2022年6月28日火曜日

春告魚

 春告魚は、文字通り、「の訪れを告げる魚」の意味。

ニシンは3~5月、産卵のために大挙して北海道の西岸に近づくことから、「春告魚」と呼ばれるようになった。



ニシン 鰊 鯡



「ニシン」の語源には、「二親」説と「二身」説がある。「二親」とは父母のことであり、盆や正月に両親の長寿を祈って食べる魚であったことに由来する説である。「二身」は身を二つに割いて食べることに由来する説である。他にも、二つに身を割ることから「妊娠」を語源とする説もある。

漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことからニシンに字が当てられた。また、「鯡」のつくり「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表す。「鰊」と「鯡」どちらが先にできたかは不明だが、室町時代の『節用集せつようしゅう』に両方の字が出ている。


ニシンの漁獲高が減少したことから、近年では春から初夏にかけて旬となる
メバルが「春告魚」と呼ばれるようになってきている。

メバル 鮴

鮴(メバル)の由来 「鮴」という漢字は、メバルが海藻の茂っている場所や岩の間などでじっとして遠くに移動しない「休む魚」にみえることに由来している。 「メバル」という読み方は、目が大きく見張っているようにみえる「眼張」や「目張」に由来する。

また、「ニシン」や「メバル」以外にも、渓流釣りで3月に解禁されることから
アマゴ」や「ヤマメ兵庫県ではイカナゴ、魚偏に春と書く
サワラ)」など、地方と接する立場によって「春告魚」と呼ぶ魚は異なる。
さわら 鰆


サワラには、植物の椹、地名の早良、佐原などもある。

2022年6月27日月曜日

日本の世界遺産

 「世界遺産」に登録された日本の遺産は、最近増えて23となった。写真の2017年の21に、長崎・天草潜伏キリスタンと百舌鳥・古市古墳群を追加。

また文部省が認定している『日本遺産』は、すでに55も存在する。
どちらも、自然、景観、歴史、宗教や文化、造形美などがからんでいて、多種多様である。一部には、重複している場所もある。
これ以上増やすよりは、整理整頓の時期にきている感じである。昭和や現代に近いものは、国際問題にもなりやすい。



ワープロの歴史と普及の弊害

ワープロの歴史を調べたことがある。

 西方浄土筑紫嶋: ワープロの歴史 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

この文明の利器には、弊害はないと思っていたが、そうではないようだ。情報のやり取りは人類活動の特徴だが、その弊害もでてくる。




その初期の頃の事例をとりあげてみる。

1)老害:

 ある大学の名誉教授が、80歳すぎてからワープロの亡者になり、毎日早朝から思いつくままに手紙をかいて、卒業生たちに出されていた。

卒業生も、最初のうちは、しぶしぶ返事を書いていたが、そのうち、仏の顔も三度となったらしい。

老教授は、怪しからんやつどもだ!破門だ!といって、罪もない奥様に突き当たられていたという。

今では、フェイスブックのような、大規模の投稿ソフトがあるから、このような老害を直接うけることもなくなっている。

2)ワープロでの手紙は失礼?

かって、NHK のテレビ番組「比べてみると」では、手紙だけは手書きでないと失礼になるという結論であった時代がある。

欧米では、タイプライター打ちの手紙が、相手に失礼などといういうことはない。タイプの歴史がながいからであろう。

日本でも、もう失礼と思う人はほとんどいなくなっている。

ただし縦書き と横書きの問題は、依然として残っている。

2022年6月24日金曜日

西沢潤一:光通信にかけた男

 今日PM6.10からのNHK特集:西沢潤一:光通信にかけた男(BS) 「1985年の番組の再放送」を見ていて、驚いたことがある。

画面のように、西沢潤一教授は仙台生まれの仙台育ちと解説している.
試しにネット検査してみると、殆ど仙台生まれになっているが、これも誤りである。NHKもネット情報をうのみしているようだ。

