幕府は、禁門の変ではじまった第1次征長軍を解体する条件の一つとして、長州にいた三条ら五卿の九州西遷の指令をだした。
この時期は黒田藩も勤王派が優位で、加藤司書が西郷と組んで長州をなだめ、月形、喜多岡、早川らの志士が長州に繰り込んで、五卿や諸隊を説得して、やっと慶応元年1月14日に五卿は筑前にむかう。
警備は九州五藩がおこなう約束であったが、久留米、肥前、肥後は敬遠気味で、主に黒田と島津の両藩で警護した。
馬関(下関)より舟で、黒崎湊(八幡西区船町)に上陸した。長崎街道黒崎宿の近くで、五郷上陸地の石碑がある。
また黒崎宿の桜屋跡や、近くの岡田宮には、三条実美の歌碑も建っている。
そのあと、五卿は唐津街道赤間宿の黒田公別邸の赤間御茶屋(赤間館)に1月17日から2月11日まで滞在した。
ここには三条をはじめ、五卿が詠んだ和歌や早川勇の書簡などが沢山保存されている。
赤間館は図の中央部 |
赤間館の現在 |
赤間宿は城山(じょうやま)のふもと,緩やかな坂道の両側に開けた宿場町。
12日に赤間をでて、青柳をへて箱崎の御茶屋に1泊し、翌日大宰府に向かい、延寿王院に13日夕に到着した。
わが青柳宿には送迎の藩命がでて、昼間の休憩がおこなわれた記録のみで、碩碑などなく、説明板にも記載がない。
八幡西区舟町7-10 |
赤間の五卿西遷の碑 |
大宰府延寿王院 |
五卿はその後慶応3年12月まで、約3年間の大宰府滞在となるが、黒田藩はダイナマイトをかかえこんだ状態となりる。
大宰府周辺には、延寿王院前の七卿記念碑、五卿遺跡の碑、二日市温泉の三条実美歌碑、三条西季知の歌碑などが多く存在する。
倒幕派の西郷、桂、高杉、中岡、伊藤らが集まり、五卿と協議をするようになり、幕府から黒田藩に威圧がかけられて来た。
黒田藩はついに五卿到着の4ヶ月後に、有名な「乙丑の変」で、加藤司書らの勤王派を多数処分した。
このため黒田藩は、薩摩・長州とはなれ、譜代藩とおなじ佐幕派となり、明治維新の脱落者となった。
五卿の遺碩(西高辻邸) |
今度の大河ドラマで、五卿西遷や加藤司書などがどれだけ取り上げられるかどうか、もうすぐわかる。全国版の幕末史の本では、あまり書かれていない。
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