2024年5月7日火曜日

夜間頻尿を解消する運動

 


夜間頻尿を改善するためには、日中に下半身に溜まった水分を寝る前までに排出することが必要になる。

下半身に溜まった水分を出すために、有効なのは、

1.タオルはさみ体操

やり方は、椅子に座り丸めたタオルを太ももでギュッとはさんで緩める動作を10~30回繰り返すだけだ。

「太ももの内側にある内転筋など、大きな筋肉を鍛えると下半身の血行が良くなる。

そのため余分な水分が溜まりにくくなり、夜にトイレに起きる回数を減らしてくれる。」

この体操は夕方から夕食後にかけて行うと、就寝前に水分が腎臓へと届けられ、余計な水分を尿として出し切ることができる。

次に、日中でもトイレが近いという人は加齢により膀胱が収縮し、尿が溜まっていなくても尿意を覚えてしまう「過活動膀胱」を患っている可能性が高い。

これを改善するために役立つのは、

2.骨盤底筋トレーニング

「仰向けに横になり、両足を肩幅程度に開いて軽く両膝を立てます。このままゆっくり息を吐きながらお尻を上げ、尿道・膣と肛門を5秒ほどキュッと締めるだけです。

この動作を一日に10回3セットほど行うことで、膀胱を支える骨盤底筋が鍛えられ、膀胱が安定します。また、尿道括約筋という筋肉にも効果があり、膀胱が縮まるのを防ぐのです。その結果、夜のトイレに目覚める回数も減っていきます」

2024年5月5日日曜日

室戸岬の銅像


 室戸岬には、60歳の頃、学生と夏休み旅行で、出かけた記憶がある。

当時の学生、永津君が、ことし自転車旅行で、室戸岬を巡った写真を、FBに投稿していた。

よくみると岬の先端に銅像がたっている。当時は気づかなかったが、中岡慎太郎の銅像が昭和10年に建てられたそうだ。

坂本竜馬と一緒に暗殺された無念の志士が、太平洋をはるかに眺めている。

中岡慎太郎 像 - 室戸市 ホームページ (city.muroto.kochi.jp)

2024年5月4日土曜日

銀のさら

【ゆっくり解説】小僧寿しを余裕で倒した銀のさら。ヤバすぎる経営戦略について (youtube.com)

 「銀のさら」が10店舗を達成したのは2000年5月。

その翌年2001年7月には株式会社ベンチャー・リンクと資本提携し、株式会社レストラン・エクスプレスを設立。2013年にライドオン・エクスプレスに社名変更した

かつて(およそ2000~2010年頃)は飲食業とはかけ離れ、購買意欲の促進にという目的に全く囚われない程の奇抜なシュールギャグ的な内容のCMを製作、放送する企業として知られていた。

現在は比較的寿司の美味さを表現した「普通」の内容のCMを主に放送している。


店舗数は宅配寿司業界日本一で、2012年(平成24年)10月現在の総店舗数は356店舗。

令和初期では383店舗といわれているが、別系列の店舗をあわせると、700店舗にもたっしている。

店舗がない都道府県は岩手県和歌山県鳥取県、富山県、石川県、福井県、宮崎県である。


    オートファジーの実用化

     大隅 良典(おおすみ よしのり、1945年昭和20年)2月9日 - )は、日本生物学者分子細胞生物学)。学位は、理学博士東京大学1974年)。東京工業大学科学技術創成研究院特任教授栄誉教授自然科学研究機構特別栄誉教授、総合研究大学院大学名誉教授基礎生物学研究所名誉教授、東京大学特別栄誉教授。福岡市名誉市民、大磯町名誉町民、京都大学名誉博士大隅基礎科学創成財団理事長。

    自然科学研究機構基礎生物学研究所教授兼総合研究大学院大学生命科学研究科教授、東京工業大学フロンティア研究機構特任教授などを歴任した。「オートファジーの仕組みの解明」により2016年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。


    吉森 保(よしもり たもつ、1958年9月3日 - )は、日本の生物学者大阪大学名誉教授。主な業績は哺乳類オートファジーの分子機構と生理機能の研究。大隅良典教授の研究の後継者として、その実用化につとめている。

    オートファジーを研究するベンチャー企業AutoPhagyGO」を2019年6月に設立した。





    2024年5月1日水曜日

    古賀市の歌うま番組

     古賀市出身の歌うまさんTNCの赤木希アナウンサーが、5時間の間に、古賀市内のカラオケスナック、「トライアングル、あづま、瑠璃、みさ、」などをめぐり、店の歌うま客と合唱して、95点をめざして歌って回った。