NHKの解説表示



西沢教授は私と同じ大正15年の生まれで、学会の懇親会の時に、私と同じ福岡の箱崎小学校に3年生位まで在学していたということを聞いている。
彼の父は当時九大工学部の教授で、3年生のころ東北大学に転勤されたので、仙台に転校したが、筥崎は懐かしいと言われた。
九州大学50年史にも、父親の西沢恭助の在籍の記録は残されている。
私のクラスにも医学部の教授の子息がいて、家が近くだったので良く遊んだし、やはり東北大に転校後にも文通していた。
西沢教授は同じクラスではなく直接の記憶はなかったが、同窓生だったことをこの時はじめて知った。
懇親会で同席されていた九大の原田耕介教授の父の原田恭介教授も九大教授で、父親が同僚だったので、すでに九州生まれのことはご存じであった。両方の父親が当時すでに90歳 すぎであられたので、お互いに苦労しますねと、談笑されていた。その父親の恭助教授も93歳でこのテレビに登場されていたが、100歳くらいまで生存されていたようだ。




放送内容の本題の「光通信の特許」が、頑迷な日本特許庁の反対で成立しなかったことで、西沢教授がノーベル賞に届かなかったことは、残念至極である。

西沢論文が掲載された論文誌



光通信方式

西沢教授が考案し特許を出した光通信方式は、電気信号をレーザー光に変えて送り、受信端でまた電気信号に変える方式で、電線によるよりも千倍の速度が可能とされていた。
半導体の開発や光ケーブルの製造技術などが困難視され、日本国内での開発協力者はなかった。
むしろ米国のベル研究所のピアース研究部長が着目し、米国企業での開発を推進した結果、コーニング社がひかりファイバーの製造に成功した。西沢が特許申請して6年後にアメリカで特許が成立した。日本の特許庁は西沢の特許を拒否し続けた。
ピアース研究部長




1985年には、北海道から鹿児島までの日本縦貫光ケーブルが完成した。1990年当時、北部九州での光ネットワークKARRNの推進運動には、わたしも参加したので、思い出が沢山ある。

しかしその後40年近くの間に、携帯電話の普及やスマホの普及で、電波通信基地がひろがり、電波周波数もラジオのKHz時代っからFMや光通信のMHz時代をこえて3K,4K,5Kの時代になり、光通信との割合がどう変化しているのか解らなくなってきた。
私も去年まで自宅に光回線をひいていたが、現在老人ホームではポケット WiFiを使用しているので、身近に光ケーブルは無くなった。同じ状況の方も多くなったようである。
そこで、第5世代移動通信システムである5Gと今後のWi-Fiや光通信の必要性について、ネット検索してみた。
5Gの登場で、飛躍的に高速通信・同時接続・低遅延がより改善するとされているが、それでも屋内の通信環境として今後もWi-Fi環境や光回線は必要であると言えそうだ。
むしろ5Gによってより快適なインターネット通信が可能になるなかで、その補完をすべく、高性能Wi-Fiや光回線の整備が必要になるかもしれないとされている。光回線の消滅はなさそうだ。


2022年6月22日水曜日

箱崎4丁目のJR操作場の下の地下道

 箱崎4丁目のJR操作場の下に、図の赤線のような地下道がある。現在は殆ど人が通らない道で、若い人に不思議がられている。

舟入場の周辺は、埋め立て補償の土地として、箱崎漁協の土地となり、漁業の作業や海苔の乾燥場所として利用されていた。
S46年に、そこの一部分をJRが分譲を求めてきた。博多臨港線の計画である。
危険性や騒音問題や交通不便や土地評価の低下などで、反対意見が強かったが、3年間の交渉で、JRへの分譲が決まった。その条件の一つとして、舟入場からの地下道が設けられた。漁具や漁獲物を運ぶリヤカー道である。現在は漁業者も減り、自動車利用が増えて、殆ど利用されなくなっている。



