2024年12月27日金曜日
2024年12月26日木曜日
立花山城跡と周辺の寺社(改訂版)
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福岡市・新宮町・久山町にまたがる立花山城跡 |
立花山の麓にある九産大に10年余勤務していた頃は、毎年新学期の研究生をつれて登山していたから、山の構造はほぼ頭に入っていた。
しかし学者として調査したわけではないから、計測や測量をやったわけではない。
九大の建築学出身の木島孝之先生が、本格的に計測をはじめられ、九州歴史資料館の岡寺良先生がドローンによる山城計測をはじめられて、立花山城跡の詳細が明確になった。
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立花山城跡をガイドされる岡寺準教授 (元九州歴史資料館の研究員で、ドローンによる山城調査の開発者) |
江戸時代博多商人奥村玉蘭の筑前名所図会 |
江戸時代の立花山城の古図 |
画家や写真家による立花山の姿 |
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九大木島教授による立花山城の調査図1 曲輪の数は70箇所以上 |
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調査図2 ①主郭 ②連続型外桝形虎口 ③旧曲群を一体化するための防塁 ④外桝形虎口 ⑤鞍部に築かれた防塁 ⑥食い違い虎口 ⑦登り石垣 ⑧道雪の屋敷があったとされる曲輪 ⑨横矢のかかる虎口 ⑩名島城が築かれた岬 |
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調査図3 立花山城縄張図 |
楽転人生
1)出生
父母の結婚5年後に生まれた。そのため特攻兵士の適齢期に遅れたことになる。
2)生家の環境
海岸に近い別荘地で、九大に近く、教授陣の自宅が多く、その子弟と友人になれた。
3)男子師範付属小に転校
母方の伯父の友人が付属小の教諭で、その存在を知り転校試験をすすめられた。小4年で転校試験をうけ合格した。九大教授の子弟が大勢いて、研究的雰囲気が強かった。
4)進路目標を向上
担当教諭から師範学校よりも、普通の県立中学校をすすめられ、旧制福岡中学に入学した。
戦争拡大により、陸士、海兵が増員され、担当教諭から海兵を勧められたが、父の意見で、長男の一人子のため、4年で高等学校を受験し、不合格の時は5年で海兵受験することになった。
日獨伊三国同盟時代なので、4年で理乙を志望し合格した。
5)東大を受験せず
大学受験の昭和20年1月は戦争末期で、入学試験もできず、学校の成績順位でクラス3番以内なら東大受験も可能だったが、東京に親類もなく、戦災と食料難の時代なので、地元の九大を選んだ。
友人で東大に進学したが、結核で数年休学したものもいた。
6)安川電機に就職
敗戦後の就職難で、電気メーカーからの求人はゼロの状態。電力会社は日本發送電時代で、九電のない時代。少し炭鉱景気が起こり、安川電機のみ求人依頼がきた。
大学の特別研究員(今の大学院の前身)も考えたが、当時の大学での研究は研究費や設備も貧弱で、魅力がなく、安川電機を志望し、合格できた。
7)技術部に配属
研究所を志望したが、技術部に配属され、回転機設計を数年体験した。小型サーボモーターの現場の問題点や製品の製造工程を熟知した。
9) 研究所に配属
直接研究所に配属されたメンバーは、当時の所長のワンマンぶりに疲弊して、工場への配置転換を選んだ。その反対に、研究所希望の私は、電動機の基本特性研究をテーマに配属になった。
10)コンピューター導入と利用
民間の大手電気メーカーは、米国のIBM計算機を導入し、社内のソロバンで行われていた事務用計算(経理や給与など)の合理化をはじめた。安川電機もその仲間であった。
技術研究用の計算は、まだ計算尺や手廻し計算機の時代であった。
私は自分の研究テーマの技術計算を、日本IBMの技術者に相談したら安いサービス単価で引き受けてくれた。
計算結果は、私の実験結果とよく一致しており、この内容を電気学会誌に投稿した。
当時大学ではIBMの計算機など皆無だったので、成果は高く評価された。
その結果を学位論文として、九州大学に提出し、学位を取得できた。
当時同じテーマを研究されていた京都大のW助教授は、メーカーの研究に太刀打ち出来ないと諦めて退職されて、県の工業研究所に移られた。
11)新研究所の設立
戦後成長期で、中央研究所設立ブームとなり、安川電機も新研究所を設立した。
材料、電力、制御、機械、物性などの部門が設けられ、電力部門のリーダーとなる。
電動機、開閉器、遮断機、半導体機器、振動機械、関連計測器などのテーマをっ取り扱う。
サーボモータ、振動モータ、SF6遮断機、電力用SCR, 電解コンデンサー、大振幅計測器などの開発や事業化を推進する。
12)研究所長
近藤所長の後任に園田所長がにんめいされ、回転機設計時代の上司だったので、気楽にはなせるようになった。所長付の部長職に岸本・大島・藤野の3名が選ばれた。
この昭和42年に、海外の研究所調査団の一員として、2ヶ月間の海外渡航を命じられた。
2年後に園田所長は東京工場長に転勤され、福井常務が研究所長を兼任された。
1年後昭和44.3月に研究所長に任命された。
集塵機の特許問題、浄化槽の特許問題、SF6遮断機の開発問題など、他社との問題多発の時期であった。
その間私を支援されていた福井常務が退職され、西部電機の社長に転出された。社長に安川敬二がにんめいされ、私は技術管理部長に転じた。
13)技術管理部長
全社の技術管理を行う部署だあるが、各が事業部の方針や壁があり、新規事業の探索・企画などを主に担当した。経営不況の時代で、各事業部の製品見直しのVE,作業工程短縮のIE,
