私が古賀の郷土史に興味を持ち始めたのは、昭和から平成に変わった頃からである。職場も北九州から九州産業大学にかわり、地元に知人が増えたことも影響した。
その中で、古賀が聖徳太子と縁があると知ったのは、平成10年の郷土史会で長崎初男氏が、谷山銅山と京都妙心寺の国宝の鐘の関係を話され時からである。
その後このテーマにとりつかれ、図書やネットでの調査と、奈良や兵庫の史跡をたずねたりして、私なりの意見をまとめて、旧職場のOB会の冊子に投稿したのが平成12年である。
さらに郷土史会で調査研究を続けて、はじめて研究成発表冊子を発行することにして、その1節にこの内容を記載したのが、平成17年である。
昨日は福岡大学の桃崎祐輔教授が
「船原古墳の馬具からみた聖徳太子時代の糟屋屯倉」
という題で講演された。
その結論のひとつとして、船原古墳の埋葬者の候補の一人として、聖徳太子の弟の、来目王子が考えられるといわれた。
私も糸島の来目王子の墓を訪ねたことがあるので、非常に興味をひかれた。
長崎氏や私の説は、文献史学的なものであり、当時は船原古墳の馬具出土前だが、桃崎氏の説は、さらに馬具出土結果から、考古学的裏付けをされた説なので、非常にレベルの高いものだ。
とくに出土品のなかで鳳凰をデザインした花形杏葉が、奈良県珠城山3号墳のものと酷似していることが、奈良と糟屋をむすびつける証拠となるようだ。
また同種の馬具の分布が、壬生部の分布と密接に関係していることを、膨大な資料から導いて、物部が滅びたあと、蘇我氏と親しかった上宮王子家や舂米部、その壬生部などが糟屋屯倉の管理者になった可能性をしめされた。
聖徳太子や山背大兄王の背後の壬生部(みぶべ)の本拠地があったのは、東三河ということは承知していたが、秦氏までがそれを管轄する立場にあったと考えると、非常に広範囲になるのだ。
馬具の出土した船原古墳の近くの谷山神社地区には、仁部家が多くあり、壬生部とのつながりがありそうだ。
糟屋、古賀地区は磐井の乱後に、物部氏→大伴氏→膳氏→舂米氏と支配勢力が変化した考えれば、長年聖徳太子一族との関係を探してきた思いは、桃崎先生の説で一層強いものになった。
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