2025年5月26日月曜日

天安門事件(改訂版)


「天安門事件と私の体験」 

九州工業大学時代に、私の研究室に重慶の大学の助教授が、留学生として1年間滞在していました。(昭和63年:1988)

彼が帰国後、1989年に重慶の大学でのロボット工学の講義依頼の手紙がきました。

日本の夏休み中なら可能と返事をしていましたが、6月4日に天安門事件が発生し、当然講義は中止でした。

しかし9月頃になって、今年中に是非実施したいという要望が届き、12月に1ヶ月間実施しました。

当時は訪中する人も殆どなく、空港やホテルもガラガラで、どこも歓迎ムードでした。

重慶では、大学や工場などでも歓迎され、日本企業の生産方式を学びたいという意欲が感じられました。

だから、次の論評には、大きな違和感をおぼえます。

「 Yosihiro Turusaki 」

中国における反日教育の犯人は『江沢民』 

中国の反日教育目的は「天安門事件」を中国歴史から消す事です。
 では中国反日教育は一体いつから始まったのか?
まず知っておくべきことは、中国歴史教科書の近代史に関しては完全にデタラメ、捏造です。
中国近代史は、中国共産党が大活躍して、現在の台湾『国民党軍』や『日本軍』を撃滅した、というものです。
このような、反日教育を中国は、1980年代『江沢民』政権以降に行われていました。

(1978年に鄧小平が、最高実力者になり、1979年と国交正常化。)
しかし、江沢民政権以前は、中国では反日教育は行われていませんでした。

むしろ中国建国の父と言われた『毛沢東』は
「日本の皇軍のお陰で国民党軍に勝てた」
と語ってた記録が残っています。
江沢民政権が反日教育を始めた理由は諸説ありますが、一番の要因は、何と言っても
 「天安門事件」
です。
天安門事件とは、1989年4月中国学生らが北京の天安門広場に集結し、大規模な民主化要求へと発展。共産党指導部は学生運動を「動乱」と断じ、戒厳令を布告。
軍の部隊を投入し、武力で制圧した事件です。
国当局は死者を319人と発表しましたが「少なくとも1万人以上」と言われています。
この天安門事件当時の中国指導者が江沢民でした。(?)

この事件の後、人民の不満を共産党からそらすために、過去の日中戦争の相手である、日本を悪者にして中国人民の目を日本に向けさせた政策を行ったのが、江沢民です。

(事件当時の最高指導者は鄧小平でした。苦渋の決断で学生を弾圧。
 江沢民が総書記になるのは1989年、国家主席になるのは1993年。)

さて、中国の首都、北京で民主化を求めた学生らの活動が武力で鎮圧され大勢の死者が出た「天安門事件」から6月4日で今年は36年です。
その後の中国政府は徹底した言論統制を続けていて中国の若い世代では事件を知らない人も多くなっています。

私が事件の半年後に、重慶にでかけた時も、現地では殆ど知られていないようで、全く話題に出ませんでした。
大学には、学長の上に共産党幹部が在籍している体制なので、情報管理が厳しいからでしょう。
学生たちは、楽し気にクリスマスのダンスパーティをやっていました。
その後36年たっても、同じ状態なのでしょう。


2025年5月25日日曜日

大塚国際美術館

 


最近のアンケートで、「行ってほしい美術館」は、大塚国際美術館がトップである。

私は国立西洋美術館や足立美術館には以前に行ったことがあるが、大塚や金沢など新しい美術館は、テレビでみるだけである。


大塚国際美術館設立の概要

大塚製薬グループが創業75周年事業として1998年平成10年)に開館した美術館で、西洋名画等をオリジナルと同じ大きさに複製し展示する陶板名画美術館である。

延床面積は29,412m2で、現在は2007年(平成19年)に開館した国立新美術館(47,960m2)に次ぐ日本第2位である

建築費や各絵画の使用料(著作権料)などを含め、総工費400億円

建設の経緯

1971年大塚グループ各社の相談役だった大塚正士の下に、末弟の大塚正富(当時大塚化学技術部長、)らが訪れ、鳴門海峡に面した砂浜で採取したタイルを作る事業を提案。

1973年、タイルを製造する大塚オーミ陶業を大阪に設立するが、その年に第一次オイルショックが発生して景気が低迷。受注のなくなった大塚オーミ陶業の技術を生かすべく、陶板に絵を描いて美術品を作ることを思いつき、その技法を確立。後に大型美術陶板化に成功し、その技術の集大成と大塚グループの75周年記念事業として構想から、使用許可・完成まで10年の歳月をかけ、美術館の建設・設置に至った。