2022年6月19日日曜日

日向の飫肥城 と曽我兄弟と犬房丸

飫肥城門

 工藤祐経の子・犬房丸は、九歳の時に父が曽我兄弟により敵討ちとして殺害された際に泣いて訴え、源頼朝が助命を考えた曽我五郎時致が処刑されるきっかけになったといわれている。

犬房丸は後に工藤の本家の伊東家を継ぎ、伊東祐時と名乗り承久の乱で活躍する。
その子孫は日向に移り、島津氏に服属する形で勢力を拡大した。工藤祐経は源頼朝から日向の荘園を恩賞として与えられるなど、もともと地縁はあった。
 室町時代になって島津氏が一族の内紛で混乱すると島津氏から自立し、300年に渡り島津氏と日向支配を争う。
戦国初期になると、ますます隆盛になり、伊東義佑の時代には、ほぼ島津氏を追い出して日向の支配権を固める直前までいくが、好事魔多しで木崎原の戦いで義佑は3000の大軍を率いながら、戦争の天才若き島津義弘の300の小勢に大敗し、伊東氏は一気に衰亡の道を転落していく。
常勝島津四兄弟に追われて大友宗麟を頼るも大友氏も耳川で大敗し、伊東氏の敗亡は決定的になる。

 義佑の息子佑兵はわずかな家臣と共に四国、近畿を流浪し窮乏するが、播磨まで流れたところで秀吉に取り立てられ、山崎の戦いを武功をたて、秀吉の九州征服戦では案内役として活躍、旧領のうち飫肥を回復し、その後関ヶ原の戦いでも東軍に属して生き残り、大名として明治維新まで続き、維新ではかつての敵島津に味方して官軍となり、子爵となっている。

飫肥城跡の歴史資料館には工藤祐経から続く伊東氏の歴史が展示されている。
今年9月25日まで、『鎌倉殿の13人』に合わせて工藤祐経について紹介する企画展が行われている。
かつて『曽我物語』が巷間で人気を博していたころ、飫肥や伊東氏の領内ではお殿さまのご先祖が悪者ということで大っぴらには楽しむことはできなかったのかもしれないが、今は堂々と楽しめるようだ。
飫肥城下町





日向の飫肥城 : ふるさとナビ(fujino@古賀) (exblog.jp)

2022年6月18日土曜日

カレーライスの話。

  カレーライスの話。

 カレーライスといえば、海軍カレーが有名です。佐世保だ、舞鶴だ、いや横須賀が海軍カレーの発祥だと、本家と元祖の争いのようだが、実弾が飛び交うわけではないので、こういう論争は楽しい。
 東郷平八郎がビーフシチューが好きで、そこから肉ジャガができたの、それにカレー粉をぶちまけたからだの、諸説あって面白いです。
 洋上で曜日を忘れないために、毎週金曜日に出されたなどという話もありますが、脚気対策でもあったそうです。
 脚気はビタミンB1不足から発症するとのことですが、原因不明の時代は伝染病だのなんだのと恐れられた病気でした。この脚気については高木兼寛という海軍軍医が、欧米の船乗りに脚気が少ないことに気づき、もしかしたら、主食の違いなのかもとひらめきました。パンとメシの違いは小麦か米か、です。
 高木はイギリスから廻航する軍艦の乗組員には、強制的にパン食にして実験まで行いました。結果、麦食が脚気予防と発見したのです。
 しかし、明治時代の兵隊の軍隊での楽しみは、白いご飯が食べられることでした。麦メシはいやだ、ということで麦飯でも食べやすく食欲が湧くものとしてカレーが推奨されました。
 今では、栄養過多の時代ですから考えられない話ですが、その栄養補給が海軍カレーとして定着するのですから、面白いなあと思う次第です。
 風聞では日本人で最初にカレーを食べたのは山川健次郎だそうです。明治4年、アメリカ留学の際、船の中でメシが食いたいと思ってカレーライスを注文したとか。
 高木も山川も、東京の青山霊園に眠っています。
 あの世で、カレー論争をしている様を想像すると、おかしくなります。

