2014年9月27日土曜日

黒田騒動の実態(改訂版)

先日九州大学の木島孝之先生の「黒田騒動とは」という講演をきいた。
実際は森鴎外の小説に描かれたような忠臣栗山大膳の物語ではなく、本格的な分裂騒動だった。
21歳で家督を相続した忠之藩主及びその新参出頭人衆と、古参の大身家臣団との根深い対立が10年つづき、いろんな権力闘争の末、栗山大膳暗殺計画がすすめられた。
栗山側はこれを察知してお家存亡をかけて、城内自邸(三の丸)に立て籠もり、忠之を「天下への謀反の罪状」で公儀へ上訴した。
栗山側には本拠地の麻天良城への立て籠もり計画もあったが、これは謀反とみなされる恐れがあり、城内自邸への引きこもり策をとったという。
一方忠之側は大膳の武力討伐の許可を公儀へ申請したたため、公儀裁定の事件となった。
栗山側は三の丸自邸に700人の兵士、鉄砲200丁、大筒6丁を備えて対抗したので、忠之側は2,3度包囲したが、突入までは出来なかった。
忠之側が突入を強行すれば、城外への発砲などで博多の街まで戦火が及び、黒田家の取り潰しになるおそれがあったからだ。
これらの記録は黒田藩にはなく、隣の小倉細川藩の密偵が探った記録に残っているそうだ。
福岡城の地図
右(東)側の突出部が三の丸で、栗山側の拠点。規模は東西123m、南北95m。北・東・南の三方は幅50~120mの水堀に囲まれ、西側だけが石垣で本丸側と隔たれていた。(もと裁判所のあった場所)

盛岡藩預かりの身となった大膳でしたが、幕府から生涯150人

扶持ふち 、五里四方出歩き自由とされ、南部家からも厚遇さ

れた。大膳は茶の湯にも造詣が深く、盛岡城下の文化興隆に

寄与したといわれている。

官兵衛が死に臨み利安に長政を託して下賜した「 ぎん 白檀

びゃくだん ぬり 合子ごうす なり かぶと 」が、もりお

か歴史文化館に保存されている。現存する官兵衛唯一の兜で

ある。

注)森鴎外は、大正14年の「歴史其儘と歴史離れ」といういう随筆で、

「栗山大膳」の作品の経過をのべている。

【執筆当時は健康がすぐれず、また多忙だったため、単に筋書きをしたためた

のみの物になっている。

それで太陽の某記者に渡す時、小説蘭に入れずに、雑誌様のものに交ぜて出して

もらいたいといった。某はそれを承諾した。

さてそれが例になく私の校正を経ず太陽に出たのをみれば、総ビルを振って、

小説蘭に入れてある。

殊にそのビルは、数人手分けでして振ったものとものと見えて、二、三頁ごとに変

わっている

鉄砲頭が、鉄砲のかみになったり、左右良の城が、さうらの城になったりした処

もある。

「栗山大膳」は、森鴎外の正規の作品ではなかったようである。


栗栗山家ゆかりの子孫の話 白木大五郎

白木家ご先祖、栗山備後利安は、小生の遠いご先祖様に当たります。

そもそも白木家のご先祖様は、越前福井の国主、朝倉義景の弟、朝倉景遠(越前國細呂木3万5千石)ですが、織田信長に一乗谷の戦いに破れ、越前福井白木谷に落ち延び姓を白木と改めました。白木家三代目の白木甚右衛門は、更に信長の追手を逃れ、叔母が嫁いでいる備前岡山の黒田家家老の栗山善助(後の黒田藩筆頭家老、栗山備後利安)に禄高三百石にて使えました。その後、縁あって備後利安の次女を娶り栗山家一門となりました。
備後利安の死に際しては、事前にお許しを得て、即日殉死(切腹)。白木甚右衛門のお墓は、福岡県朝倉市の備後利安の菩提寺「円清寺」の墓所に備後利安と一緒に並んで祀られています。
因みに、小生は、白木家15代目に当たります。




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