鳴門市を建設場所に選んだのは、第1に鳴門が大塚グループ発祥の地であること。第2に大鳴門橋明石海峡大橋神戸淡路鳴門自動車道が完成し、阿波踊り以外に特段集客能力のない徳島県に、人の流れをせき止める『ダム』の役目がある施設を、両橋が完成する前に建設したいと考えたからであった。

建設にあたり、所在地が瀬戸内海国立公園内であるため、建設許可だけで5年の歳月をかけた。景観維持と自然公園法により、高さ13m以内とするために、一旦山を削り取り、地下5階分の構造物を含めた巨大な建物を造ったうえで、また埋め戻すという難工事となった。

展示

システィーナ・ホール
スクロヴェーニ礼拝堂

展示されている作品は、大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術によって、世界中の名画を陶器の板に原寸で焼き付けたものである。オリジナルの収集に拘るのではなく、自社技術を用いてふんだんに作品を複製・展示するという構想は、企業の文化事業としての私立美術館の中でも非常に特異な試みといえる。美術教育に資するべく、作品は古代から現代に至るまで極めて著名、重要なものばかりを展示しており、これらを原寸で鑑賞することでその良さを理解し、将来実物を現地で鑑賞して欲しい、との願いが込められている。

陶板複製画は原画と違い、風水害や火災などの災害や光による色彩の退行に非常に強く、約2,000年以上にわたってそのままの色と形で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献すると期待されている。 この特徴を生かし、大塚国際美術館では写真撮影が一定条件下で許可されていたり、直接手を触れられたり、一部作品を屋外に展示していたりする。




最上階にある部屋に展示されたモネの五点の『睡蓮』などはその性質を生かした好例である。

モネの希望であった白壁の広い空間に、天窓から太陽光が入り、昼間と夕方では、絵のイメージが大きく変化する。







昼と夕方の差





もう一つの特徴として、今は現存しない作品(修復前の、レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐』・戦火で失われたゴッホの『ひまわり』)や、戦災等で各地に分散されている作品(エル・グレコの大祭壇衝立)を復元するなどの試みも行われている。

原画が消失したゴッホの「ひまわり」

板を組み合わせることで大型化にも対応でき、ミケランジェロの『最後の審判』も、オリジナルの展示環境(システィーナ礼拝堂)全体を再現した「システィーナ・ホール」に展示されている。



5月26日、大塚製薬株式会社が吉野ケ里町の佐賀工場に新たに原薬新工場及び合成技術棟を開設されることが決まり、立地協定を締結しました。
大塚製薬さんは1984年、「佐賀は東アジアの中心」という考えのもと、佐賀県に研究所を設立されました。以来、原薬やポカリスエットなどの生産拠点、また、研究拠点として佐賀での展開を広げていただいています。

2025年5月23日金曜日

死亡間際の脳波

 死ぬ瞬間、人間は何を考えているのか? 死亡間際の脳波を分析した22年の研究例 走馬灯との関連は?

ちょっと昔のInnovative Tech

中国の河南大学やエストニアのタルトゥ大学などに所属する研究者らが2022年に発表した論文「Enhanced Interplay of Neuronal Coherence and Coupling in the Dying Human Brain」は、心停止に至る過程での人間の脳活動を記録・分析した研究報告だ。

研究者たちは、脳出血により心停止に至った87歳の男性患者の死に際の脳波(EEG)を連続的に記録した。患者は転倒後に両側の硬膜下血腫を発症し、手術後にてんかん発作を起こした。その後、左脳の活動が停止し、次いで両半球の活動が抑制され、最終的に心停止に至った。



脳波分析は4つの時期に分けて実施した。発作後と左脳活動停止後、両半球活動停止後、心停止後で、それぞれ30秒間の脳波を詳細に分析した。

 注目すべき点は、両半球の脳活動が停止した後、高周波のガンマ波活動が増加したことである。具体的には、狭帯域ガンマ波(30~60Hz)と広帯域ガンマ波(80~150Hz)の活動が、それ以前の時期と比較して2~5倍に増加した。心停止後は全体的な脳活動は減少したものの、ガンマ波の相対的な割合は依然として高かった。


