2023年5月25日木曜日

地球のCO₂とO₂の変化

 CO₂は現在悪者のイメージが強いが、地球が出来た46億年前頃は、大気の95%をしめていた。

金星や木星の大気は、現在でも、CO₂が95%をしめていて、O₂はわずかであった。

地球には海ができたことで、CO₂が海中に溶け込み減少し、海中で好気生の有機物や生物が発生し(注目点1)、その後これが陸上に移動して多くの生物となる。

その中で、植物の光合成作用により大気中のO₂が増加した(注目点2)。



その後O₂が増加した5億年前あたりから、多数の陸上動物や、哺乳動物類が発生したという。


地球の大気成分の変化

CO₂の量の変化。石炭紀に急減。


しかし400万年前に発生した人類が、1万年前より農耕技術を考案して急成長し、さらに、19世紀頃の産業革命以後、石炭・石油などを燃料として使うようになり、CO₂が急増している。


そのため、現在では地球の温暖化がすすみ、人類の危機がせまっている。

1.4°Cに抑えるという目標だか、すでに1.1°Cも温暖化している。

地球の危機ではなく、人類が自ら招いた危機である。100億人以上の人類数になると、人類は全滅するだろうと予測されている。

天体としての地球は、本来数百億年後には冷却されて、月のように冷え切った物体になるはずである。




2023年5月22日月曜日

ギリシャ神話と陶器

 ギリシャ神話は多数あり、その物語が陶器の図案に描かれていることが多い。

神話の図案1
神話の図案2




古代の壺には幾何学的模様が好まれた

神話を描いた壺


動物も幾何学的に並べられた


神話も幾何学的模様をつくった

私がその一つを、ギリシャでの学会の帰りに、購入して帰った。神話の内容は不明のまま。

ギリシャで購入した壺




市川猿之助と高杉早苗

 60年位前、上京した時に歌舞伎座で、市川段四郎の舞台を観たことがある。演目などすっかり忘れてしまったが、入場するときに、妻の高杉早苗さんが、来客に笑顔で挨拶をしていたことだけを、しっかり記憶している。

その孫の市川猿之助が、いま大きな事件でニュースになり、昔のことを思い出した。

高杉早苗

たかすぎさなえ

ジャンル
芸能人
出身
東京都
生年月日
1918年10月8日
没年月日
1995年11月26日
年齢
満77歳没

昭和に活躍した女優。本名は喜熨斗弘子(きのしひろこ)。旧名は清水ヒロ。ミスコンテストで3位になりスカウト。1934年、松竹映画『隣りの八重ちゃん』にて銀幕デビュー。一躍人気女優となるも、三代目市川段四郎と結婚し芸能界を引退する。段四郎との間に長男・二代目市川猿翁(旧名:三代目市川猿之助)、次男・四代目市川段四郎、長女・市川靖子をもうける。またその孫たちである、香川照之(九代目市川中車)、四代目市川猿之助たちもそれぞれ活躍している。

