九州柳川の戦国武将の立花宗茂。
大友家の家臣高橋紹運の嫡子として生まれ、共に大友氏を支えた立花道雪の娘誾千代の婿となった。
秀吉に認められて、柳川藩の大名となり、朝鮮出兵の際活躍したが、関ヶ原の合戦で、西軍につき、浪人となってしまう。
別居していた誾千代の支えもあり、大阪にわずか20名の家来と移り住み、家康の赦免をひたすら待った。
かつて秀吉から共に天下無双誉められた本田忠勝の働きかけもあり、やがて5千石大番頭で取立てとなった。
更には奥州南郷に一万石を得て、大名に。その後九州柳川藩の十三万石に戻った生涯。
秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と言われた宗茂。
家康からは「そなたは、泰平の世の画竜点睛となれ」と言われた宗茂。
「無双の花」は葉室麟の直木賞受賞第一作品。
柳川藩主の立花家は小田原にルーツがあるという。立花宗茂は豊後の大友家の家臣だったが、小田原市に西大友という地名に残るのがそれになるという。
その大友家は源頼朝に連なるという。
八幡神は源氏の守護神だが、だから源頼朝は八幡様の総本宮がある豊後の国に身内を送りこんだのだろう。
その柳川出身の北原白秋は、生涯において1200の詩作のうち、600を神奈川県小田原市で作っている。白秋が小田原に立花宗茂のルーツがあることを、はたして知っていたのかどうかは分からない。
また、北原白秋が菅原道真の末裔であるといわれている。どうりで、詩作が上手いのは血統だったのか。
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