    最高点は94.83で、にわずか届かずに終わった。

    歌へたの私でも、結構楽しめる番組であった。

    2024年4月30日火曜日

    肺炎による炎症はCRPの変化に現れる

    肺炎で入院中、何回も血液検査をうけた。その中でCRPの値が一番変化したようです。

    4/09  16.61     4/12  7.71       4/15    2.03     4/30    0.17

    白血球や赤血球の値はあまり変化なし。

     CRPとはC-reactive proteinの略でC反応性タンパクのことです。このC反応性タンパクは、体の中で炎症や組織の破壊がおきているときに血液中に現れるタンパクです。つまり血液中のCRPの値を調べることで「体のどこかに炎症がある」「組織破壊がおきている」といったことが内視鏡などで直接確認しなくても血液検査だけで分かってしまうのです。

    さらにCRPは体内で炎症が始まって24時間以内に急増するという特徴ももっているので炎症の早地期診断にも役立ちます。逆に炎症が治まるとCRPは最長でも2~3日で減少します。


    2024年4月29日月曜日

    白寿の記録

     2024年5月9日で、満98歳の誕生日をむかえる。

    長寿の祝いは、99歳の白寿といういうことになっているから、来年のことである。

    しかし昔は数え年で言っていたから、今年でも白寿としておこう。

    5月9日が記念日となるのは、

    アイスクリームの日

    アイスクリームの日は、アイスクリームのPR、消費拡大を願って制定された記念日です。


    誰が制定した記念日なのか?

    1965年に当時の東京アイスクリーム協会、現在の日本アイスクリーム協会が制定した記念日です。

    なぜ、5月9日なのか?

    1964年から、アイスクリームのシーズンインとなる、ゴールデンウィークの連休明けの5月9日に、記念事業を開催したことにちなんで日付が決まっています。

    5月9日に生まれた有名人は


    1147年5月9日(久安3年4月8日)~1199年2月9日


    源 頼朝(みなもとの・よりとも)(武将、政治家・日本(愛知県))鎌倉幕府 初代将軍


    私は1926年5月9日の新聞を、以前からあつめていた。その中でおもな記事を並べてみよう。

    第1次世界大戦後の世界不況で、国内外に不穏な動きがみられる。

    1)聖上御全快 今朝御床払い。 (大正天皇のご病気が快復された記事)

      (しかしこの年の12月25日に亡くなり、26日から昭和元年となった。)

    2)軍人勅諭御下賜50年記念式 荒木陸相、大角海相参内。

    3)重光公使と国民政府外交部長陳氏、満州問題の直接交渉。

    4)政友本党の松本代議士、松島寄付金事件で、召換に決定。

    5)山海関で一戦の空気濃いし。室師団先鋒出動す。

    6)英国の労使戦、さらに悪化の形成。罷業電力工に及び全英暗黒の危機せまる。

    7)ガンジ氏宣戦布告と共に、いよいよ反英抗争。

    8)学生の左傾、思想取締まり、岡田文相厳訓。

    9)労働農民党、お膳立てなる。総同盟も拡張に力瘤。


    大正末期から昭和初期にかけて、不況対策と軍国主義への傾斜が進んでいた時代であった。

    1917年から1924年生まれの男性は、多く第2次世界大戦で招集されて戦場で亡くなっている。

    私は徴兵検査で乙種合格であったが、理系の招集免除で、生き残れた。

    戦後の日本復興に少しは貢献したつもりであるが、現在は日々是好日ではなく、日々是孤日の生活である。

    老人の死亡リスクが高いのは、肥満が1.2,飲酒が1.4,喫煙が1.6、孤独が 1.9という。

    社会との繋がりを少しでも長く持つように努めていこう。

    百寿には届かないかも知れない。

    2024年4月28日日曜日

    考古学にもデジタル革命

     いま考古学の世界でも、デジタル革命がおきている。

    レーザー光を照射するLiDAR技術やAIが、アンコール遺跡や奈良の古墳調査で活用されはじめている。

    レーザーを照射して観測するLiDAR技術やAIが、膨大な数の遺跡の可視化に役立っている。

    カンボジアではアンコール王朝の都市の謎が明らかになり、奈良の古墳調査では日本史の“空白の4世紀”に風穴があけられようとしている。
    さらにヴェスヴィオ山の噴火で焼けた古代ローマの古文書がいま、若者が駆使するAIによって読み解かれようとしている。

