2024年6月9日日曜日

筋肉・筋力の衰えを回復する方法

高齢者は足腰の筋肉が衰えて、運動しにくくなる。

これを回復するための要点を、TVで報告していた。

1)筋肉はタンパク質でできている。タンパク質を含む食料をたべる必要があることは基本である。

2)さらにロイシンという物質が必要で、これを一日三食、一食2g、合計6gとると、筋力がふえる。 朝食だけでは分解がすすんで、効果が消えてしまう。





ロイシンをふくむ食料の一覧表は下記のとおりである。


3)筋力を増やすには、紫外線にあたる必要がある。

手のひらだけに、1日20分ほど日光浴をすると、1日に必要なビタミンDの量を捕らえることができる。顔や皮膚の日光浴はシミなどの弊害をおこす。



4)筋肉をつかった運動を定期的に行うことが当然必要である。
両手に、水の入ったペットボトルをもって、踏み台昇降運動を1日3回、
毎食前に5分程度行うことが、最低限必要である。
このスタイルで、室内や家のまわりを歩くのもよい。
5)つま先立を1日の午前中に50回行うのもよい。
6)買い物なども徒歩で出かけよう。


7)70~80歳で、椅子に座り、立ったり座ったりを5回を、8秒以内に出来ることを目標としよう。

高齢者の転倒防止のリハビリ運動では、つま先立運動が取り入れられる。足の指によるバランス制御が、転倒防止に必要だからである。
昨日の広島大名誉教授新小田先生の話では、脳梗塞で足の制御が不能になった患者さんの足は、つま先だった形になっているそうだ。



馬と人で、脚部分の骨格をくらべると、馬のほうがつま先たっていることがわかる。
人間も原始時代は、馬などの四つ足時代があった証拠であろう。



2024年6月5日水曜日

「大学」

 Bing 動画

「大学」とは、中国古典の中の四書五経の中の一典です。

上のYOU TUBE(Bing 動画)でも解説されています。

二宮金次郎が薪を担いで読んでいる本が「大学」と言われております。
江戸時代の寺小屋で一番最初に教わるのもこの「大学」からとのことです。

古賀の「玄界義塾」でも、毎回「大学」を朗読しています。

その中の「伝七章」に、
「心ここにあらざれば、視(み)えども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず。」 とあります。
何ごとも気に留めていなければ、見過ごしてしまうものです。
ビジネスの世界ではいつでも、目配り気配りしていなければ、
お客様に失礼をします。
また、新聞を読んでいても、いつもあちこちに、目を配っていなければ、大事な記事を読み落して
しまうことにもなります。

目配り、気配りとは「心の置き所」を言うのであります。
クレームの原因はすべて
「心ここにあらざれば、視(み)えども見えず」
からきております。

耳も味も同様に、気配りが大事です。

目も耳も舌も悪くなった老人は、消え去るのみですが、老については書かれていません。

2024年6月2日日曜日

政治家のパラドックス(paradox)

 パラドックス(paradox)とは、正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる。 

核保有国は、「相手は大都市を破壊する戦略核までは使用しない」と確信して、人工密集地を避けた戦術核は使えるという逆説にたどりついている。

戦略核は安定、戦術核は不安定?

英国は、「選挙に勝てば、何をしてもいいから、選挙に勝つためには、何でもする」の、選挙独裁から、EU離脱まで変貌した。

中国は、経済苦境を脱するために、外国からの投資がほしいのに、習政権を守るために、外国企業やその投資家の監視や統制を強める方向に逆行している。

日本は、政治資金規正の厳格化では、目先を変えて批判の風化をまつため、あいまいな基準で、審査を捜査当局にまかせるような仕組みを模索している。

2024年6月1日土曜日

赤穂浪士の処分経緯

 去年の12月に玄界義塾で土師先生から忠臣蔵の講演をきいた。

吉良上野介の首を泉岳寺の浅野家の墓にとどけた赤穂浪士は、その後、高輪泉岳寺に近くに江戸屋敷があった4大名の屋敷に、赤穂義士は分配して預けられた。

(細川家:熊本市17人、水野家:岡崎市9人、毛利家:長府市10人、松平家:松山市10人)

泉岳寺の墓所でも、その順序で墓が並べられている。



土師先生の話でも、細川家だけが義士の除命嘆願を幕府にだしたことを聞いたが、昨日の「英雄の選択」では、細川家だけが、義士を英雄扱いで待遇し、他の3家は「罪人扱い」の待遇で預かったそうだ。
当時の庶民が作った川柳は、「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ 濁れる」

と、水野、毛利、松平を、批判している。
 




細川家の預かり担当の堀内伝衛門が、大石内蔵助をはじめ全員に親切に対応し、討ち入りの計画や討ち入り合戦の内容を詳しく聞き取って、覚書を作成しており、赤穂市の歴史博物館に保管されているそうだ。


最終的に、赤穂浪士は全員切腹となり、吉良家も断絶の結果となった。