2013年4月30日火曜日

みちのくの歴史

藤原4代が栄えた平泉の源泉は、みちのくで発見された金であった。
これは百済から逃亡してきた人たちの技術により発見された日本で最初の金資源であった。
源平合戦で勝利した源頼朝が、引き続いて義経をかくまった藤原を壊滅させたのは、この金が本当の狙いであったようだ。

2013年4月29日月曜日

長寿と薬

徳川家康は当時としては長寿であったから、天下取りに成功した。
長寿の秘訣は薬草に詳しく、駿府の城に薬草園をつくらせ、自分で調剤していたという。
古賀作一さん99歳だが、やはり薬に詳しく、サプリメントや蜂蜜液の調合などをされている。
少し見習って、まずは蜂蜜からはじめてみよう。

2013年4月28日日曜日

多神教から一神教へ

日本は多神教の国である。神様、仏様、キリスト様など、みな受け入れている。
しかし内村鑑三は多くの神に祈る神道から一神のキリスト教に変わってほったしたといっている。
仏教でも、曼荼羅の密教よりも、阿弥陀如来だけの浄土宗、浄土真宗が大衆に普及した。
大衆はシンプルな考えの方がわかり易いからだろう。

2013年4月27日土曜日

極楽浄土と浄瑠璃界

趣味Do楽の仏像拝観手引に魅せられている。
西方極楽浄土の教主は阿弥陀如来、これに対して東方浄瑠璃界の教主は薬師如来。
 夜明けとともに瑠璃色に輝く東の空は、命が新しく生まれる世界、
日没とともに金色に輝く西の空は、命を迎え入れてくれる極楽浄土。
昼間の太陽の輝く天空の教主は大日如来の金剛界であろうか。

2013年4月26日金曜日

イタリア映画 鉄道員

今日の映画会は、1956年のイタリア映画「鉄道員」だった。かってカンヌ映画祭での賞をとった作品だ。
頑固すぎる鉄道員の家族で、葛藤と分裂がおこり、家庭破滅に近い状態になる。かわいい末っ子の活躍で、最後はすこしずつ綻びが解消し、ハッピーエンドとなり、主人公の死で終わる。
見終わって今までの活劇に無い哀愁感が残った。

2013年4月25日木曜日

歴史に埋もれた人物

幕末の歴史番組で、最近は名前をあまり知られていない人物が登場する。
新撰組の斉藤一、奇兵隊の赤禰武人などである。
しかしネット検索すると、結構詳しく記載されている。私たちが知らなかっただけだ。
近藤勇が処刑されたあとの新撰組のリーダだった斉藤一は、会津戦争でも戦い、明治維新後の西南戦争でも戦ったという。
高杉晋作が奇兵隊を4ヶ月で退いたあとを纏めた赤禰武人は、その後の政変の狭間で、処刑されたという。その墓は平成になって作られたそうだ。

2013年4月24日水曜日

浄土の教と仏像と仏壇(改訂版)

 わが家の宗派の浄土宗は、法然上人により始まり、親鸞により浄土真宗(一向宗)としてひろまった。
右:法然、左;親鸞



親鸞は29歳から35歳まで法然の教えを受けた。


 ともに阿弥陀如来を本尊としている。
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味である。
アは無、ミターは計測の意。「無量寿経」というお経もある。
阿弥陀如来
平安時代の末期に末法思想がおこり、あの世で仏に救済されるという。あの世が浄土の世界である。
アフガニスタンなどで仏教が抑圧され、遺跡などが破壊されたという情報が、日本にも伝わってきたが、平安末期にも世相不安と重なって末法思想がおこり、阿弥陀さまが本尊として登場したのだ。

NHKの趣味Do楽の仏像拝観手引で教えられた。
西方極楽浄土の教主は阿弥陀如来、これに対して東方浄瑠璃界の教主は薬師如来。天台宗や真言宗の本尊である。
薬師如来
夜明けと共に瑠璃色に輝く東の空は、命が新しく生まれる世界。
日没と共に金色に輝く西の空は、命を迎え入れてくれる極楽浄土。
昼間の太陽の輝く天空の教主は大日如来の金剛界である。
真言宗の本尊である。
大日如来
お盆の月であり、お寺参りや仏壇に手をあわせる頻度がたかい。ゆっくり仏像のお顔を拝むために、仏教の復習をしてみた。

