見をはっきり相手に伝えて納得させたと伝えられ、大友宗麟からも厚く信頼されていました。 
九州関連地図
  永禄十年(1567)、大友氏の臣・高橋鑑種が立花城で毛利氏と通じて離反するという事件が起きます。
宗麟の乱脈に反抗した反乱ですが、後に鑑種は誅殺されます。
このとき紹運は宗麟の命で高橋氏の跡を嗣ぎ、立花道雪とともに大友氏を支えました。 
 
大友氏は天正六年(1578)十一月の耳川の戦いで島津氏に大敗して以来凋落の一途をたどりますが、道雪や紹運の踏ん張りで何とか持ちこたえます。
しかし同十二年三月、肥前島原沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼして一気に勢力を強めた島津氏は、次の矛先を豊後・筑前に向けられました。

そして当時筑前岩屋城(福岡県太宰府市)を守っていたのが紹運だったのです。  
島津氏は島津忠長・伊集院忠棟らの五万の大軍で筑前に向かって押し寄せ、各地で勝利してました。

対する紹運は千にも満たない寡兵で島津勢を迎えます。家臣たちは口々に援軍を求めるよう進言しますが、紹運は頑として受け付けませんでした。なぜなら敵は薩摩の強兵五万、少々の援軍など意味のないことが紹運にはよくわかっていたのです。
玉砕を覚悟した紹運は、開城を勧告する島津の軍使に対してもかたくなに拒絶しました。そして戦国期に存在した数ある壮絶な戦いのうち、その筆頭と言える戦いが始まりまりました。 
岩屋城地図
  五十倍以上の敵に一歩も引けを取らず、紹運は半月以上も持ちこたえました。ある時は果敢に城を打って出、ある時は石や火矢や鉄砲玉を敵に浴びせ、それこそ死にもの狂いの防戦が繰り広げられました。

しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ、とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運もこの日に切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
さすがに島津の強兵たちも紹運の凄まじい働きには言葉を失い、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したと伝えられます。 
墓場入り口
紹運の墓
  紹運享年三十九歳。あまりにも早い終焉でした。斜陽の大友家にあって、最後まで義に生きた名将・高橋紹運の名は、四百年以上を経た現在においても色あせることなく語り継がれています。

2013年7月29日月曜日

クーラの温度

猛暑なのでクーラーは必要だ。しかし老人はあまり冷えると弱い。 弱冷車に乗るべきだ。 自宅では、29度設定くらい。28度では寒い。

2013年7月26日金曜日

太陽が一杯

今日の映画会は太陽が一杯であった。 アラランドロン主演で音楽のリズムは良く知っていたが、恋愛殺人事件だった。 ストーリに少し非現実性があるが、楽しめる内容だ。

2013年7月23日火曜日

王子誕生

イギリスの王室で王子が誕生した。世界中のニュースになっている。 フランスのルイ16世の時代では、王室のお産には200人の立会い人がいたという。出産する王妃は大変だっただろう。 いまは個室で1泊70万円のホテル並みの病院での出産だという。

2013年7月19日金曜日

魏志倭人伝

倭人とはなにか? 
人偏に禾と女の組み合わせ。 禾は粟の意味、粟を収穫する女性。 背の低い優しい人物の意味という。 
倭国伝でなく倭人伝というのは、国という認識も薄かったらしい。

しかし中国のいくつかの文献には、倭国の存在場所の変遷が記載されている。

 西方浄土筑紫嶋: 日本・朝鮮における「倭」国の変遷 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

2013年7月18日木曜日

芥川賞

今年の受賞者は藤野可織さんという。 はじめて聞いた名前だが、同姓のよしみで祝福しよう。

2013年7月13日土曜日

黒田長政の妻

 4人の妻

1)秀吉の養女(蜂須賀の娘)と結婚:女の子を残して離婚。
2)宇都宮静鎮房の娘と政略結婚・父親を殺害と同時に殺害。
3)家康の養女(保科正直の娘):4男2女をもうける。
4)従姉妹の女にてをつける。男の子をもうけるが、世間体をは ばかり、部下の男と結婚させる。

2013年7月6日土曜日

黒田官兵衛の勉強会

今日は3回目、いよいよ九州での活躍。三浦講師は元気だが、雨で受講者は少なめだった。
中津入りして13万石の大名となる。しかし宇都宮一家の鎮圧に苦労し、隠居して迎えた関ヶ原の戦で、豊後地区や肥後地区の平定に活躍する。
息子の長政の活躍で筑前52石になるが、隠居の身は密に老後を迎える。

2013年7月5日金曜日

隣家の改築

小竹の隣家が改築中で、2階建てになるようだ。
離れているので、日陰になることはあるまい。
平山氏の隣家も2階建てになるようで、こちらは日陰になりそうだ。

2013年7月3日水曜日

風景遺産

テレビの風景遺産特別番組では、九州の宇佐八幡宮周辺、阿蘇、霧島、国崎半島などが紹介された。宇佐八幡周辺の農村風景や夏祭り風景ははじめてみた。

2013年7月2日火曜日

古賀の船原古墳出土品は国宝級(改訂)

