2013年12月31日火曜日
2013年12月30日月曜日
2013年12月26日木曜日
2013年12月25日水曜日
2013年12月23日月曜日
三池藩
統虎は秀吉の援軍の力を得て、島津軍を撃退し、柳川の地に領地を得て立花宗茂となる。
その後、関が原の戦で西軍について領地を失うが、数年後に複権してまた柳川藩主となる。 弟の統増は島津戦のときは宝満山にいて玉砕を逃れており、その後宗茂とともに行動していたが、宗茂複権のとき5千石の旗本に取り立てられ、その後一万石に加増されて、三池藩主の始祖となった。
三池藩は幕末までつづき、一時旗本にもどったが、また一万石の藩主となっている。
最後の藩主立花種恭は子爵となり、学習院の初代院長を務めている。
2013年12月22日日曜日
2013年12月20日金曜日
八重の桜
2013年12月13日金曜日
一光三尊と一光寺と咸臨丸
善光寺の一光三尊 |
一般の一光三尊 |
善光寺式と一般の一光三尊像の比較 :
一光寺の本堂で確認したら、現在の三尊は上記の一般のものだが、光背は一つでなく、三尊に個別についている。
一光寺は、創設時の名島地区からの移転や、箱崎千軒地区の大火による消失などで、本尊も作り変えられたようで、当初のものや名称とは無関係になったらしい。
一光寺の460年史にも記載されている歴史で有名な事件:
黒田11代藩主の黒田長溥は蘭学に熱心で、蘭学者永井青崖をかかえていた。
若き日の勝海舟は、その永井に蘭学を学んだ。辞書を借りて2冊の写本をつくり、1冊を売って学費とした話は有名だ。
藩主はこの経緯をしっていたので、長崎海軍練習所時代の勝海舟に、博多湾に寄港するように要請した。
咸臨丸 |
2013年12月10日火曜日
2013年11月30日土曜日
2013年11月29日金曜日
2013年11月26日火曜日
2013年11月25日月曜日
2013年11月16日土曜日
2013年11月13日水曜日
伝法寺の地名と人物(宇都宮記録)
城井谷にある伝法寺という地名だけ知っていたが、ここに堂山城があり、城主として「伝法寺兵部」という武将がいたという。
古文書の宇都宮記録にも、「家老」の2番手にその名が書かれている。ほかの家老名の地名はのこっていないようだ。
伝法寺は宇都宮鎮房(しげふさ)の家老であり、黒田官兵衛に包囲されたあとは、降伏するように調停役をつとめたようだ。
小和田さんの本には、くわしく書かれているのに驚いた。
古文書の「一族家中」の名前のなかには、わたしの妹の嫁ぎ先の渡辺や、知り合いの加来などの名前がある。
さらに鎮房と中津に同行して殺された人物の名前の中にも、渡辺、神崎、松田、中野など地元の人の名前がある。
地元では築上町と豊前市の住民らが豊前国「宇都宮連合」協議会をつくったり、鎮房を主役とする劇団をつくったり、オリジナル切手を出したりして、宇都宮一家のPRに努めているようだ。
2013年11月5日火曜日
2013年10月30日水曜日
2013年10月25日金曜日
中津城での謀殺の理由
2013年10月23日水曜日
宇都宮氏(城井氏)の滅亡1
2013年10月17日木曜日
2013年10月11日金曜日
2013年10月9日水曜日
2013年10月8日火曜日
如水の生誕地を地図で確認
2013年10月6日日曜日
2013年10月3日木曜日
2013年9月30日月曜日
立花城と名島城:豊臣秀吉と小早川隆景
しかし小早川は、筑前で大友/毛利時代に争奪戦が繰りかえされた立花城を当面の拠点にしたが、すぐに名島城の築城計画もたてていた。
その背景には、すでに秀吉の朝鮮出兵の計画があったからだという説が最近唱えられている。
名島城跡
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名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
さらに、瀬戸内の村上水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的で、当初の九州での秀吉政権の柱としようと考えたようだ。
だからこの二つの城で、織豊時代の新しい築城技術を小早川軍に教え込んで、朝鮮での倭城作りの訓練をした。
立花城には2,3年しかいないのに、大改修をおこなった理由は、この訓練のためであった。
2013年9月25日水曜日
2013年9月20日金曜日
蜂須賀小六(ころく)
2013年9月17日火曜日
2013年9月14日土曜日
2013年9月10日火曜日
2013年9月3日火曜日
YOUTUBEにゼロ戦の話
2013年9月2日月曜日
2013年9月1日日曜日
2013年8月29日木曜日
2013年8月27日火曜日
安川敬一郎の時代
主人公の八重子は、安川敬一郎より4年前にうまれ、4年後に死亡している。ほぼ同じ時代の人物である。