    島根県奥出雲町で、これまでに5基しか見つかっていなかった前方後円墳が、最近、新たに77基発見された。

    松江市の考古学者3人でつくる本庄考古学研究室が、町が森林管理のため製作した地形の立体感が分かる「赤色立体地図」で浮かび上がった古墳に目星を付け、多数の発見に至った。

     

    赤色立体地図は、航空レーザー測量で標高データを集めた地図で、どの方向から見ても立体的に見えるため、細部の地形が分かりやすい。

    傾斜がきついほど赤色が濃くなり、なだらかだと白っぽくなる。


    古墳のように人工的に造られた地形の場合、形が浮かび上がるという。これをAIつきデジタル アイで調べて結果、77基の古墳が発見された。


    NHKのBSスペシャルで、その様子が、詳しく放送された。




    2024年4月4日木曜日

    鎮西探題・九州探題と姪浜

    1)鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代幕府西国九州)の統括のために設置した機関である[1]行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。

     文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の元寇の後、弘安9年(1286年)元寇後に訴訟が急増した九州に鎮西奉行の後身として、少弐氏大友氏宇都宮氏渋谷氏など有力守護四名を奉行として、鎌倉、六波羅探題にかわる合議制の裁判所として鎮西談議所が博多に設置された。

    その後、鎮西談議所の後身として、永仁元年(1293年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時名越時家が派遣され、鎮西探題が設置され、それまで設置されていた鎮西奉行鎮西談議所は廃止された。

    永仁4年(1296年)の北条実政から1人体制となった。正安元年(1299年)には評定衆引付衆が設置され訴訟裁断権を持った。

    鎮西探題が問状召文、訴訟関係など御家人に対して発給する文書は、形式により鎮西御教書鎮西下知状と呼ばれた。

    元弘3年(1333年)に後醍醐天皇討幕運動から元弘の乱が起こると、九州の諸武士団にも倒幕に参加する要請の綸旨が渡った。

    3月に菊池武時が口論の末に単独挙兵し反乱するが、少弐氏や大友氏ら他の武士団の同調を得られず、菊池親子ら200騎は壊滅した。

    流刑先の土佐国を脱出した尊良親王(後醍醐天皇第一皇子)が筑前国に入り旗頭となり、5月7日に京都六波羅探題足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった少弐貞経大友貞宗、さらに南九州の島津貞久らにより攻められ、1333年5月25日に鎮西探題の北条英時博多櫛田神社の近くにあった探題館を攻められ、居城である姪浜の浦山城籠った。

    さらに九州の各豪族は殆どすべて攻略側に加わったので、北条英時は、金沢種時ら一族240名(340名とも)と共に自害した。

    この3日前の22日には遠く東国の鎌倉幕府の本拠が新田義貞らに攻められ、得宗北条高時など主だった北条一門が自害し、幕府は既に滅んでいた。

    (後に室町幕府は九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。

    江戸幕府は九州諸藩の監視、天領統治の為に西国筋郡代を置いた。ただし代官所は豊後国日田に置かれた。この郡代は「九州探題」とも呼ばれた。)

    位置

    探題館探題城、姪浜城または鷲尾城とも)は、筑前国早良郡愛宕山(現在の福岡県福岡市西区愛宕)に置かれたとされてきた。だが、中世都市の遺跡である博多遺跡群では、福岡市博多区祇園を中心に、北条家の三鱗紋を有する土師器の皿が出土した。また14世紀前半に埋没した溝の上から、110体分の火葬人骨が出土し、一部には刀傷がみられることから、実際には博多の町内にあったと考えられている。

    2)九州探題:

    室町幕府が九州統制のため博多においた職,広域行政機関。

    初めは鎮西管領鎮西探題とも称される。

    1336年(延元1・建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。

    その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経渋川義行今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。

    初代鎮西管領一色範氏は,一族を軍事指揮者として九州各国に派遣したが,46年(正平1・貞和2)子息直氏を下向させ,以後は父子一体となってその政務をとる。続いて49年,中央幕府政局における二頭政治対立の影響で,足利直義の猶子直冬(尊氏の庶長子)が西下。また前年の征西将軍懐良親王の下向もあって,九州地方の政治的勢力関係は,幕府方(尊氏-鎮西管領一色氏),直冬方,宮方(南朝-征西府)という三者鼎立となり,いわゆる観応(かんのう)の擾乱につながる。