浦辺登

2022年6月16日木曜日

坂本竜馬の最後

 昨日のテレビで竜馬暗殺の場所となった近江屋の話をみた。暗殺の犯人は佐々木只三郎率いる見回り組で,主犯格は組頭の佐々木。他に今井信郎、渡辺吉太郎,高橋安次郎,桂準之助,土肥仲蔵,桜井大三郎らがいたという。

計画指揮・主犯格は組頭の佐々木只三郎だが,残念ながら佐々木は先の鳥羽伏見の戦いで戦死しており、維新政府により取り調べられた今井の名前が有名になっている。
暗殺の危険性の少ない土佐藩邸や薩摩藩邸を宿にしないで、近江屋を宿に選んだ理由は、交渉の自由度だったという。結論は楽観論者だった竜馬の油断とされた。



坂本龍馬の最後のねぐら近江屋の前のねぐらで龍馬が居た部屋階はギャラリーになっている。



2022年6月15日水曜日

オンラインでのテレプレゼンス技術の向上

コロナ社会の到来で、パソコンによるオンライン教育やオンライン会議などが普及してきた。

このために、遠隔地への情報伝達の技術的なレベルを向上させる研究が行われている。

遠隔実在感の分析内容

卑近な例では「モナリザ効果」というものがある。


モナリザの顔の絵を、正面からみても、右側からみても、左側からみても、いつもモナリザはこちらを正面からみつめているので、圧迫感をかんじる。
パソコンでも、一対一でパソコンについているカメラ目線で対話をしていると、このモナリザ効果があらわれて、目をそらしたくなる。

わが家でも、長電話の好きな家内でも、パソコンオンラインでは、あまり長くはつづかな。

テレビ局では、1カメラ、2カメラ、3カメラなどの切り替えで、対談の間に空間性、時間性などの切り替えを行い、モナリザ効果をさけている。

オンライン対話でも、パソコン以外に別のカメラのを設置して、随時に画像を切り替えると、良い効果が得られる。


さらに周辺をプログラム指示で動け廻れるロボットカメラを利用する研究も行われている。


さらに室内ドローンカメラによる自由な空間移動の模索も行われているようだ。

検討される項目は多数存在する。



筑前勤王党の早川勇



 



筑前勤王党の1人:早川勇


筑前国遠賀郡(現在の福岡県遠賀郡虫生津)の苗字帯刀を許される庄屋嶺家の三男に生まれ、医師の早川家に養子に出て医師となる。

月形洗蔵の父・深蔵の塾で学んだことで月形と知り合い、尊王攘夷思想に感化される。

禁門の変の後、三条実美たちが長州へと落ちるときに随従していた中岡慎太郎と長州で知りあい、早川の仲介元治元年12月4日1865年1月1日)に西郷隆盛、中岡の会談へと結びつく。