敬一郎も戊辰戦争に出兵予定だったが、安川家の養子となり中止となった。
明治になり江戸への派遣留学生にえらばれ、上京する舟のなかで、長州武士にあい、はじめて西郷や大久保の名前を知ったという。
勝海舟にあって、西郷や大久保や佐久間などの人物像をきいたという。その後薩摩藩士の事件にであい、薩摩や長崎にもでかけた。これにより敬一郎の世界がひろまったようだ。
再度上京し福沢諭吉の門下生となる。
頭山満の父は、戊辰戦争に参加した人物だから、病で死亡するときは、畳の上では死ねないといって、庭の土の上に移させたという時代である。
戊辰戦争では、会津藩は壊滅状態にされたが、庄内藩は最後の交渉で、多額の献金条件を提示して殆ど無傷の条件で、明治をむかえている。新政府の弱点をうまく利用した藩もあった。
安川敬一郎は、苦しい炭鉱経営を見事に立て直し、さらに紡績業や鉄鋼業にも手をひろげた。
それ以外にも大河ドラマの人物と接触したことがありそうだ。
2013年8月21日水曜日
今山の奇襲戦
2013年8月19日月曜日
2013年8月16日金曜日
薦野増時と小野和泉(鎮幸)
内容は充実していたが、小野和泉のことには触れられていなかった。
薦野増時 |
薦野氏は、中世からの地元豪族であり、小野和泉は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任してきた。
由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた。
筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。
小野和泉は立花城時代には、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦などで活躍した武将であった。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。
薦野増時は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人を越え、田舎豪族には稀なる人材であると同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。
しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、戦国の世の習いである。
小野和泉派と薦野増時派の対立は、小野和泉派は相手を「比丘尼組」と呼び、薦野派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、それぞれに腹を立てさせることもあったという。
そのせいか古賀の郷土史家たちは、小野和泉のことを、あまり評価せずに、取り上げることが少ない。
小野和泉の子孫で有名なのがオノヨウコである。
彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡があるからだ。そのためか、ゲームの世界では小野和泉が有名になっている。
古賀市にもかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
薦野や筵内や米多比の地名は残っているが、小野の地名は消えて、小野公園や小野小学校の名前だけが残っている。
明治22年以前にも小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説もあるが、はっきりしない。
古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが、根拠がうすいので、招待できそうもない。
薦野増時のほうは、薦野城跡もあり墓もあって、薦野地区の郷土研究会で毎年記念行事や資料研究が行われている。
二人は現在でも、対照的な人物として取り扱われている。
2013年8月14日水曜日
2013年8月9日金曜日
2013年8月6日火曜日
黒田藩時代の古賀市郷土史
関ヶ原戦後に52万石で筑紫入りした黒田如水と長政親子。
江戸時代の古賀地区図(①~④は本文の中) |
薦野氏と米多比氏: 古賀市の黒田以前の戦国時代の代表的豪族は薦野氏と米多比氏であり、ここでは両者の比較をまとめてみる。
1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数。
2)こが広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載。
3)現在の行政区地名として、薦野区、米多比区が隣接しており、その東側丘陵地(300m弱)に,薦野城跡と米多比城跡が現存している。
4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