阿弥陀さまは、お釈迦さまの弟子の一人と思っている人が多いし、私もかってはそう思っていた。
 しかし南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の、
南無namo(sanskrit)の音写語で「わたくしは帰依します」と意味しており、
また「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の「無量の寿命の大仏(amitaayus)」「無量の光明の仏(amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamita(sanskrit)を略出したものである。
「無量の寿命の大仏に帰依します」というお祈りの言葉である。
一遍上人は最初に
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして」
と教えたが、更に信仰を深めて
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
と教えた。
念仏の声が聞こえるあいだは、まだ我が消えていないから、無心に念仏をとなえるところまでになれ、ということだ。

釈迦如来
仏像としては、釈迦如来と同じレベルで、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来がとして位置付けられている

わが家の仏壇の照明は、LED灯にかえて長時間点灯し、7色に変化する蝋燭灯を追加。
座布団に正座は出来ぬ年齢となり、座椅子を設置。
「近いうち」に仏壇入りの心の準備。



年に一度ご先祖さまが現世のわが家にもどられるお盆の日には、しっかり仏様と対面しよう。




2013年4月21日日曜日

古賀市に新名所(船原古墳)

古賀市谷山の船原古墳で、金色の馬具一式が出土した。国宝級の出土品という。
今日はその現地説明会にでかけた。
以前に見学した船原古墳(装飾古墳)のすぐ近の農地で、田圃の区画整備事業の工事中に発見されたという。
船原古墳の馬具は木製部分は腐敗して金属部分だけが散乱して残っているので、素人がみてもよく解からない形状をしているが、白色に近い金色の金属だけは輝かしいものだ。
 藤の木古墳の馬具は、古墳の石室のなかに置かれていて、男女二人の遺骨の後に入れられてものだったので、その埋葬者と馬具の関係をいろいろ歴史家や小説家が推測しているが、船原古墳の埋葬者はまだあまり議論されていない。
 この周辺には谷山神社や小山田斎宮、聖母屋敷跡があり、谷山川の上流域だから、古代から多くの住民がすみ、有力豪族が存在していた可能性が高い。船原という地名から、船で海岸まで容易に出入りできた場所だったであろう。
 考古学的な年代推定は580~620年位で、磐井の乱の後の時代だから、磐井を制圧した物部の一族か、磐井一族の残留者か、または糟屋屯倉の管理者となった舂米連の一族が住み着いたのか、或いは谷山銅山の採掘関係者の集団か、色々考えられる。

行政区画上は谷山と小山田の境界に近いので、鉄塔の向こうにある小山田の丘周辺を調査すれば、まだ多くの遺跡が埋蔵されている可能性は大きいと思われる。
吉住市議のとられた写真の奥に、われわれ夫婦が写っていた。

2013年4月20日土曜日

孔子と孝子

儒教が盛んだった江戸時代には、幕府や藩主が孝子の表彰を行ったことが何回かあるが、明治以降はなくなり、現在では個人情報違反と批判されるという。
親が貧しい家庭であったということが知れ渡るのをきらうからだ。
孔子さまはこんな現象を予想しただろうか?

2013年4月18日木曜日

大森治豊と赤星研造



山形県上山市出身の医者で、東京大学医学部卒業後、福岡県立病院の設立のため福岡市に赴任した大森治豊は、県立病院を拡大させ、これを基盤として九州大学医学部(当初は京都大学の九州分校)に発展させ、初代学長をつとめたた功労者である。九大内には彼の銅像や大森通がある。

福岡出身で黒田藩の派遣留学生で、オランダに留学した赤星研造は医学を学び、プロシャ(普仏)戦争に従軍後、帰国して東大教授になっていたが、大森を教えたのだろうか、またなぜ福岡の県立病院に戻らなかったのだろうか?

