2014年6月24日火曜日

6月24日(加藤清正の生死)

清正の銅像(熊本市の名刹日蓮宗本妙寺に1934年に設立された)

加藤清正は、誕生日と命日が同じ6月24日という。珍しい例である。
生誕永禄5年6月24日1562年7月25日
死没慶長16年6月24日1611年8月2日

清正は49年の生涯で、清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。

一方で家康またはその一派による毒殺説がある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。

暗殺説の中でも、家康との「二条城の会見」での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。
根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。
「どうする家康」のドラマでも、二条城の会見に、清正が秀頼に付き添い、終始そばで見守っていた。

家康が主人公のドラマだから、毒殺の話はないだろう。



2014年6月21日土曜日

仏教の民衆化の開祖:法然上人と重源

法然上人
平安中期の寺院では、貴族の子弟が大きな寺院のなかに別の院や仏堂を作り、その院主となって勢力を張っていた。
このような天台と真言の顕蜜体制のなかで、法然、親鸞などが民衆救済のために、教えを簡素に、苦行を易行にして、念仏だけで救われる仏教を広めようとした。



既存の勢力からの迫害を受けたが、次第に信者が増えて今日に至っている。
その開祖:法然上人は、比叡山をおりて、知恩院で浄土宗を開宗したのは、1175年(安元 元年)である。
民主、民権の時代のはじまりであった。


仏教が仏像を作ったり、佛塔を建てたりするのを本願とすれば、
貧窮困乏の人達は往生の望み絶たれてしまう。


法然が残した本願念仏集







浄土宗との関係で、親鸞はよく知られているが、弟子のひとりの重源はあまり知られていない。
法然の教えに深く心酔していたが、その活動が浄土宗の普及ではなく、東大寺再建を中心であったためだが、再建活動に民衆の力を広く取り入れたことで有名である。

重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本で、源平の争乱焼失した東大寺の復興を、61歳から15年かけて果たした人物である。

長承2年(1133年)、真言宗醍醐寺に入り、出家する。

のち浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。

大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。

重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西とともに帰国した。

宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地はの支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏後白河法皇と提携関係を持つようになる。

重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった。承安元年(1171年)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。

東大寺は治承4年(1180年)、平重衡南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが熔け落ちた。

 養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は61であった。

東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。

当時は、近畿周辺の巨大材木は無くなっていたので、周防国の材木を再建に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を大衆からも集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。

また、重源自身もの後白河法皇や九条兼実に浄財寄付を依頼し、それに成功している。鎌倉の源頼朝は当初は拒否したが、奥州平定後には協力して支援した。

重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。

自ら巨木を求めて周防国の(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥から道を切開き、川に堰を設けるなどして長さ13(39m)・直径5尺3(1.6m)もの巨大な木材を奈良まで運び出したという。

作業者の休養場所に石風呂などを築いたり、石畳で運搬道路を作った。

更に伊賀紀伊・周防・備中播磨摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。瀬戸内海の海上輸送で、奈良まで運ばれた。



なお、重源は東大寺再建に際し、西行奥羽への砂金勧進を依頼している。

こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。

文治元年8月28日1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている。

以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。

また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。

重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。

東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝が祀られている。運慶の作とする説もあり、鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。

浄土寺(播磨別所、重要文化財。天福2年(1234年)東大寺像の模作)、新大仏寺(伊賀別所、重文)、阿弥陀寺(周防別所、重文)にも重源上人坐像が現存する。

大原問答

文治2年(1186年)、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍証真貞慶智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号し、法然に師事した。


大仏殿のその後

浄土寺浄土堂(阿弥陀堂、国宝)

重源が再建した東大寺2代目大仏殿は戦国時代永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。豊臣秀吉は焼損した東大寺に代わる新たな大仏を発願し、方広寺大仏(京の大仏)及び大仏殿が造立されたが、大仏殿の建築様式については、かつての東大寺2代目大仏殿を参考にしたと文献記録に残る。

現在の東大寺大仏殿は江戸時代宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて平面規模が縮小されている。