さらに、同年12月11日1月8日12日9日)という記録もある)に早川、月形の斡旋で西郷、高杉晋作の薩長同盟の会談が実現する。

西方浄土筑紫嶋: 薩長同盟に関わった人々(改訂) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

ここから、長州にいた三条たち五卿は元治2年1月14日(1865年2月9日)、筑前大宰府延寿王院(現在の太宰府天満宮境内にある)に移動を開始した。

西方浄土筑紫嶋: 五郷の筑前西遷の旅程と遺跡 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

その後、早川、月形たち筑前勤皇党藩政を乱したとして月形は斬首、早川は幽閉となった(乙丑の変)。

明治に入ってからは、奈良府判事や元老院大書記官などを務めた。


早川勇の妻ミネは、筵内村(現在の古賀市筵内)の酒造業安武家の娘であった。このことは近年宗像の郷土史研究家が、矢野家の所有文書を調査されて判明したそうだ。

また、私の友人である嶺勝敏氏は、九州工業大学や九州共立大学で教授をつとめられたが、遠賀町は、虫生津在住である。早川の生まれた庄屋嶺家の子孫であろう。文書など残っているいるかもしれないので、健在ならば連絡してみよう。
さらに、わたしの九州工業大学時代の教え子、嶺ひとみさんも祖先は遠賀町虫生津で、祖父は地元小学校の校長を務めていたそうだ。ただ早川勇との関係は知らなかったそうだ。




2022年6月13日月曜日

二つの月

 10年ほど前に亡くなった友人の画家中尾君の「二つの月」という題名で、1972年の作品。

米ソ対立の世界を現した抽象画である。
そのなかに何故が七つの歯車らしきものが描かれている。現在の
G7をすでに予想していたのだろうか?


鵜殿一族と九州の鵜殿石仏群

 大河ドラマどうする家康でも、今川義元の武将の鵜殿長照が登場しました。

今川氏家臣の鵜殿氏の城は、愛知県蒲郡市 上ノ郷城です。三河平定を目指す 徳川家康の攻撃に合い落城 城主 鵜殿長照は 討死にしております。徳川方の服部半蔵が活躍した城です。


永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦い以前から、大高城の城代に任命されていた。大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられ、兵糧枯渇の窮地に立たされていた。長照は城兵を鼓舞し、山野の草木の実を採取して飢えを凌いだと伝わる。

桶狭間の戦いの前哨戦となった松平元康(のちの徳川家康)の指揮による兵糧運び入れが賞賛された。その後本戦で義元が移動の小休止中に織田信長によって討たれると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っている。

今川氏からの自立・決別色を強めた松平氏と今川氏に仕える鵜殿氏は三河国内の支配を巡って敵対していく。
永禄5年(1562年)には松平氏からの攻撃を受け、先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、上ノ郷城は陥落、父の長持と共に長照は戦死した。

この戦闘の際、子の氏長・氏次は捕らえられ、駿河国にて今川氏の人質となっていた家康の妻・瀬名姫(築山殿)(今川氏親族出身)、嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの人質交換が行われた。

鵜飼、鵜沢など姓名は多いが、鵜殿姓は少ない。鵜飼の盛んな地方の駿府や遠州には多いのだろうか。
私が通っていたリハビリセンタに一人鵜殿さんが居られたが、もう退職されている。佐賀、長崎に少しある姓名のようだ。

鵜殿石仏群(うどのせきぶつぐん)が、佐賀県唐津市相知町天徳に存在し、県指定史跡である。むかし見学したことがある。
大同元年(806年)に刻まれたといわれ、十一面観音を中心に持国天、多聞天、不動明王など、密教の色彩がつよく感じられる。
相知町鵜殿窟(うどのいわや)と称される断層岩壁に彫刻された磨崖仏(まがいぶつ)群。かつてはその中に平等寺が建立されていたが、お寺は焼失し、今では石壁だけとなった。戦国時代よりはるか昔のことである。鵜殿一族との関係が知りたいものだ。



古賀氏のルーツ

 福岡や佐賀には古賀姓の政治家や医者が多い。

昨日の玄海義塾では、1338年に古賀浦の地頭職になった少弐氏の子孫が、初めて古賀氏を名乗り、その後少弐氏と共に戦国時代を闘い、肥前国にのがれて、1559年ころ滅亡したという話をきいた。
大分市在住の医師古賀家に伝わる系図から判明したようだ。
古賀浦という場所は花鶴川の河口付近と考えられ、古代は鹿部山の麓まで大きく入り込んだ港であったが、平安、鎌倉までは、布津留、華津留、華鶴、花鶴と呼ばれていた。
古賀氏の墓や仏閣が現在の古賀地区に残っていないか、今後の調査が必要だ。