2021年11月15日月曜日

古賀市 小竹地区の史跡


戦国時代の前岳(古賀市と新宮町の境)は,小さな山で「小岳」と呼ばれる。
江戸時代初期の「正保郷帳」には「小岳村・三百六石高」と記録される。
「元禄国絵図」(1700年頃)には「小竹村」とあるが,前岳には竹が密生していたことから、「岳」を佳字の「竹」に変え、小竹村としたとある。

明治時代初期では香椎・新宮グループの大枠に所属していた。明治22年の町村制改正により、青柳村、小野村、席内村が出来るときに小竹地区は青柳村に編入された。
江戸時代の小岳村



七俵遺跡(七俵公園跡)
弥生時代から古代、中世までの各種の土器と、中世の刀剣の部品などが出土したそうだ。
この場所に昔、千眼寺(または千龍寺)という古寺があったから、いろんな土器がでたらしい。
千眼寺は、三代の祥雲寺と兄弟寺で、浄土宗であったようだ。地元の篤農家の徳永さんは千眼寺の出と聞いている。
最近は住宅地になっている。
(現地に史跡の表示はない。)
七俵遺跡発掘調査

瓜尾・梅ケ内古墳群
古賀市と新宮町の境の丘陵にある古墳群である。6世紀後半~末頃と思われる30基を超える古墳があった。平成3年度から8基の古墳(15号~22号墳)を調査した。それぞれの古墳からガラス玉、水晶玉、鏃等が発見された。
(現地に史跡の表示はない)
瓜尾・梅ケ内古墳群

小竹古墳

前岳の西斜面にある古墳で、私有地にあるため、正式には調査されていない。私が計測した図面と写真をしめしている。

葉山古墳、コゾノ古墳の名前が文献にあり、そのどりらかであろう。



篠林古墳
最近、篠林地区開発で、前方後円墳ではないかと調査されていた遺跡は、二つの円墳が接近しているものと判明した。
この地区で五つの円墳が発見されたそうで、新たな遺跡として登録されるはずだ。しかし跡地は物流センターとなるので、小さな石碑がたてられる程度だろう。
篠林古墳

三郎天神

私の家から一番近い神社は三郎天神社である。歩いて5分くらいである。古賀市小竹の古くからの農家がならぶ通りの、一番山手の小高い丘の上に鎮座ましている。周辺は新興住宅地として開発されて、住人は増えたが、この通りの人だけが神社のお世話をされているようである。
春と秋には祭りの旗がかかげられるし、正月元旦には参拝者にお神酒がだされる。たまにお篭りの行事などが隣組の回覧板で案内されるが、新しい住人は殆ど無関心で、ひまな私がでかけても、なかなか溶け込めない雰囲気である。

三郎天神

須賀神社
石瓦地区の丘の上にある神社で、由緒書きなどがみつからないので、祭神はスサノオノミコトという。
同名の神社が、新原、筵内、米多比にもある。

境内には、石瓦大師堂もある。
須賀神社

常岡氏の石碑

古賀市小竹の公民館前に常岡源吉翁の顕彰石碑がある。明治20年代はじめに糟屋郡青柳村で養蚕業の創業に貢献した人物である。青柳村史や古賀町誌にも記載されている。
石碑の裏面には、「当時栽桑、養蚕の法拙なるを概し、明治21年単身郷里を出て、信州の各地を遍歴し刻苦研鑽、大に得るあり。22年帰来卒各種の範を示し特に信州式蚕座を用い飼育の改良を図る等此業に一新面を開けり。爾来蚕業俄然として各村に普及し、以って今の盛を致せるもの実に翁の啓示に負う所少なしとせず。是より先海外に渡航し、不幸米国に客死せり。嗚呼可惜哉。」と翁の業績を讃えている。米国の市場開拓まで手がけたのであろう。
石碑の書は勲一等侯爵黒田長成とある。黒田藩最後の藩主長愽の子で、慶応3年生まれ、幼名は幸千代、明治7年に長成と名乗り、号は桜谷。
ケンブリッジ大學に留学し、黒田家を継いで侯爵となり、明治25年から昭和14年まで、貴族院議員を務めている。
福岡では修猷館の第3代館長を務めている。名筆家として知られ、県内の著名な石碑にその書がみえるが、小竹にその書の石碑があるのは光栄である。

常岡氏顕彰碑

動物愛護センター

古賀市には県の施設の動物管理センターが20年前くらいに建設された。

最近はその名称が動物愛護センターと改められた。
保護した動物を一定期間保護して、希望者に渡したりするように変わったからだろう。
門扉の両側の表示板は、赤い大理石で昔のままで、金属板のものだけが張替えられているのは、何となく実態をあらわしているようだ。 
「お役所言葉」には、いまだに「官尊民卑」の残骸が残っている。

動物管理センター

席打駅家推定地

古代交通路の席打駅は、現在の地名から、筵内地区とする説があるが、
先行研究によれば、席打駅家推定地は「八反田の古瓦」の記録をもとに(浅島武幹編1940『青柳村誌』)、古賀市八反田付近とみる意見が主流である。福岡県分布地図 には八反田近隣に「踊ヶ浦廃寺」が登録されている。

また、南の青柳篠林地区遺跡では 7 世紀後葉〜 8 世紀の掘立柱建物群を検出した。駅家を管理経営する駅戸は駅家の近隣に集住したとみる意見があり、駅戸集落の可能性も考慮すべきだろう。

官道推定線は三本松山(名児山)の東を通るルート(木下説)の方が平地で、新宮町立花口「佐 屋」、古賀市青柳「才崎」など、塞の神地名がある。

古賀市には、塞の神地名として、左谷(筵内)、左谷(久保)、社ノ元(米多比)、さやのもと(小 山田)、佐谷元(青柳)、才崎(青柳)才木(小竹)がある。

小竹地区の字名


 古賀ではサイ、サエをサヤと発音したようだ。 社の元(米多比)さやのもと(小山田)佐谷元(青柳)佐屋(久保)左谷(筵内)には「さえのかみ」を祭っ たあとがある。

 「サヤ」、「サヤノマエ」は、疫神悪霊の侵入を防ぐために、峠や村境に塞の神が祀られていたことに由来 する。

青柳の小字才崎は、席打駅家推定地付近を通る官道に関わる地名の可能 性がある。

官道想定ライン

青面金剛像

享保3(1718)年の石像で、三眼六臂の立像。小竹集落の中にある。

青面金剛は帝釈天 たいしゃくてん の使者の金剛童子。 身体は青色で、 六臂 ろっぴ または二臂、四臂、目は赤くて三眼で、怒りの形相をとる。 病魔を退散させる威力があるとする。 後世、道家の説が加わり、 庚申 こうしん 待の本尊とする。

この地区の農家には、立花城周辺の合戦で戦死した武士たちの甲冑らしいものが保管されているらしい。その慰霊の石碑を兼ねているかもしれない。






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