品質向上のQC活動,経営戦略の情報化を行うOP活動の普及にせままれていた。
14)理事:経営推進本部副本部長
文系の経理部長が本部長で、理系の私が福本部長という形式だが、各事業部や工場の活動を個別に見て回るのは大変で、工場単位で成果発表会を開いて討議してまわった。
一方では、他社の活動事例を調査し、社内の報告や導入する仕事も展開した。
15)九州工業大学 制御工学科教授
西見教授より空席が出来たので、就職を要求され、社長も了解されて転職した。
訪問研究員として米国バークレイ大学に2ヶ月、学会などで海外発表を数回行った。
中国重慶大学の要望で、ロボット技術、工場の自動化技術の講習会を1ヶ月行った。
16)九州産業大学電気工学科教授
九工大63歳の定年を迎え、九州産業大学の要請をうけて就職をした。
情報処理センター長を4年間つとめた。74歳の定年で退職した。
以上
2024年12月25日水曜日
地震予知に挑んだ今村明恒の思い
今村は、 1870年、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。
鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。
彼は震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した。
この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された。
しかし1923年(大正12年)9月1日に関東大震災(関東地震)が発生し、明恒の警告が現実のものとなり、その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。
1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。
1925年に北但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。
1931年に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。
その後、今村の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。
1944年12月7日に前述の東南海地震が発生した際には、陸地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行っていた。この測量は今村の強い働きかけによるものであった。この測量の時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。
しかし東南海地震は戦時中のため、報道が禁止され、国民は知らないままであった。
東南海地震は地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。
戦時中自費でつくった計測所を軍部に接収されたため、戦後GHQに戦争協力者とみられ、公職追放の処分をうける不運もあった。
2024年12月24日火曜日
2024年12月23日月曜日
偉人の幼児時代
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西沢潤一 |
光ファイバーなどの研究リーダーとして有名な西沢潤一氏。
「西沢潤一の経歴は、宮城県仙台市出身。西澤恭助(東北帝国大学教授)の第二子、長男として生まれる。」と記載されている。
しかし彼が生まれた当時は、父西沢恭介は九州帝国大学の教授で、潤一は小学校3年までは、箱崎小学校に私と一緒に在学していた。
父の東北大への転勤で、仙台に転校したのである。
後日学会の懇親会で、箱崎時代のことを懐かしく話あったことをおばえている。
彼の経歴に箱崎が出てこないことが残念と思っていた。
最近、古賀市の歴史資料館に、幼児時代を小野村ですごした、藤井甚太郎の経歴書が掲示された。
いままで郷土史で殆ど取り上げられなかった人物であるが、地元に資料が残っていたようで、有難いことである。
福岡の郷土史会で、西沢氏をとりあげることがあるかな。
2024年12月21日土曜日
2024年12月18日水曜日
原爆とラジオゾンデの講演を終えて。
約1ヶ月間パワーポイントの作成に集中して、12月15日の講演を終えた。
戦争とくらしの展示場でのガラリ―トークの予定が、中会議室でのトークに変更になり、緊張したが、30人ほどの聴衆で、なんとか形がついた。
杉村館長の適切な誘導で、パソコンの操作も順調におわった。
私の居住地区北庄の人、リハビリ教室の仲間、FBの仲間などの顔もみえた。
ビデを撮影をされ、あとYOU_TUBEに編集されるそうで、楽しみである。
今年は、8月の原爆と人間展と12月の戦争とくらし展の2回、原爆とラジオゾンデの話をしたので、これで私の仕事は終了した。
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原爆と人間展での説明状況(奴間市議撮影) |
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戦争とくらし展での説明状況(吉住元市議撮影) |
2024年12月5日木曜日
2024年12月3日火曜日
12月15日の講演会
令和6年度特集展示として、戦争とくらしの展示が、古賀市歴史資料館で、12月1日より15日までに期間におこなわれている。
その最終日の午後2時より3時はんまで、「原爆とラジオゾンデ」の話をすることになっている。
概要は5年前の読売新聞で紹介されたものであるが、今年は「被団協」がノーベル平和賞を受賞したこともあり、原爆の被害がおおきく報道されているので、日本と原爆の関連もはなしたいと思っています。