2023年5月21日日曜日

「始終」と「終始」と「終初」

 「始終」と「終始」は、お互いに似ているようで、意味が少し異なる語です。

「始終」は、物事のはじめから終わりまでの事情を意味します。物事が移り変わっていく成り行きの全部。

「終始」は、はじめの状態・態度が最後まで変わらないことを意味します。途中変化せずに貫き通す。

なお、「始終」と「終始」のいずれも、「いつも、常に」という意味で用いられることがあります。

「始終」の使用例

  • 事の始終を話す
  • 一部始終〔=はじめから終わりまでの全事情〕
  • 始終勉強している

「終始」の使用例

  • すれ違いに終始する
  • 終始一貫〔=はじめから終わりまで貫き通すこと〕
  • 終始変わらない態度

今朝の新聞で、ある作家が、「終わりの始め」という文章を書いていました。今まで書いてきた多くの作品を振りかえりながら、人生の最後に書き残したい作品の構想を考えているという趣旨の文章でした。
わが夫婦は、介護老人ホームを抜け出して、マンション住まいをはじめ、ここが終焉の地として生活しはじめています。終わりの始めです。
「終」の文字は、糸を初めから終わりまで巻いた糸の玉と、冬の貯蔵用食料をぶら下げた状態を示す象形文字。
「始」の文字は、女と台の会意・形声文字。女性としての初めての行為、つまり始めて胎児をはらむ会意文字。
「初」めの文字は、衣に挟みをいれて切りはじめる衣と刀の会意文字。我々の生活の場合は、辞書にはないが、「終初」の文字が適切であります。

2023年5月19日金曜日

カレル・チャペックの主要作品と「ロボット」


 









1890年、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったボヘミアのマレー・スヴァトニョヴィツェという小さな町で、チャペック家の三男として生まれた。

家族は父と母と姉、そして兄ヨゼフとの5人家族、父は町医者で、また当時地域の文化活動の中心を務めていた人物だった。

1905年、ボヘミア東部の中心都市にあるギムナジウムに進学するが、思想問題でやめなければならない事態に陥ったため、結婚していた姉を頼りモラヴィアの中心都市ブルノチェコ語ギムナジウムへ進学する。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業してカレル大学へ進学し、哲学を専攻する。1910年ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学する。1911年、ベルリンの大学を修了後に兄ヨゼフがいたパリソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。ヨゼフとともに戯曲『盗賊』を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかった。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後、しばらくは家庭教師の仕事をしていたが生計が立たず、実家から仕送りを受ける。

1916年、チャペック兄弟として正式にデビューする。このころはフランス詩の翻訳に熱心に取り組む。同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。

1917年、独立前に唯一発行が許されていた国民新聞(ナーロドニー・リスティ)に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたチャペックは『R.U.R.』を書き上げる。このときにロボットという言葉が生まれた。後の妻オルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。


30歳のカレル

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ、民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)へ兄とともに移籍する。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けた。戯曲『虫の生活』(ヨゼフとともに合作)を出版する。

1922年に『クラカチット』を新聞の連載小説として執筆開始する。戯曲『マクロプラス事件』を書く。『絶対子工場』(Továrna na absolutno)を出版する。この年、当時の大統領であるトマーシュ・マサリクと面識を持つ。

1924年、『クラカチット』が出版される。同年、国家賞を受賞する。イギリス・ペンクラブの招待により英国大博覧会取材をかねてイギリスへ、この年の秋頃から多方面から知識人を自宅に招いて討論する『金曜会』を開くようになる。

1925年、ペンクラブのプラハ支部設立準備委員になる。翌月には会長に選ばれる。ヨゼフと再び合作、戯曲『創造者アダム』を制作開始する。

1926年。『創造者アダム』を完成する。「金曜会」にマサリク大統領が初めて参加する。この年の大晦日に行われたパーティーで行われた余興により、マスコミに論争が起きたが、後に解決する。

1929年。『園芸家12カ月』を兄ヨゼフ挿絵で出版。兄弟は園芸家としても知られている。

1933年、飼い犬ダーシェンカを主人公にした『ダーシェンカ、子犬の生活』や、『ホルドゥバル』を出版する。『流れ星』を執筆する。チェコスロヴァキア・ペンクラブ会長を辞任する。

1936年、『山椒魚戦争』を出版する。20年に知り合ったオルガ・シャインプフルゴヴァーと結婚。ノルウェーの新聞雑誌に、ノーベル賞を彼にという提案が初めて出される。

カレル・チャペックの墓

1938年、ルイ・アラゴンの提唱の元、フランスの11人の作家がノーベル賞を与えようとほかの作家たちに呼びかけをするが、本人は辞退する。同じころ、右翼系新聞が批判する。12月中旬、嵐で荒れた庭の手入れをしたことが原因で風邪をひき、一時回復するものの19日に悪化し、12月25日の未明に肺炎により死去する。最後のコラムが民衆新聞に載る。小説『作曲家フォルティーンの生涯と作品』の草稿が未完で残る。現在、ヴィシェフラト墓地に埋葬されている。