彼は結局東大を追われて宮城医学校に移り、あとは仙台で開業したという。東北と九州の人材交換となった。

そういえば九州大学が総合帝国大学となるときの総長も会津出身の山川健次郎で、今の大河ドラマにも後半に登場するそうである。

悲劇の加藤司書

福岡市には悲劇の偉人の銅像が三つある。平野国臣・中野正剛・広田弘毅の3人である。
明治維新の2年前に処刑された加藤司書も銅像になって良さそうだが、藩内事情だけの処刑だったためか、広く知られていない。
しかし彼の祖先は黒田官兵衛を荒木村重の城から救い出した人物であり、妻は野村望東尼の親類というから、歴史的興味は大きい。
平野国臣よりもはるかに身分が高く、直接会話したことなど無かったようだ。

天埜川

地球上の物質には、気体、液体、固体の3体がある。
山川、海山、野山、空海、天海などは2体で、3体を含む言葉は少ない。
天の川は宇宙のなかに川を幻想したものだが、「の」をより具体的に「埜」とすると、3体のイメージがあらわれる。
天埜という人名はたまにあるし、天埜川も芸名かペンネイムに使われているようだが少ない。
左右対称の字体もいいのでペンネームとして利用しよう。

2013年4月15日月曜日

毛利軍が大友の立花城を攻撃{永禄十二年(1569)}遠矢原の戦

 永禄十二年(1569)4月15日は毛利元就・吉川元春・小早川隆景が四万の大軍を率いて筑前立花城を攻め、戸次鑑連(のちの戸次道雪)らがこれを後巻して防ぐ戦が始まった日。 

 筑前立花城(福岡県新宮町)は博多の北北東、直線距離にして約八キロメートルの位置にある山城で、戦国期には幾度となく争奪戦が繰り広げられました。私の家から1Kmくらいの山城。


 元々は大友貞載(のち立花氏を名乗る)によって築かれた城でしたが、日本屈指の貿易港・博多をもつ筑前支配の重要拠点であり、立花城をめぐる戦いは博多の利権争奪戦と言って良いでしょう。

 1)これにまず目を付けたのが周防大内氏でした。天文元年(1532)三月、大内義隆は立花親貞の拠る立花城攻略に成功、これより大内氏の支配するところとなりました。
 2)しかし義隆が同二十年九月に陶晴賢の謀反により長門深川の大寧寺に滅ぶと、三年後に大友氏は立花城を奪回、守将として立花鑑載を入れました。
 3)しかし永禄十一年(1568)になって立花鑑載は毛利と通じ、大友氏に反旗を翻します。これは主君大友義鎮(宗麟)の乱行に反発したものですが、宗麟は直ちに戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら豊州三老に三万の兵を与えて立花城攻撃を命じます。

 毛利も急ぎ清水左近将監らを救援に向かわせ、さらに吉川元春・小早川隆景らにも出陣を命じます。
小早川隆景
しかし救援は間に合わず、大友勢の攻撃を支えきれずに鑑載は自刃、清水は長門へ退き立花城は落城しました。清水らは八月に再び立花城を攻撃しますが、数に勝る大友勢に敗れています。

 4)立花城奪還を目指す毛利は、翌十二年(1569)になって吉川元春・小早川隆景らに四万の兵を与えて出陣させ、この四月十五日一斉に攻撃を開始しました。
 大友勢は戸次鑑連ら主力が肥前で龍造寺隆信と交戦中でしたが、鑑連は急遽和議を結び筑前へと軍を返します。


総勢10万の九州最大の合戦が半年以上続き、遠矢原で火縄銃を使った近代戦が展開されました。
鉄砲戦としては、信長の長篠戦よりも6年早い時代です。
場所は唐原から香椎の浜男の間らしく、遠矢は弓矢より遠くに飛ぶ鉄砲の名称で、これが唐原になまったようです。
城方も懸命に防戦しますが、毛利勢の重囲により兵糧が尽き、遂に開城しました。



 5)念願の立花城奪回を果たした毛利でしたが、地元で再起を図る尼子勝久の挙兵や大内輝弘の蜂起など、出雲・周防で重大事件が勃発したため、大友氏との衝突を避け、浦(乃美)宗勝らにわずかの兵を与えて城を守らせ本国へと退陣しました。

