2022年9月24日土曜日

戦国武将の立花宗茂「無双の花」(改訂版)

 九州筑前立花城主から柳川一国の大名となった戦国武将立花宗茂。

大友家の家臣高橋紹運の嫡子として生まれ、共に大友氏を支えた立花道雪の娘誾千代の婿となった。

道雪・宗茂会は大河ドラマへの運動を続けている。



宗茂は島津軍の北上をくい止めて秀吉に認められて、柳川藩13万石の大名となり、朝鮮出兵の際にも活躍した。

しかし関ヶ原の合戦で、豊臣への恩義から西軍につき、浪人となってしまう。 

別居していた誾千代の支えもあり、大阪にわずか20名の家来と移り住み、家康の赦免をひたすら待った。

 かつて秀吉から共に天下無双誉められた本田忠勝の働きかけもあり、やがて5千石大番頭で取立てとなった。

更には奥州南郷に一万石を得て、大名に。その後九州柳川藩の十三万石に戻った生涯。


秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と言われた宗茂。

家康からは「そなたは、泰平の世の画竜点睛となれ」と言われた宗茂。

無双の花」は葉室麟の直木賞受賞第一作品。


NHKの「歴史探偵」で立花宗茂の身の回りが、詳しく紹介された。

鎧の胴回りが120cmもあり、身長180cmくらいの大男だったらしい。

兜の重量が重いのは、鉄板の厚みをふやし、最前線で活躍していた。

鉄砲隊の弾には早合を使用し、射撃回数を多くしていた。

関ケ原の戦いでは、城攻めに初めて大砲を使用した。

これらは南蛮貿易で早くから新兵器を導入していた。

関ケ原の敗軍で、改易だけですんだのは立花宗茂唯一人。



関ケ原以後の平和時代に備え、茶道、連歌、書道、蹴鞠などを学んだ。


特に茶の湯は一流の腕前になっていた。

徳川2代将軍秀忠の作戦参謀、3代家光の話相手に選ばれた。

徳川将軍家から特別扱いされるだけの人望のある無双の花であった。


柳川藩主の立花家は小田原にルーツがあるという。立花宗茂は豊後の大友家の家臣だったが、小田原市に西大友という地名に残るのがそれになるという。
 その大友家は源頼朝に連なるという。

 八幡神は源氏の守護神だが、だから源頼朝は八幡様の総本宮がある豊後の国に身内を送りこんだのだろう。

その柳川出身の北原白秋は、生涯において1200の詩作のうち、600を神奈川県小田原市で作っている。白秋が小田原に立花宗茂のルーツがあることを、はたして知っていたのかどうかは分からない。


また、北原白秋が菅原道真の末裔であるといわれている。どうりで、詩作が上手いのは血統だったのか。

 

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