聖徳太子は実在の人物でなかったということで、その名前が歴史書から消えようとしている。
しかし聖徳太子は日本人の心を真に理解して導き、憲法や宗教に教えを残した人物として、多くの人の信仰の対象となっている。 特に近畿、関西ではその信者も多いが、九州の粕屋でも歴史的に縁が深く、私はその史跡を調査してきたので、太子信仰の信者の一人である。
1)聖徳太子と粕屋の縁
聖徳太子の生誕は574年で、丁度蘇我馬子が大臣に、物部守屋が大連になった2年あとだ。 蘇我氏が寺を建てれば、物部氏が焼き払うような対立の最中に、飛鳥の地で生まれ、その生誕地の跡に橘寺が建立されたといわれている。
厩の前で生まれたので厩戸皇子と呼ばれたことは有名だが、その厩は筑紫の粕屋であったという説もある。
大和朝廷は任那や百済系の渡来民族で、崇神天皇を中心に勢力を強め、仲哀天皇の頃まで九州北部を中心に活躍し、応神・仁徳天皇の頃東征したとされる。
しかし欽明天皇以降も新羅を討つために、朝廷軍は筑紫の粕屋に西下し滞在たことが多く、欽明の娘もその滞在中に出産したという。
粕屋の犬鳴連山は、騎馬隊の馬のイナナキが響き渡っていたことから名付けられ、犬鳴川の川沿いに竹原古墳があり、その壁画には船に乗った馬の画が描かれており、古賀の船原古墳からは高級な馬具の装飾品が多数出土している。 厩が多数あったことは想定される。
竹原古墳壁画と船原古墳の馬具の一部 |
上宮法王家の家紋は橘であり、粕屋の立花山の地名に関連して定められたのかもしれない。生誕地橘寺の西側に二上山がのぞまれ、粕屋の立花山も昔は二神山とよばれていた。香椎宮の末社の一つに二神大明神があり、香椎台5丁目の公園に樹齢4千年の槙の大樹がある。山をご神体として崇めたのが後述の粕屋評造「舂米連」である。
地元豪族の磐井氏は、522年継体天皇の新羅援軍派遣に反対してして、朝廷軍と戦うが敗れてしまい、降伏のしるしに筑紫の粕屋の地を朝廷の屯倉として献上する。
粕屋の屯倉は物部一族の「舂米連」の領地となり、一族は摂津より下ってきて現在の古賀市鹿部田渕遺跡(みあけ史跡公園)付近に居住し、粕屋屯倉の生産管理を行った。舂米という名称は稲作を得意とする一族のようだ。
鹿部田渕遺跡 |
587年に蘇我馬子が宗教争いで物部守屋を討ち、大和朝廷は蘇我氏の独占体制となり、西日本各地の外物部も粛清をうける。蘇我氏は粕屋の舂米連の領地を没収し、これを仏教戦に16歳で参加した聖徳太子の所領にして、太子を味方に引き込んだ。
しかし太子はその管理を以前のまま舂米連に当たらせた。彼らは大いに感謝して、粕屋の久山に山田斎宮、古賀に小山田斎宮をつくり、それぞれに聖母屋敷という太子の記念館を建設した。この縁で後述するように、太子と「乳部」の関係ができた。
現在古賀市の小山田にある小山田斎宮は、日本書記の神功皇后の項に記載されている。仲哀天皇が亡くなられたときは、三韓への出兵準備中であったため、すぐには御陵や廟をつくらずに、小山田邑に斎宮をつくることにされた。香椎宮に駐屯されていた頃であるから、少し奥深い小山田邑がえらばれたのであろう。
小田山斎宮 |
小山田斎宮の案内板には、巨木の説明板だけが書かれていて、神功皇后に関することにはふれていない。日韓関係に配慮してのことであろう。いまや神功皇后伝説はタブーのようであるが、歴史的に古くいわれのある場所であることにはちがいない。
石の鳥居が二つあり、道路側の大正時代の新しい鳥居には斎宮と書かれているが、奥の古い鳥居のほうには「天神宮」とかいてあると、古賀町誌には記載されているが、どうもおかしい。
私には「天」でなく、一安?二女?に見える。よくよく見ると「二丈神宮」である。二丈は二上になり、二神に通じる。糸島の二丈町も二丈岳にちなむ名前で、もとは二上岳であったという。
もしそうならば、糟屋屯倉の舂米連の先祖がまつられた二神明神に通じるかもしれない。仲哀天皇の軍隊にいた五大臣の一人物部膽昨連を祭ったのがはじまりで、物部系の舂米連が斎宮に合祀したのであろう。
いまは神主もいない無人の社で、くわしい歴史は永遠に闇の中である。古賀郷土史研究会のメンバーに呼びかけて、さらに調査をすすめることにしよう。
聖徳太子は父方・母方ともに蘇我氏の血統をひいた皇子で、その妃は4人乃至5人存在していた。そのうち第一妃の蘇我馬子の娘との間に生まれたのが嫡子の山背大兄王で、第二妃の膳部臣の娘との間に生まれたのが舂米女王だ。
膳部氏は斑鳩の龍田川付近を領有していた豪族で、朝廷内の供応役をつとめた舂米連の一族だったようだ。当時の習慣で娘の名前は、その養育費を負担する部族の名前をつける乳部制度があり、太子の娘に舂米王女の名前がつけられたらしい。粕屋の屯倉がその費用を負担したらしく、乳部の地名がつけられ、今では鹿部(ししぶ)として残っている。
2)聖徳太子の政治理念
聖徳太子は、推古天皇の摂政として様々な政治改革を行ったとされている。(一部には、蘇我馬子を悪人とするため、その政治を聖徳太子の手柄に置き換えたという説もある。)
彼が行った最も重要な政策は、冠位十二階と十七条憲法の制定の二つだ。
冠位十二階が制定される以前は、各地の有力な豪族たちが世襲によって権力を受け継いできた。
聖徳太子はそのような制度を改め、生まれた時の身分にかかわらず各々の個人に対して能力に応じて冠位を授ける制度をつくった。冠位十二階制を制定した大きな目的は、簡単に言えば官僚制と中央集権国家の確立である。