5)立花氏が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、その後柳川に移動する前後からは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時と米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。薦野増時は立花宗成の命により、黒田経由で家康との交渉にでかけてたりいる。
8)薦野増時の子孫の立花実山が、黒田藩史では有名だ。
団氏:
古賀に旦の原②という地名があり、ダンノハルという。
旦の字は日の出をあらわし、タンと読むのが普通である。
しかし旦那はダンナだから濁音もある。旦と団は意味が違うが、音は同じだ。
この地の出身豪族に団氏がいて、かってこの地の満本城の城主であった。
薦野氏との戦いに敗れて、その後は薦野氏にしたがって立花や黒田の家臣となった。
11代目の団尚静は幕末のころ黒田の勘定奉行までなったが、維新のころは江戸勤務であったため、黒田偽札事件には関係せずにすみ、同僚が多く罪にとわれるなかで、福岡藩から福岡県の官僚として生き残った。
筑前竹槍一揆が起こると、その事件処理に功績をあげて、県権大参事になった。
その子の団琢磨は藩の海外派遣員としてアメリカに渡り、鉱山学などを学び帰国した。東大の教壇にたったのち工務省の役人となり大牟田の三池鉱山の開発を担当した。鉱山の民営化で三井物産が入札したとき三井物産に天下りし、最後は三井財閥のトップとなるが、テロにあい生涯を閉じる。
その子の団伊能も実業家として活躍し、その長男の団伊久磨は作曲家として有名人となった。
伊久磨は団氏のルーツ探しに、古賀まで足を運んできたことがある。どんな感想をもって帰っただろうか。
今は九州高速道路の古賀パーキンエリアが出来て、九州では人気のある場所になっている。
飯尾理入:
飯尾理入は国東半島の大友の城の一つの冨来城代として黒田と戦い、降伏して黒田の家臣となって、古賀の小山田地区③に居住した。その墓が古賀市薬王寺にある。この飯尾理入は豊後では垣見理右衛門と名乗っていた。「飯尾」の姓は祖先が「尾張の飯尾氏の養子になった」時代があったかららしい。
菅六之助正利
黒田25騎のなかで、一人だけ糟屋との関係記録のある人物がいる。「菅(カン)六之助正利」である。
筑前入して3000石となり、伊都郡や糟屋郡の郡奉行となる。
糟屋郡では、古賀の「新原村」の新田開発をしたという記録がある。
播磨国揖保郡のうまれで、如水のもとで若い頃から働き、初陣は17歳の時の賎ヶ岳の戦で、二人を倒して如水からほめられた。
岸和田の陣で根来雑賀衆と戦い戦功を上げた。
九州役でも築井城攻めで敗退のとき、長政を守って活躍した。
中津入りしたときは200石であった。
朝鮮の役では虎退治の武勇伝が有名である。
関ヶ原の役では小早川秀秋との連絡役をつとめ、本戦では鉄砲隊を率いて、石田側の重臣島左近を打ち負傷させた。
晩年は和泉守を名乗り、茶の湯を楽しみ、黒田長政の没後は出家したという。
古賀の新原には何も古文書や遺跡らしいものが残っていないのは残念である。
もと民主党の菅首相はこの一族の別れの末裔ということらしい。
斉藤甚右衛門
古賀の筵内を領有していた斉藤甚右衛門は、黒田長政の家臣として筑前国いりをした。
斉藤家はもとは武田源氏の家臣だったが、信玄が死亡したあと武田家をはなれて保科家につかえ、さらに黒田家に移ったという。
甚右衛門は関ヶ原の戦のおり、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を後藤又兵衛と共同で苦労して救い出したのが大きな功績とされている。
関ヶ原以降は長政夫人付きの家老職をつとめたようだ。
筵内④の医王寺に一族の墓があり、幕末まで黒田に仕えていたようだ。
しかし薦野氏や米多比氏のように戦国時代から地元にいた武士ではないので、知名度が低いのはしかたがないだろう。
2013年8月1日木曜日
■【岩屋城の玉砕】高橋紹運(改訂版)
幼名は弥七郎、初め吉弘鎮理(しげまさ)と名乗り、のち高橋氏を嗣いで高橋主膳兵衛鎮種と改名します(以下紹運で統一)。
紹運は寡黙沈着で勇気があり、口数は少ないが言うべき時には自分の意見をはっきり相手に伝えて納得させたと伝えられ、大友宗麟からも厚く信頼されていました。
九州関連地図 |
宗麟の乱脈に反抗した反乱ですが、後に鑑種は誅殺されます。
このとき紹運は宗麟の命で高橋氏の跡を嗣ぎ、立花道雪とともに大友氏を支えました。
大友氏は天正六年(1578)十一月の耳川の戦いで島津氏に大敗して以来凋落の一途をたどりますが、道雪や紹運の踏ん張りで何とか持ちこたえます。
しかし同十二年三月、肥前島原沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼして一気に勢力を強めた島津氏は、次の矛先を豊後・筑前に向けられました。