ロボットという言葉を生み出したことに少々苦い思いを抱いていたようで、「歯車、光電池、その他諸々の怪しげな機械の部品を体内に詰め込んだブリキ人形を、世界に送り出すつもりは作者にはなかった」と述べている。

1939年、ナチス・ドイツがプラハを占領する。3月、チャペックの死を知らないゲシュタポがチャペック邸を襲撃、踏み込んで来た一同に、オルガは夫カレルが4ヶ月前に没したことを、皮肉を込めて伝えたという。


カレル・チャペックの名は、「ロボット」という小説の作家として知っていたが、小説ではなく、4幕の戯曲であった。しかも

彼は群像劇と称していた。多数の登場人物が登場して、いろんな意見が出てくるドラマである。例えば老若二人のドミンの科学技術の見かたの差も大きく異なる。



1920年ロボットの初舞台背景

カレルは、ラボル(labor)と名付けようかと思ったが、無味乾燥だなと兄に相談し、ならばロボット(robot)いう名称にしたらと、兄の画家ヨゼフのつぶやきで決まった。


基本的テーマは、人間の脳が生み出したものが、人間の手におえなものになってしまうことで、ロボット、原爆、AIなどに共通の、科学技術の問題の初期の論説である。

彼は新聞記者であり、詩、小説、戯曲、論評をかき、チェコが独立した時は、兄と二人で、国旗、国歌、紙幣のデザイン、憲法など多くの分野で短期間での制作に貢献したという。

ロボットの戯曲は、初期の活動の一つにすぎなかった。

このことを放送大学の講義で知った。

2023年5月18日木曜日

徘徊はアルツハイマー型認知症

 義弟の一人は、健脚で登山などを70代まで元気にこなしていた。

80代になり、徘徊がはじまり、夫婦で温泉旅行にでかけて、夜中に浴衣姿で旅館を抜け出し、もどれなくなって、警察に保護される事などがおきた。

自宅でも、夫婦で買い物に出かけ、タクシーで帰宅して、妻がタクシー代金を払っている間に徘徊して近所をうろうろしているという。

人間の脳での記憶は、五感からの情報刺激をうけて伝達された情報物質が、海馬に新しい細胞として記憶される。


しかし、高齢化すると、アミロイドβが溜まり、記憶を壊してしまうので、そのアミロイドβを分解する薬までは、開発されているそうだ。


現在はその薬を、脳細胞まで届ける方法を研究中という。あと一歩のところまで来ている様子だ。

昔は、アルツハイマー病は、脳が縮小するとか、β―タンパクがたまるとか言われていた。

しかし、その状態でも記憶喪失などが起きていない患者さんが多いことがわかってきた。

昨日のテレビでは、この徘徊現象は、アルツハイマー型の認知症の典型的現象で、その障害は、脳の下部の嗅内野におこることが、判明していることが解ったという。




アミロイドβを嗅内野に届ける方法が見つかれば、徘徊も回復できそうである。


33間堂の通し矢

 観光客で33間堂を見学したことがあるが、通し矢の凄さは実見しないと分からない.









長さ121Ⅿのこの廊下を通すには条件があるようである。

①強弓を使用

②座って射る(立って射ると軒の梁に刺さる)

③握り位置を下げた競技用弓を作成する(通常の弓は座ると床に接触する)

④強靭な体力  一昼夜24時間で13053本を放ち8133本を通した武人がいる、一分間に9本以上、狙いを定める猶予もなく9、6秒に一本を休みなく射るのである。神業としか表現できない。

射場は「しゃじょう」と読むか、「いば」と読むか?