重源の大仏殿は現在のものより大きなものであった。


大仏様

東大寺南大門

重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。

当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。


知恩院

2014年6月13日金曜日

古代の東遷歴史

今まで邪馬台国は九州か大和かの論争であったが、先日のテレビでは、九州から大和へ東遷したという説がでた。
九州から大和への東遷の歴史では、神武天皇の東征があり、神功皇后・応神天皇の東征もある。
さらに古くは徐福が不老長寿の薬を求めて、宮崎から紀伊まで旅をした歴史も残っている。
黒岩重吾氏は、日本の神話は、これらがミックスされているという。
最初から大和の山中に都が出来るのは不自然な話でる。
源頼朝や徳川家康が京都からはなれた鎌倉や江戸の幕府を開いたように、卑弥呼一族も、半島からはなれた大和に東遷したという説は一理がありそうだ。

2014年6月3日火曜日

船原古墳の出土品の評価と被埋葬者

2013年に船原古墳の土抗で多くの考古学的遺品が発見されて以後8年がすぎた。
この8年間に、福岡大学の桃崎教授、九州歴史資料館の加藤氏と吉村氏、佐賀大学の重藤教授、浜松市文化財課課長鈴木氏、古賀市教育委員会の森下氏と甲斐氏と西氏などの講演を聞いた。
また何回も現地や展示会に出かけ、また多くの関連資料をあつめてきたので、読み返してみた。
初期の現地説明会:赤い帽子が家内・その左が私

古墳前で孫と。


時代:九州で最初の「糟屋の屯倉」が作られた頃。6世紀後半。
古墳:前方後円墳;盗掘されて、出土品なし。

{土抗の出土品}
   武器、武具、馬具、農耕具など多数。
     (総個体数は200点以上)

武器:
   T字型利器、刀剣、弓群。

      これは最近話題になっている。

武具:
   鎧(桂甲一組)、、鉄製の鏃、漆塗り飾弓。



馬具:
   馬兜、金銅装鞍、鉄製壺鐙、轡、辻金具。


馬飾り具:
   蛇行鉄器、金銅製歩揺付飾金具金銅装心葉形杏葉
   金銅装花形杏葉、各種の鈴、各種の雲珠
金銅製歩揺付飾金具復元

玉虫の羽入り杏葉

地元にレプリカ製作技術のメーカがあることは、有難いことだ。
講演会では、資料が膨大で、プロジェクタ-による説明も多岐にわたり、私はもとより、聴衆者も消化不良をおこしたであろう。
当初は、馬具中心の話題が主体であった。
馬具セットの出土は九州各県に1~2箇所あるが、福岡県が圧倒的に多い。しかも百済系と新羅系の両方がある。
とくに船原の杏葉に、玉虫に羽の存在が発見されてからは、新羅系のデザインと判断され、国宝級の評価がされはじめた。
福岡県が馬具の出土が多いのは、馬の産地であったのではなく、朝鮮への渡航や出兵のための軍馬駐屯地であったからだろう。
聖徳太子時代に百済支援のため、弟の来目皇子が2万余の兵を率いて糸島まできた史実があり、九州北部に多数の馬が集められた。
太子の支援豪族に舂米連がいて、その子孫が糟屋屯倉の管理者となっている。九州で最初の糟屋の屯倉が作られ、これに関係のある出土品が、古賀以外でも篠栗町、糟屋町などで発見されている。
船原古墳はこれら豪族の墓の可能性もある。とにかく国宝となることは確実?だが、時間がかかるので20年先まで長生きしてください。などなどの話があった。
その後、鎧兜の存在が明確になり、古墳の被葬者像の推定がされるようになった。
一般的には、馬匹管理に関与した首長、馬飼集団の統括者、さらに新羅や伽耶勢力に軍馬を提供し、軍事支援を行う職掌の人物という評価がされた。
ただし、粕屋屯倉との関係や、大和政権や海外との繋がりなどは、今後の文献資料などの調査をまつしかない。
福大の桃崎教授は、具体的に粕屋評造の舂米連関連だろうと推定されている。
浜松市の鈴木氏は、出土品に貴族階級を示す甲冑や馬具や半島での統率権を示すT字形利器があることから、倭王権との関係をみることもできると想定している。