2013年に船原古墳の土抗で多くの考古学的遺品が発見されて以後8年がすぎた。
この8年間に、福岡大学の桃崎教授、九州歴史資料館の加藤氏と吉村氏、佐賀大学の重藤教授、浜松市文化財課課長鈴木氏、古賀市教育委員会の森下氏と甲斐氏と西氏などの講演を聞いた。また何回も現地や展示会に出かけ、また多くの関連資料をあつめてきたので、読み返してみた。
初期の現地説明会:赤い帽子が家内・その左が私 |
古墳前で孫と。 |
時代:九州で最初の「糟屋の屯倉」が作られた頃。6世紀後半。
古墳:前方後円墳;盗掘されて、出土品なし。
{土抗の出土品}
武器、武具、馬具、農耕具など多数。
(総個体数は200点以上)
武器:
T字型利器、刀剣、弓群。
武具:
鎧(桂甲一組)、兜、鉄製の鏃、漆塗り飾弓。
馬具:
馬兜、金銅装鞍、鉄製壺鐙、轡、辻金具。
馬飾り具:
蛇行鉄器、金銅製歩揺付飾金具、金銅装心葉形杏葉、
金銅装花形杏葉、各種の鈴、各種の雲珠
地元にレプリカ製作技術のメーカがあることは、有難いことだ。
講演会では、資料が膨大で、プロジェクタ-による説明も多岐にわたり、私はもとより、聴衆者も消化不良をおこしたであろう。
当初は、馬具中心の話題が主体であった。
馬具セットの出土は九州各県に1~2箇所あるが、福岡県が圧倒的に多い。しかも百済系と新羅系の両方がある。
とくに船原の杏葉に、玉虫に羽の存在が発見されてからは、新羅系のデザインと判断され、国宝級の評価がされはじめた。
とくに船原の杏葉に、玉虫に羽の存在が発見されてからは、新羅系のデザインと判断され、国宝級の評価がされはじめた。
福岡県が馬具の出土が多いのは、馬の産地であったのではなく、朝鮮への渡航や出兵のための軍馬駐屯地であったからだろう。
聖徳太子時代に百済支援のため、弟の来目皇子が2万余の兵を率いて糸島まできた史実があり、九州北部に多数の馬が集められた。
太子の支援豪族に舂米連がいて、その子孫が糟屋屯倉の管理者となっている。九州で最初の糟屋の屯倉が作られ、これに関係のある出土品が、古賀以外でも篠栗町、糟屋町などで発見されている。
船原古墳はこれら豪族の墓の可能性もある。とにかく国宝となることは確実?だが、時間がかかるので20年先まで長生きしてください。などなどの話があった。
聖徳太子時代に百済支援のため、弟の来目皇子が2万余の兵を率いて糸島まできた史実があり、九州北部に多数の馬が集められた。
太子の支援豪族に舂米連がいて、その子孫が糟屋屯倉の管理者となっている。九州で最初の糟屋の屯倉が作られ、これに関係のある出土品が、古賀以外でも篠栗町、糟屋町などで発見されている。
船原古墳はこれら豪族の墓の可能性もある。とにかく国宝となることは確実?だが、時間がかかるので20年先まで長生きしてください。などなどの話があった。
その後、鎧兜の存在が明確になり、古墳の被葬者像の推定がされるようになった。
一般的には、馬匹管理に関与した首長、馬飼集団の統括者、さらに新羅や伽耶勢力に軍馬を提供し、軍事支援を行う職掌の人物という評価がされた。
ただし、粕屋屯倉との関係や、大和政権や海外との繋がりなどは、今後の文献資料などの調査をまつしかない。
福大の桃崎教授は、具体的に粕屋評造の舂米連関連だろうと推定されている。
浜松市の鈴木氏は、出土品に貴族階級を示す甲冑や馬具や半島での統率権を示すT字形利器があることから、倭王権との関係をみることもできると想定している。
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