教練で、実弾射撃場に行ったときは、しゃげきじょうと言っていた。

中学時代に、弓道部に所属していた記憶が、かすかに残っている。

どこかの縁日の射撃場で、弓の引き方を褒められたことがあった。

旧制高校の黒マント


 
旧制福岡高校の校章は「福」を意味する9個の「フ」の中央に太宰府の飛梅を図案化したもの。



旧制高校は昭和25年が最後の年となった。昭和20年3月に卒業した私たちの思い出は、黒マントと高下駄で、街や公園を闊歩した青春時代である。


黒マントでストーム

街や公園を黒マントで闊歩

当時はその黒マントの歴史を全く知らなかったが、どうやら陸軍の制服の変化に由来しているようだ。

大正時代になると日本陸軍の制服・制帽が明治時代のそれとすっかり様変わりになり、将校の冬用オーバーコートとして「外套」と「マント」の2種類が採用され、本人の好みでどちらかを着ていることが判ったのである。

このマントは「将校マント」とも呼ばれたようだ。

 その「将校マント」が、何故高等学校生徒の間で着用されるようになったのか、よくわからない。
だが、ほぼ間違いなく、旧制高等学校生徒はこの「将校マント」のゆったりした着心地を気に入り、カーキ色の生地を黒色の生地に変え、「将校マント」とほぼ同じデザインのままで愛用するようになったのだろう。
もしそうだとすると、旧制高等学校生徒がマントを着用しだしたのは大正年代の初期からであろうと推察される。

 その後昭和25年に旧制高等学校制度が廃止されるまで、晴れの日も雨の日も雪の日も、高等学校生はマントを羽織りあるいは肩にかけて町中を闊歩したのだ。

それは大正初期から昭和25年まで約40年の長いようで短い、旧制高等学校生徒のマント愛用の日々であった。


2023年5月17日水曜日

小林彰同窓会名誉会長の思い出

 福岡高校の校長、その同窓会の会長を長く勤められた小林名誉会長の訃報を昨年老人ホームに入居してしばらくして知った。92,3歳であろう。

[お悔み]同窓会名誉会長 小林彰氏(中25回)が逝去されました

「訃報
同窓会名誉会長 小林 彰氏(中25回)が2022年3月26日に逝去されました。謹んでお知らせします。

なお、通夜葬儀等はご遺族の意向で家族葬にて執り行い済みです。」




私は中23回で彼より2年先輩であり、社会人になるまで面識はなかった。

和白のゴルフ場メンバーとなり、月例会などで顔みしりとなったのは、40代後半であったと思う。

義弟が新宮高校の教諭であったとき、義父がなくなりその葬式に小林彰氏が来られたときは驚いた。当時新宮高校の教頭をされていた縁であった。

その後はゴルフ場や同窓会の場で、さらに親しく語り合うようになり、彼の婦人も和白ゴルフ場の名選手だったので、ご夫婦のバラの花の会の話や郷里の新宮の炭鉱の話や海兵時代の話など、多くの話題を直接聞いたり、義弟から聞いていた。