2013年に、古賀市谷山の船原古墳周辺で出土した国宝級の馬具などが、古賀市を有名にした。

とくに今回、玉虫の羽で装飾された金銅製の馬具であったことが、国内で初めて見つかったことで、全国紙に一斉に大きくとりあげられた。各紙の概要をを抜粋する。

玉虫を使った装飾品は国内では4例のみで、そのうち法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)」と福岡県宗像市沖の沖ノ島の「金銅製帯金具」は国宝である。













同様の馬具は、朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ)の王陵クラスで出土したものがあり、両地域の親密な関係を裏付けた。
          皇南大塚出土品の玉虫装飾

 

当時の大和政権は新羅のライバル・百済(くだら・朝鮮半島南西部)と同盟関係にあり、船原古墳の被葬者が大和政権とは別に、独自外交を展開した可能性が浮かび上がった。同古墳が築造された6世紀末~7世紀初めは、朝鮮半島の勢力図が大きく変わる転換点にあった。半島北部の高句麗(668年滅亡)と百済(660年滅亡)が衰えはじめ、新羅が勢力を伸ばした。

 大和政権は百済と密接な関係を保つなか、新羅は北部九州の勢力に接近。半世紀ほどさかのぼる527年には九州の豪族・磐井(いわい)が新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す「磐井の乱」を起こした。磐井は敗れ、大和政権は九州の統治を強化したが、その後も新羅は大きな脅威となっていた。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「大和政権は国家レベルで百済と同盟を結んだが、北部九州の勢力は朝鮮半島の複雑な力関係を見極めながら、独自につながりをもったことが考えられる」と話す。

福岡県粕屋郡にはヤマト王権の支配拠点「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」があり、外交窓口の役割も担った。当時は新羅との緊張関係が続いた時期。朝鮮半島では王陵級でしか出土しない玉虫装飾と確認されたことで、福岡大の桃崎教授は「船原の主は外交のキーパーソンであり、新羅からも一目置かれていた存在」とみる。また美術工芸の分野においての意義も大きい。新羅発祥の玉虫を使った馬具装飾技術は、次第に玉虫厨子(7世紀中ごろ)といった仏教美術、工は、芸にシフトした。今回の玉虫杏葉はその転換期のもので「空白を埋める資料」。謎の多い玉虫厨子の来歴を考える上でも価値が高いと、桃崎教授はいう。






 杏葉の装飾に玉虫の羽が敷き詰められていたことについて、船原古墳の遺物調査などに助言する今津節生・谷山北地区遺跡群調査指導委員会会長(奈良大教授)は「装飾の材料としての玉虫は、国内では超一級、最高級の工芸品に使われている」と意義を説明。

田辺一城市長は玉虫が幸運を呼び込むとされていることに触れ、「世界の状況が厳しい中、社会に明るいメッセージを発することになる。今回の発見をこれからのまちづくりにもつなげていきたい」と声を弾ませた。


国宝に認定されるにはまだ20年ほどかかるらしいが、現在地元に保存・展示する場所がなく、九州歴史資料館などに保管されることになるらしい。

奈良県の藤ノ木古墳などは、結構辺鄙な田舎にが記念館が出来ているらしいが、国が直接管理するか否かで、扱いが大きくかわる。

古賀市に記念館が出来る可能性はどの程度だろうか。これ以外の出土品についても、大いに検討し、PRしていかなければならない。
















玉虫羽の発見が、発掘当初の2013年から7年後になった理由について、会場におられた歴史資料館長にお尋ねした。土豪の中に埋もれていたため、損傷がひどく、注意深く処理する必要があった。2015年にエックス線撮影によって、鳳凰の形の模様が発見された。この時は、玉虫羽は不明であった。



桃崎教授らにより、玉虫羽の可能性があることが、2016年に予言された。
小郡市にある九州歴史資料館で、目立たたない縁の下のクリーニング作業にあたられた研究員の紹介もされ、その結果玉虫羽の発見につながったのだと思います。
 今ではお目にかかることがまずない、本物のタマムシを敷き詰めて再現にも挑戦されました。。


 その後さらに詳細な観察と、断層撮影(CT)による検査で、上の図の丸印の部分に玉虫羽が確認され、今回の発表になったという説明をうけた。科学技術の進歩のおかげである。










ここ数年の調査結果の報告をみると、従来のスケッチ図や写真による説明でなく、若手研究者の西さんらは、最新のCGアプリで、3Gでの回転や、接写拡大、色分けなどを駆使して、埋蔵状況や、素材のクリーニング法やその材質などが詳しく説明された。
また福大の桃崎教授は流暢な講演で、2014、16、につぎ、19年に3回目の受講をしたが、出土した部品の類似品を多数紹介されるのに驚いた。
また金属やガラスなどの素材から、埋蔵物の製作年代を推測する技術内容も詳しくしめされた。
最近1年間中国各地の史跡調査をされてこられたそうで、豊富な資料収集の成果から、西暦600年前後のものと判定された。
教授の持論である粕屋屯倉は、上宮王家、山背大兄に仕えていた乳部や「つきしね」らと可能性があることは、前回同様にレジメで強調されていた。これは私も以前から調査していたことで、一度先生に報告したいと思う。
このような推測の内容を積極的に発言されるのは、筑波大学院で学ばれたからで、旧帝大系の先生では見られない。