そして当時筑前岩屋城(福岡県太宰府市)を守っていたのが紹運だったのです。
島津氏は島津忠長・伊集院忠棟らの五万の大軍で筑前に向かって押し寄せ、各地で勝利してました。
対する紹運は千にも満たない寡兵で島津勢を迎えます。家臣たちは口々に援軍を求めるよう進言しますが、紹運は頑として受け付けませんでした。なぜなら敵は薩摩の強兵五万、少々の援軍など意味のないことが紹運にはよくわかっていたのです。
玉砕を覚悟した紹運は、開城を勧告する島津の軍使に対してもかたくなに拒絶しました。そして戦国期に存在した数ある壮絶な戦いのうち、その筆頭と言える戦いが始まりまりました。
岩屋城地図 |
しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ、とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運もこの日に切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
さすがに島津の強兵たちも紹運の凄まじい働きには言葉を失い、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したと伝えられます。
墓場入り口 |
紹運の墓 |
2013年7月29日月曜日
2013年7月26日金曜日
2013年7月23日火曜日
2013年7月19日金曜日
2013年7月13日土曜日
2013年7月6日土曜日
2013年7月5日金曜日
2013年7月3日水曜日
2013年7月2日火曜日
古賀の船原古墳出土品は国宝級(改訂)
2013年に、古賀市谷山の船原古墳周辺で出土した国宝級の馬具などが、古賀市を有名にした。
とくに今回、玉虫の羽で装飾された金銅製の馬具であったことが、国内で初めて見つかったことで、全国紙に一斉に大きくとりあげられた。各紙の概要をを抜粋する。
玉虫を使った装飾品は国内では4例のみで、そのうち法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)」と福岡県宗像市沖の沖ノ島の「金銅製帯金具」は国宝である。
当時の大和政権は新羅のライバル・百済(くだら・朝鮮半島南西部)と同盟関係にあり、船原古墳の被葬者が大和政権とは別に、独自外交を展開した可能性が浮かび上がった。同古墳が築造された6世紀末~7世紀初めは、朝鮮半島の勢力図が大きく変わる転換点にあった。半島北部の高句麗(668年滅亡)と百済(660年滅亡)が衰えはじめ、新羅が勢力を伸ばした。
大和政権は百済と密接な関係を保つなか、新羅は北部九州の勢力に接近。半世紀ほどさかのぼる527年には九州の豪族・磐井(いわい)が新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す「磐井の乱」を起こした。磐井は敗れ、大和政権は九州の統治を強化したが、その後も新羅は大きな脅威となっていた。
西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「大和政権は国家レベルで百済と同盟を結んだが、北部九州の勢力は朝鮮半島の複雑な力関係を見極めながら、独自につながりをもったことが考えられる」と話す。
福岡県粕屋郡にはヤマト王権の支配拠点「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」があり、外交窓口の役割も担った。当時は新羅との緊張関係が続いた時期。朝鮮半島では王陵級でしか出土しない玉虫装飾と確認されたことで、福岡大の桃崎教授は「船原の主は外交のキーパーソンであり、新羅からも一目置かれていた存在」とみる。また美術工芸の分野においての意義も大きい。新羅発祥の玉虫を使った馬具装飾技術は、次第に玉虫厨子(7世紀中ごろ)といった仏教美術、工は、芸にシフトした。今回の玉虫杏葉はその転換期のもので「空白を埋める資料」。謎の多い玉虫厨子の来歴を考える上でも価値が高いと、桃崎教授はいう。
杏葉の装飾に玉虫の羽が敷き詰められていたことについて、船原古墳の遺物調査などに助言する今津節生・谷山北地区遺跡群調査指導委員会会長(奈良大教授)は「装飾の材料としての玉虫は、国内では超一級、最高級の工芸品に使われている」と意義を説明。
田辺一城市長は玉虫が幸運を呼び込むとされていることに触れ、「世界の状況が厳しい中、社会に明るいメッセージを発することになる。今回の発見をこれからのまちづくりにもつなげていきたい」と声を弾ませた。
玉虫羽の発見が、発掘当初の2013年から7年後になった理由について、会場におられた歴史資料館長にお尋ねした。土豪の中に埋もれていたため、損傷がひどく、注意深く処理する必要があった。2015年にエックス線撮影によって、鳳凰の形の模様が発見された。この時は、玉虫羽は不明であった。