 6)この後元亀元年(1570)二月、またもや立花城は大友氏に帰し、一連の戦いで戦功を挙げた戸次鑑連が城督として入りました。
 道雪は毛利の将、浦宗勝らを長門の国に無事送りとどけています。
戸次道雪

 7)秀吉の九州平定後に小早川隆景が筑前入りをして、立花城に入ったあと、名島城を本拠ととしますが、浦宗勝は立花城の城代として働き、この地に没して、宗勝寺に葬られています。黒田官兵衛、長政父子が福岡入りするのは、その後30年あとのことです。


2013年4月14日日曜日

「巌流島の決闘」4月13日


 世に「巌流島の決闘」として知られる武蔵と小次郎の試合は、慶長十七年(1612)4月13日,関門海峡に浮かぶ舟島(山口県下関市)にて行われました。
 この試合は武蔵が故意に遅刻、小次郎を焦らせ怒らせることによって精神的に優位に立つという作戦が成功、武蔵が勝利を得ました。
  武蔵は舟の櫂を削って作った即席の木刀で小次郎を一撃に打ち倒したとも、また試合後に小倉藩士が気絶していた小次郎を斬殺したともいわれます。
 試合に勝った武蔵は暫く消息不明となりますが、のちに肥後細川家に客分として身を寄せ、正保二年(1645)五月十九日に没して弓削(ゆげ)の里(熊本市龍田弓削)に葬られました。最近ここに武蔵の二刀流の姿の銅像もできています。武蔵の墓は熊本に4ケ所、小倉に1ケ所あるようです。

2013年4月11日木曜日

歴代の黒田(福岡)藩主


関ヶ原戦に向けては、黒田孝高・長政父子揃って家康と連携して動いています。
(この事は江戸時代や明治に書れた軍記物によるのではなく、家康、井伊直政、吉川広家、福島正則、長政、孝高が伝える当時の書簡で確認できる事です。)



長政が関ヶ原本戦にある時、ご存知のように孝高は九州の西軍諸城を攻めました。
諸城は、主力を上洛させていますから留守番部隊を攻める体であり、西下して来た大友義統との豊後石垣原での戦いの他は、事実上、囲めば開城するという程度の戦いでした。
しかし、上洛中の所領を蹂躙すると云う行動は大きく政治的効果を持つものでした。


この九州における西軍諸城攻略は、上洛中の長政を通じて、井伊直政を取次に、家康からの許可を得て初められます。そして、大友義統を迎え打った後、義統の投降は、奇しくも関ヶ原本戦同日でしたが、今度は家康の直書により、小倉城の森吉成討伐の命を受けます。

その後、筑前、筑後、肥前と進み、小早川秀包、立花宗茂を投降させると、彼らを先鋒に薩摩境を目指しますが、11月11日付けだったか、(11月は間違いありませんが、)またも、家康直書で停戦命令を受けます。
つまり、長政・孝高は関ヶ原前後、忠実に家康の下で動いたことが確認できます。故に、豊前半国18万石から、長政は東軍ではトップのほぼ、三倍の加増で筑前に転封となり、福岡藩初代藩主1600年-1623となます。孝高は隠居。



長政後妻・大梁院殿は、家康実の姪です。つまり二代忠之は、家康実の姪の子です。この事をとっても、黒田は譜代に近い関係にありました。

二代藩主忠之は、父・長政の遺言により弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。

 二代忠之1623年-1654年の時代、豊前の細川は、すでに肥後転封後で、細川との対立は長政死去前に、幕閣が中に入り、解決しています。

沖ノ島に藩兵を在番させていた事もあり、豊前小笠原には、海上での密貿易取締りで頼られていました。形の上では、当然、小笠原が上位。萩藩水軍も伴い、玄界灘での三藩共同の取締りに主役を勤めています。

忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きました。


3代藩主光之1654年-1688年は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史の『黒田家譜』を編纂させた。

それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。

4代藩主綱政1688年-1711年は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。

5代藩主宣政1711年-1719年は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。

6代藩主継高1719年-1769年は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主


 


7代藩主治之1769年-1781年は御三卿一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。

8代藩主治高 1782年-1782年は、婿養子(末期養子)として多度津藩京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。

9代藩主斉隆1782年-1795年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)に修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。

そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。

10代藩主斉清1795年-1834年は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。

11代藩主長溥1834年-1869年は 薩摩藩島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。

12代藩主・初代知事1869年-1869年長知は、伊勢津藩藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み、多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。贋札事件により廃藩置県に先立って解任。

2代知事有栖川宮熾仁親王は、解任された長知に代わって最後の知藩事に就任。まもなく廃藩置県を迎える


(幕末・維新時代の人材)

昨日はアクロスで開かれた霊山顕彰会の講演会に参加しました。
霊山とは京都霊山護国神社境内(霊山歴史館向かいの山)で、ここに明治維新の志士約3100柱が合祀されています。
 明治天皇のご意志で、明治元年5月1日付の太政官布告で(嘉永6年=1853以来の)「国事ニ斃レ候諸士及ビ草莽(そうもう)有志」を「東山の佳域」すなわち霊山を聖域として、殉国の志士が祀られることになりました。
木戸孝允・松子夫妻を始め、坂本龍馬、中岡慎太郎ら、祀られている3100余柱のうち墓碑(合葬墓を含む)の確認されているのは386柱です。
主な志士は、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、武市半平太、木戸孝允、梁川星巌、徳川斉昭、梅田雲浜、真木和泉守、平野国臣、橋本左内、頼三樹三郎、中山忠光、伴林光平らです。
 昨日は顕彰会福岡県支部の講演会で、「幕末・明治ー激動の福岡地方史」シリーズのなかで、幕末の黒田藩主、藩校、人材の話でした。
 昨年からのシリーズで、平野國臣、加藤司書などは既に紹介さらたのか?触れられずに、金子堅太郎、団琢磨など黒田藩派遣海外留学生の話でした。松下嘉一朗など日本人ではじめてスイスに留学し、後に福岡市長になった人物もいました。
 留学後、東大教授の要職につきながら、黒田藩に対する偏見で迫害され、自殺した人や地方の大学に移った人の話などは、初めて耳にしました。
黒田長溥

 11代藩主黒田長溥(斉溥)は、9代島津藩主、島津斉宣の末弟で、黒田家の養子にはいった人物です。
ぺりー来航のときには積極的な開港論(貿易立国論)を建白したくらいに先見性をもっていたし、長崎に留学生を派遣し、洋式技術の導入に努め、東中洲には精錬所・反射炉をつくり、外国から蒸気船を購入し、様式軍隊の訓練を取り入れたりしました。
 一時は薩長同盟の動きを模索していたが、倒幕論までの決意がなく、西郷らの薩長同盟締結の3ケ月前に、乙丑の獄で加藤司書、月形洗蔵らの尊攘派を処分したため、明治政府から軽視される結果となってしまったようです。

家康、島津氏赦免を誓約 慶長七年(1602)4月11日

慶長七年(1602)4月11日は、徳川家康が島津義久の本領を安堵、忠恒(家久)の相続を認め義弘の赦免を誓約する。

 慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原において西軍に加担していた島津義弘は壮絶な敵中突破を行って戦場からの離脱に成功、苦労を重ねて本国にたどり着きます。
 しかし島津氏の戦後処理はこれからはじまります。
 十月三日、当時兄・義久が在城していた富隈城(鹿児島県霧島市)にたどり着いた義弘は、直ちに善後策を協議しました。