    概して直冬方が最優勢といえるが,南九州守護島津氏は幕府方に立ち,北九州守護少弐氏は直冬方,中九州の肥後守菊池氏は宮方であった。

    その間,51年(正平6・観応2),尊氏・直義の一時的和睦によって,直冬が正式に鎮西探題となる。

    しかし翌年の直冬,55年一色氏の,相つぐ九州退却により,以後60年代にかけて九州は征西府-菊池武光を中核とした宮方の隆盛期を迎える。60年代幕府側も斯波氏経,渋川義行を探題として一応任命したが宮方勢力の前に食い込むことができず,とくに渋川義行は任地九州に一歩も足を入れられなかった。

    やがて70年(建徳1・応安3)九州探題に今川貞世(了俊)が任命され,翌年九州に下向。

    了俊は,まもなく諸勢力を結集,大宰府,征西府を占領,懐良親王を奉じる菊池氏を本拠肥後に撤退させた。以後九州において幕府方が優勢となる。

    ただこれら九州探題は,いずれも外来系権力のため,管内において料所などは僅少で,経済的基盤が脆弱であった。それを補うべく,例えば一色範氏は盛んに闕所地処分を行ったが,本主勢力の存在によって遵行困難であり,今川了俊は寺社領に広く半済はんぜい)を施行して給人に預け置き,とくに大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握した。

    動乱期の九州探題としては一色範氏,足利直冬,今川了俊の3者が代表といえるが,彼らの発給文書の様式はおのおの特徴をもち類型化できる。

    すなわち最初の一色氏のものは御教書(みぎようしよ)(書止文言〈仍執達如件〉=奉書系,官僚系),つぎの足利直冬は下文(くだしぶみ)(将軍系),今川了俊のものは書下(かきくだし)(書止〈状如件〉,守護系)である。おのおのの出自の違いに対応しており,九州経営に対するそれぞれの性格の相違につながるものといえよう。

    一色範氏の場合,文書発給の源泉は将軍に存し,あくまでその下で純粋な官僚にしかすぎなかったといえよう。直冬は,下文を多く発していることに注目でき,この点,他の九州探題の場合には全然みえず,上部権力の存在をあまり必要としない存在(将軍的)を象徴していよう。

    今川了俊の文書は,おおむね直状(じきじよう)様式をとり,一色範氏の場合と比較されるが,今川氏が代々遠江,駿河を本拠とした守護であるという,その出自によろう。

    了俊は単なる探題=官僚的側面のみではなく,当初から濃厚な守護→分国的要素を担いつつ九州経営に臨んだ。了俊は,九州在来の諸勢力に対しては将軍の分身観を背景にして〈直の忠〉を強要するが,実は早く九州諸国のほとんど(豊後,対馬以外)を〈分国〉化,それらへ一族・譜代被官を守護・大将・守護代として派遣し,みずからは〈分国〉主として探題府筑前に滞在,領国形成の意欲旺盛であった。

    とくに,探題府に隣接した大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握したことは重要である。これは筑前国衙の掌握をも意味し,同寺宮領は九州第一の穀倉地帯筑紫平野に集中的に分布する。

    了俊は,そこを半済給人(一族・被官ら)に預け置くが,一方,在地における調停者として領家側(菅原氏)と共存して同寺宮領の擁護に努め,さらに経済的権益の増加をねらい,これを基礎として九州全域への領国形成の拠点とした。

    了俊はそのほか肥前における国衙在庁・一宮掌握,南九州における国人一揆の形成に関与している。領国形成志向の旺盛さは,もちろん,在来守護層との関係も切迫させる。75年(天授1・永和1)肥後水島で少弐冬資を誘殺したため,以後,島津氏久との関係が緊張したことは,その代表的例といえよう。

    両朝合一まもない95年(応永2),彼が探題職を解任されたのもこの辺に大きな原因があろう。有能な了俊は,中央幕府にとって,もはや危険な存在となっていた。

    了俊解任により,渋川満頼が九州探題に任命され,以後,代々渋川氏(満頼,義俊,満直,教直,万寿丸など)が当職につき,一族・被官などを使って日鮮交渉に努めたりする。

    しかし早くも義俊のとき,1423年(応永30)少弐満貞に敗れてから,探題勢力は急速に衰え,その拠点筑前を失い,東肥前の一局地勢力にすぎなくなり,その存在意義を失ってしまう。

    渋川末期の探題堯顕は、姪浜の地で討ち死にした。

    中世の姪浜は、九州地方の政略上の要点であった。