当時、日本の隣側には隋という巨大な国が存在していた。大和政権は、隋に対し並々ならぬ警戒感を持ち、同時に隋から様々な学問や政治制度を吸収しようとした。そのため、大和政権は紀元600年から618年にわたって5回以上隋に国使を派遣した。隋という国の官僚制と中央集権的政治体制を学び、隋に侵略されないように政治体制を大きく改革し、国内の豪族たちが覇権を争い合うのではなく、日本人がまとまる体制を作ろうとした。
聖徳太子が制定した十七条憲法は、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」という条文から始まる。
これはいわば当時の官僚が守るべき教えであり、同時に今の日本人に通じるものをとてもよく言い表している。
第十条にはこう書かれている。「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」日本人ならば誰でも持っているに違いない寛容の心がここに表現されている。
そして、第十七条にはこう書かれている。「夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」重要な事柄は決して独りで決めてはならず、必ず他の人と話し合って決めなければならないということ。官僚制と中央集権国家の建設という目的が、日本人の寛容と思いやりの心にも触れるように表現した。
http://horyuji.asia/
(法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたとする説もある。)
聖徳太子は日本に仏教を広めた人物として、その後ひろまった天台宗、真言宗、浄土宗などの宗派で、開祖・高僧とおなじ扱いをしている。聖徳太子自身は出家してはいないが、実質的には徳の高い高僧という認識である。
聖徳太子は超人的な能力をもった人物として伝説化され、誕生から薨去までのあいだの人生の節目節目のエピソードが、つぎのように偶像化されている。
太子二歳像:(2歳の太子が合掌して「南無仏」と唱えたら掌に仏舎利があらわれた)
太子孝養像:(16歳の太子は、父・用明天皇の病気平癒を願って日夜香炉をささげて病床を見舞った)
馬上太子像:(太子16歳のときに物部守屋を追討した姿)
といった、じつにさまざまな姿の聖徳太子像が造立されて、礼拝の対象となっている。
このような、日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地は、法隆寺の聖霊院である。聖霊院の本尊は、摂政太子像である。
膳部氏は斑鳩の龍田川付近を領有していた豪族で、朝廷内の供応役をつとめた舂米連の一族だったようだ。当時の習慣で娘の名前は、その養育費を負担する部族の名前をつける乳部制度があり、太子の娘に舂米王女の名前がつけられたらしい。粕屋の屯倉がその費用を負担したらしく、乳部の地名がつけられ、今では鹿部(ししぶ)として残っている。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として様々な政治改革を行ったとされている。(一部には、蘇我馬子を悪人とするため、その政治を聖徳太子の手柄に置き換えたという説もある。)
彼が行った最も重要な政策は、冠位十二階と十七条憲法の制定の二つだ。
冠位十二階が制定される以前は、各地の有力な豪族たちが世襲によって権力を受け継いできた。
聖徳太子はそのような制度を改め、生まれた時の身分にかかわらず各々の個人に対して能力に応じて冠位を授ける制度をつくった。冠位十二階制を制定した大きな目的は、簡単に言えば官僚制と中央集権国家の確立である。
当時、日本の隣側には隋という巨大な国が存在していた。大和政権は、隋に対し並々ならぬ警戒感を持ち、同時に隋から様々な学問や政治制度を吸収しようとした。そのため、大和政権は紀元600年から618年にわたって5回以上隋に国使を派遣した。隋という国の官僚制と中央集権的政治体制を学び、隋に侵略されないように政治体制を大きく改革し、国内の豪族たちが覇権を争い合うのではなく、日本人がまとまる体制を作ろうとした。
聖徳太子が制定した十七条憲法は、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」という条文から始まる。
これはいわば当時の官僚が守るべき教えであり、同時に今の日本人に通じるものをとてもよく言い表している。
第十条にはこう書かれている。「忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」日本人ならば誰でも持っているに違いない寛容の心がここに表現されている。
そして、第十七条にはこう書かれている。「夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。」重要な事柄は決して独りで決めてはならず、必ず他の人と話し合って決めなければならないということ。官僚制と中央集権国家の建設という目的が、日本人の寛容と思いやりの心にも触れるように表現した。
これらの理念は、聖徳太子の仏教の教えに現れており、仏教導入まえの神道と仏教が争うことなく、共存するように説教している。日本の宗教は一神教でなく、あいまいで、ファジーなところがあるが、和の心で総括されている。
3)法隆寺での聖徳太子信仰
第二妃の膳部氏の地元である斑鳩に、龍田神社がある。