 しかし当時の島津氏には複雑な事情があり、関ヶ原合戦の西軍加担にしても、家中一丸となってのものではありませんでした。
 その一番の原因は、義久に男子がなかったことから生じた後継者問題でした。一時は義久の三女・亀寿を娶った久保(義弘二男)が跡嗣ぎとなりますが、久保は文禄役中に病没したため、義弘三男の忠恒(のち家久)が亀寿と再婚の上で当主となりました。
 しかしこれらは豊臣政権の強い意向が働いたことによるもので、豊臣政権は義久より義弘を重視したため、家中の分裂を引き起こす結果となっていました。
 加えて関ヶ原合戦後には、同じく西軍の主将格として参陣していた宇喜多秀家が、島津領内に落ち延びてきたこともあり、対応を一歩間違えると滅亡の危機をはらんでいました。
 慶長六年、戦後処理を進める家康は、義弘父子に薩摩討伐をちらつかせながら、上洛して謝罪することを求めました。

義弘は義久と相談の上で軍備は整えながらも、家臣を派遣して家康に申し開きをしています。
島津義久の肖像
その結果、家康は慶長七年四月十一日になってやっと島津氏の本領安堵に加え、忠恒の相続を認め、義弘の赦免を誓約しました。
敗戦組では唯一の本領安堵

 同七年十二月二十八日には忠恒が伏見城に伺候、家康に拝謁して正式に島津氏当主として認められました。
義久の一族への感謝
家康の義久評価

 ちなみに忠恒は、同十一年六月に家康から偏諱を受けて家久と改名しています。
これで島津家は幕末、明治まで続き、維新の主役を演じましたが、これは義弘の子孫であった。

2013年4月10日水曜日

【後藤又兵衛誕生】永禄三年(1560)4月10日


今日4月10日は後藤又兵衛基次が後藤基国の二男として播磨姫路南山田に生まれた日。
 (後に黒田家の猛将として数々の戦いに活躍、後に大坂の陣で壮絶な戦死を遂げた後藤又兵衛基次。)

 この日播磨別所氏配下の土豪・後藤将監基国の二男として姫路南山田に生まれました。幼名は弥太郎、長じて又兵衛のち隠岐守を称します。
 

 播磨後藤氏は羽柴秀吉の中国侵攻により所領を失いますが、又兵衛は黒田孝高のもとで養育されました。しかし母の兄・藤岡九兵衛が逆心を抱いたため黒田氏から警戒され、又兵衛は天正九年(1581)に秀吉の臣・仙石秀久に預けられます。
 同十三年に孝高から呼び戻される形で再び黒田氏の臣となります。知行はわずか百石で栗山利安(大膳)の配下としての待遇でしたが、黒田氏の臣となった又兵衛は持ち前の才気を発揮して活躍、次第に重く用いられるようになります。
黒田の中津藩時代に彼が居た豊前伝法寺には又兵衛屋敷跡といわれる場所があり、これは中津藩時代に築上郡の治安を又兵衛に命じていたので、ここに滞在していた屋敷跡らしいです。
こちらは、10年くらい前には竹林であったが、今は整備されて駐車場となっています。

 又兵衛の名を世に広く知らしめたのは、文禄の役における第二次晋州城攻撃の際のことでした。
又兵衛はこの戦いで「亀甲車」なる木製の人力戦車を操り、加藤清正の重臣・森本儀太夫や飯田角兵衛らとともに一番乗りを果たします。
 その後の関ヶ原合戦では、後藤又兵衛と斉藤甚右衛門は、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を苦労して救い出したのが大きな功績とされています。
 関が原戦の後に長政が筑前一国五十二万石を与えられ福岡に入部すると、又兵衛は筑前益富城(大隈城:福岡県嘉穂町)代として一万六千石を領しました。
益富城石垣


益富城地図
益富城跡と小川県知事


 しかしその後平和が続くうちに、長政との折り合いが悪くなり、黒田孝高が没した二年後の慶長十一年(1606)には、ついに又兵衛は黒田家を退去、長政と仲が悪かった小倉城(北九州市小倉北区)の細川忠興を頼ります。
 忠興は喜んで迎えますが、激怒した長政から強硬な「奉公構え」(再仕官させない処分)の横やりが入り、結局又兵衛は以後八年にわたって浪人し、行橋の西福寺に匿われる身となりました。