孫娘が福高に入学当時の入学式でも同窓会長としての挨拶を拝聴した。

100周年記念の年の大会でも大活躍で、ノーベル賞受賞の大隅先生の講演などを実現された。

晩年は南区から和白ゴルフ場にくるのに、婦人が車の運転をやめられ、後輩のメンバーも次第に運転をやめられて、早朝のバスとタクシーを利用しての来場で、苦労されていた。

私は古賀在住で95歳まで運転をしてプレイをつづけたが、小林氏は87,8歳で、姿をみなくなった。80代半ばでの肺炎などの病状のニュースは回復されたときいていた。



昨日義弟の住む東区高見台の大神神社の境内に、義弟と一緒にでかけた。2年間隔くらいで訪れているいるが、境内の改築や配置替えの掲示石の設置が頻繁におこなわれている。

この付近の掲示石に小林氏の名前があったが、写真はほけていた。


3号古墳


その一つに小林彰の氏名がはっきりかかれた令和2年の掲示石があった。小林彰氏の氏神であったことが示されている。



2023年5月15日月曜日

ネアンデルタール人とホモ・サピエンス人のDNAの差

 ネアンデルタール人は絶滅してしまったが、世界の研究者たちが、その遺骨のDNAの研究を30年間継続してた結果、最近ようやく解明できたそうだ。

遺骨のDNAは、バラバラに切れていたものを、つなぐためのソフト開発が進んで、2010年にやっとDNAがつながったそうだ。

その結果、我々現代人のホモサピエンスのDNAと比較すると、重なっている所と異なっている所があることがわかりました。

赤色はネアンデルタール人と同じ、白色はホモサピエンス人だけのDNA


専門家は、この白い部分のDNAに着目し、その主要部分をFOXP2と称して、その周辺の40万文字のDNAを比較検討した。

その結果、1か所に、AとTの差があることを発見した。



これは他の哺乳類とも同じで、ホモサピエンスだけが、Tに突然変化したことで、大脳に新領域が拡大し、言語能力や学習能力がひろがり、文字の発見などで新知識が子孫に伝えられることで、現代文明を開拓できたことになったということがわかった。


AからTに変化した場所に、あるタンパク質がくっ付くようになり、そこでつくられる物質の量が少なくなったことまで、今解っているが、言語能力などとの関係はまだ不明のままだそうです。


2023年5月13日土曜日

鶫岳城(つぐみだけ)

 鶫岳城(つぐみたけじょう)と読みます。立花城督の城砦のひとつで、宗像領と接する境目の城です。不動山ともよばれています。

福津市との境界線上にあるため、古賀市の郷土史ではあまり話題になっていない城ですが、立花城領でもっとも高い山(340m)の出城でした。








鶫岳城石碑




鶫岳山頂き




「豊前覚書」には在番者として、天正9年の鞍手郡吉川庄合戦(鷹取城の救援として向かっていた戸次氏と宗像氏、秋月氏の戦い)が起こった年に、院内衆(糟屋郡のうち、立花山の北側の諸郷村。薦野、米多比など)、大津留宗秀があたりました。

鶫岳城は鶫岳(標高340m)の上に築かれ、宗像領側の北側と西岳ルートは極めて山の斜面が急で、南西側の尾根が続くところには堀切で断ち切り、そこから切岸で急斜面を構築しています。
宗像領側の北側にのみ畝状竪堀が構築され、宗像氏に対して睨みをきかせていたことが想定されます。
北側以外の面には切岸が綺麗につくられています。
米多比城の山城部と同様に基本単郭式で構成され、主郭は三段に分けられており、北東隅と南西隅には虎口が設けられ、北東隅の虎口には馬出のような腰曲輪がつくられ、南西側の虎口には主郭南にある腰曲輪に繋がります。
また米多比城ほどではないですが、曲輪の周りには低いながらも土塁がめぐらされています。

南側の腰曲輪は主郭との付け根あたりに両サイドを竪堀として落ちており、それをつなぐように若干のくぼみがあることから堀切だった可能性があります。

また福岡県中近世城館遺跡調査報告書などに掲載されている図面には載っていないですが、鶫岳の舎利蔵ルートには腰曲輪みたいな小規模な曲輪が点在しています。

米多比城に比べたら畝状竪堀の数はかなり少ないですが、立地や切岸の構築、土塁、曲輪内の削平具合からして極めて防御性の高い重要な城であったことが分かります。

アクセス
鶫岳は青瀧寺から登る西岳ルートと舎利蔵ルートがあります。
西岳ルートは寺から奥に入る道は笹やシダが多い茂っており(踏み跡は明瞭かつピンクリボンもあるので間違えることはありません)、かつ不動明王過ぎからは山の急斜面かつ道が踏み跡程度で小石が多いことからしっかりした登山装備で登ることをおすすめします。
舎利蔵ルートは坂が緩くて、広いので登りやすく、ピンクリボンもあるのでオススメですが、山に入る道がかなり分かりづらいのです。