ある日、龍田神が太子の夢枕にたち、斑鳩に仏閣をつくるように伝えた。これが法隆寺(当初は斑鳩寺)建立の起源とされている。現在でも法隆寺と龍田神社では、共同の宗教行事が行われている。
神道(しんとう)は、日本の古来の宗教であるが、教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教である。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされている。
聖徳太子信仰は、法隆寺を中心に日本仏教の開祖としての聖徳太子を信仰の対象とするものとして始まった。ある日、龍田神が太子の夢枕にたち、斑鳩に仏閣をつくるように伝えた。これが法隆寺(当初は斑鳩寺)建立の起源とされている。現在でも法隆寺と龍田神社では、共同の宗教行事が行われている。
神道(しんとう)は、日本の古来の宗教であるが、教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教である。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされている。
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(法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたとする説もある。)
聖徳太子は日本に仏教を広めた人物として、その後ひろまった天台宗、真言宗、浄土宗などの宗派で、開祖・高僧とおなじ扱いをしている。聖徳太子自身は出家してはいないが、実質的には徳の高い高僧という認識である。
聖徳太子は超人的な能力をもった人物として伝説化され、誕生から薨去までのあいだの人生の節目節目のエピソードが、つぎのように偶像化されている。
太子二歳像:(2歳の太子が合掌して「南無仏」と唱えたら掌に仏舎利があらわれた)
太子七歳像・童子形聖徳太子像:(太子は7歳で学問をはじめたという伝説から)
謎の聖徳太子像 |
馬上太子像:(太子16歳のときに物部守屋を追討した姿)
勝鬘経講讚太子像:(太子35歳のときに、推古天皇に勝鬘経をご進講になった姿)
摂政太子像:(摂政として執政する姿)
このような、日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地は、法隆寺の聖霊院である。聖霊院の本尊は、摂政太子像である。
といった、じつにさまざまな姿の聖徳太子像が造立されて、礼拝の対象となっている。
また夢殿のご本尊である国宝の救世観音は、聖徳太子の姿であるといわれている。
このような、日本仏教の開祖としての聖徳太子をあがめる太子信仰の中心地は、法隆寺の聖霊院である。 聖霊院の本尊は、摂政太子像である。 ただし、奈良仏教寺院での信仰行事は一般的な檀家制度ではなく、寺院のさだめる年間行事に、地域の信者や観光客が多数参列する形態でなりたっている。 。 。
最近では古賀の船原古墳の馬具出土や沖ノ島世界遺産決定などで、聖徳太子の話がちらほらでてくるのを喜んでいる。
古賀の自宅は、奈良の地から、糸島の来目皇子の墓の地を結んだ直線上にあり、自宅の仏壇の側壁に、太子像の写真を張り付けて、庭石にしめ縄をはって、朝夕拝むという神仏習合の生活をしている。
聖徳太子信仰の主な資料は、日本書紀と法隆寺に伝わる諸史料である。 その間に矛盾が多くあり、学問的には聖徳太子は偶像であるという説が増えてきている。
しかし千年をこえる聖徳太子信仰の国民感情を急に打ち消すことは不可能で、文部科学省の教科書執筆指導要綱には、まだ飛鳥時代は聖徳太子を中心に記すことが示されている。
聖徳太子信仰は単なる迷信でないということだ。
「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」は、今の日本の基本理念である。
また、外国人ではなく純粋の日本人であることと、若くして出家した宗教家ではなく、俗世間で政治にたずさわり、世間は虚仮と悟り、引退後に神仏習合の宗教の道を開いた人生は、レベルの差は大きいが、私の人生と共通するものを感じるのである。
千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」へ行ってきました - YouTube
来目皇子の墓 |
最近では古賀の船原古墳の馬具出土や沖ノ島世界遺産決定などで、聖徳太子の話がちらほらでてくるのを喜んでいる。
古賀の自宅は、奈良の地から、糸島の来目皇子の墓の地を結んだ直線上にあり、自宅の仏壇の側壁に、太子像の写真を張り付けて、庭石にしめ縄をはって、朝夕拝むという神仏習合の生活をしている。
聖徳太子像 |
しかし千年をこえる聖徳太子信仰の国民感情を急に打ち消すことは不可能で、文部科学省の教科書執筆指導要綱には、まだ飛鳥時代は聖徳太子を中心に記すことが示されている。
聖徳太子信仰は単なる迷信でないということだ。
「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」は、今の日本の基本理念である。
また、外国人ではなく純粋の日本人であることと、若くして出家した宗教家ではなく、俗世間で政治にたずさわり、世間は虚仮と悟り、引退後に神仏習合の宗教の道を開いた人生は、レベルの差は大きいが、私の人生と共通するものを感じるのである。
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