ここには彼の槍や遺品が残されています。豊前はかって又兵衛が居住していた地域で、支援者が大勢いたものと思われます。
 
 同十九年、豊臣秀頼の求めにより大坂城に入った又兵衛は、真田幸村や長宗我部盛親らとともに大坂方の将として活躍、冬の陣では徳川方を悩ませました。
 翌年の夏の陣では河内道明寺で伊達勢と壮絶な戦いを繰り広げますが、萩野半之丞の銃弾を浴びて壮絶な最期を遂げています。墓は何箇所かにまつられています。
九州では中津市耶馬渓地区にあります。


後藤又兵衛の墓


2013年4月8日月曜日

豊前長岩城の野仲鎮兼滅亡の日4月8日(1588)

 黒田孝高が豊前下毛郡長岩城の野仲鎮兼を滅ぼした日。 (お釈迦さまの誕生日、飛鳥大仏完成の日なども)
 
   天正十五年(1587)六月、豊臣秀吉は圧倒的な兵力で島津氏を下して九州を平定、翌月黒田孝高は恩賞として豊前国内中津郡・京都(みやこ)郡など六郡十二万三千石余を与えられました。

 豊前国は周防大内氏と豊後大友氏のちょうど中間に位置するため、戦国期の豊前は大内・大友両氏による軍事衝突も多く、在地国人衆の抱き込み合戦が繰り広げられていました。
 在地国人衆の連合体、すなわち一揆は新参の支配者に敵意をむき出しにする場合が多く、孝高も治安に苦労しました。
 
 孝高は少しずつ国人衆を帰服させていきますが、隣の肥後では大規模な一揆が蜂起します。
 肥後には佐々成政が入っていましたが、検地を巡るトラブルから八月になって隈部親永・菊池武国・甲斐親秀らが成政に反旗を翻し、窮した成政は豊前の黒田孝高や筑後柳川の立花宗茂に救援を求めます。
 宗茂は直ちに救援に馳せ向かい、自分も負傷するほどの奮戦、孝政も毛利隆景、毛利吉成らとともに救援に向かい、一揆は鎮圧されます。しかし秀吉は成政の失政を怒り、翌年成政に死を与えています。
 しかしその隙を衝いて豊前の城井谷の宇都宮鎮房を筆頭に、野仲鎮兼・中島純次・加来統直・犬丸越中守ら豊前の国人衆が一斉に蜂起したのです。
 急ぎ豊前に戻った孝高は国人衆の各個撃破を開始、この日野仲鎮兼を滅ぼしました。
 宇都宮鎮房もこの間一旦降伏したものの、孝高の留守中に不穏な行動を起こしたため四月二十日に長政の手により中津城にて謀殺されます。
 さらに長政の追撃により城井谷城(福岡県築上町)も焼き落とされ、ここに名族宇都宮(城井)氏は完全に滅び豊前は平定されることになります。

2013年4月5日金曜日

伊都国の発掘調査

伊都国の古代遺跡は北部九州では一番有名である。
昭和50年代から何回も現地の見学にでかけたが、当時はプレハブの簡素な歴史資料館だった。その後次第に本格的な設備となり、現在は立派な歴史博物館となっている。
最近日本最古の年号の文字が刻まれた刀剣が発見されて話題となったが、今日のテレビ番組では、現在でも三雲・井原遺跡の発掘調査が続けられており、まだまだ何が出てくるか解からない状態だ。
昨年度の古賀市篠林遺跡調査では、錆びた刀剣など発見されたが話題となるものは無く、今東病院敷地内部の調査が行われているが、ニュースにもならないのは大きな差である。

2013年4月2日火曜日

魂と塊

人間が死亡すると、その霊魂は二つに分かれると古代の中国では考えられていた。。
その一つが魂で、天空にのぼり埋まれ故郷にもどっていく。
他の一つが塊で、死亡した土地の地下にもぐりそこで永遠に眠る。
遣唐使として日本から長安にわたり、病で死亡した「井真生」の墓にも、塊の形は異国に埋葬されたが、魂は故郷の日本に帰ることを願うと刻まれていた。

この話をきいていたせいか?昨夜は、私の体が液状化して地下に流れおちると同時に、頭の部分がばっと燃え上がって天空にのぼっていく夢を見た。