2021年8月29日日曜日

黒田官兵衛と石垣原戦

 NHK英雄たちの選択「もうひとつの関ケ原」をみた。

黒田官兵衛は、長男長政の嫁を家康養女とし、東軍につかせて出兵しているから、東軍につくのが当然と思われる。
しかし内心では、東軍につくか西軍につくか再度選択する場面である。
まず金銭で3800の武士をあつめ、地元百姓も4000ほどあつめて、中津城周辺の領地を制覇した。

当時の九州の武将の勢力地図はつぎのとおりで、秀吉による九州統一後の配置図だから、西軍支持が多い。

ここに細川忠興が東軍につく武将として出ているが、本拠地は丹後であり、湯布院に5万石の飛び地があり、家老が駐在していた。



そこに石田三成の支援をうけて、大友義統の軍が、杵築城周辺に上陸したので、細川の家老たちは黒田に救援を要請した。


黒田官兵衛の妻や、長政の妻は、伏見の邸宅にいて、三成の手配した部下に監視され逃げ出せない状態であった。数日後近くに火災が発生し、監視の部下がそちらに駆け付けた隙に、栗山大膳や後藤叉兵衛らが助けだして、脱失できた。
奇しくもその火事は、細川ガラシャの邸宅の火事であった。


この二つのことから、黒田官兵衛は東軍参加を決意し、西軍よりの城を一斉に攻略し、石垣原の大友軍との決戦に臨んだ。


黒田官兵衛は実相寺山の西側に本陣をおいて対戦した。
        (以前この史跡あとを巡ったことがある。)






黒田軍は井上九郎衛門などの活躍で勝利し、大友側の武将吉弘統幸は討ち死にした。
(統幸は立花宗茂の従兄弟であり、叔母が義統の妻である。また井上と吉弘は旧知の仲であった。)

石垣原の合戦で討ち死にした大友軍の武将吉弘統幸の墓と辞世の句碑が吉弘神社にある。吉弘氏は高橋紹運の生家である。






大友義統が黒田に降伏するとき、母里太兵衛が交渉役になった。彼の妻が義統と兄妹だったからだ。このような人脈の話は少なかった。

大友軍を倒したあと、関ケ原から逃げて帰国した立花宗茂を、加藤、鍋島と共同で降伏させて、宗茂を先陣にして薩摩攻撃にむかったが、家康の停戦命令ですべての戦が終了した。

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