さらに異なる脳波間の連携関係において、左脳のガンマ波活動は、α波とシータ波によって調整されていた。この調整は心停止後も継続していた。特に左脳活動停止時には、α波によるガンマ波の強い調整を確認できた。

 これらの発見は、臨死体験で報告される「走馬灯」現象と関連している可能性がある。健康な人の脳でも、記憶の想起や意識的な経験には、α波とガンマ波の連携が重要な役割を果たしている。研究者たちは、このような脳波パターンが、臨死状態での最後の人生回顧を神経生理学的に支えている可能性を指摘している。

2025年5月21日水曜日

AI開発の歴史(3)AIの名称からノーベル賞まで

 ダートマス大学のジョン・マッカーシー、ハーバード大学のマービン・ミンスキー、IBMのナサニエル・ロチェスター、ベル電話研究所のクロード・シャノン達が提出したワークショップ提案書”A Proposal for the Dartmouth Summer Research Project on Artificial Intelligence”(人工知能に関するダートマス夏季研究プロジェクト提案書)の中で、「人工知能」(artificial intelligence)という用語が初めて作られました


AI(artificial intelligence)と名付けたグループ

英国の脳神経学者デミス・ハサビスは、アミノ酸の配列からタンパク質の複雑な立体構造を調べるAIの開発に成功し、2024年にノーベル化学賞を受賞した。

    彼は少年期では、チェスの天才であった。

        AIによりアミノ酸からタンパク質合成の研究が解明された。
        さらにAIにより、色々の新薬の開発に成功した。




2024年にAI利用による最初のノーベル化学賞の受賞者となった。




AIは意識を持っていると主張したグーグルのエンジニアが、解雇される事件がおきた。

彼が示した人工知能「LaMDA]との会話は、AIが魂を持っているような会話であった。


2025年5月20日火曜日

AI開発の歴史(2)コンピュータの発達と人間との勝負

トランジスターの開発

 
関連機器の小型化




トランジスタが、IC,LSIとなり、さらに積層化されたチップとなり、コンピューターは小型化し、スマホまでなって普及している。



コンピュータゲームの歴史は古い。
1941にはZUSEが存在していた。




現在社会では、AIと人間のどちらが強いのかが、逐次進行してきた。

チェス、将棋、囲碁の分野で、歴史をしらべてみます。  

 ルールがシンプルで打ち手のパターンが少ないオセロは比較的早期に進化してきました。

1997年にIBMが開発した 「Deep Blue」というコンピュータが、当時のチェス世界チャンピオンであるカスパロフ氏に勝利したことは、世界中に衝撃をもって伝えられました。




2017年には、Ponanzaが第2期電王戦にて佐藤天彦叡王に勝利し、AI将棋が名人に初勝利を果たしました


AlphaGoアルファ碁、アルファご)は、Google DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラムである.

2015年10月に、ヨーロッパ王者ファン・フイ相手に互先(ハンディキャップなし)で破った初のコンピュータ囲碁プログラムとなった.

デミス・ハサビスが開発した「アルファ碁」は、2016年に

韓国のイ・セドル九段に勝利した。


敗者はAIの囲碁が創造的であると評価した。

米国のWATSONというAIは、全米最高のクイズ大会で優勝した。

AI開発の歴史(1)  初期コンピュータ開発の3人(チューリング・ノイマン・ホレリス)


「チューリング」は、イギリスの数学者。第2次大戦中、ドイツ軍の暗号解読部隊に若いころ参加した。

とても面白そうだからという理由でさんかしたが、難解であった。機械式計算機を考案し、半年かけてやっと解読できた。これでドイツ軍の潜水艦の移動状況を把握できるようになり、戦局が好転した。
もし解けなかったら、イギリスは敗北していたかもしれない。


     「エニグマ」が、チューリングが作った暗号解読機である。


これによりドイツの暗号が解読され、ドイツのUボートを次々に沈めることが出来た。


しかし彼は同性愛者だったため、逮捕され補導されたため、精神的打撃をうけ、青酸カリをのんで、自殺した。

当時一緒に暗号解読作業をしていた数学者グッドは、彼の才能を評価していて、死亡前に彼が発表していた論文を高く評価している。

その論文は、コンピューターが、単なる計算機でなく、人間の知能になることを予想した世界で最初の論文であった。




「ノイマン」はハンガリーの数学者。アメリカに亡命して、原爆開発のマンハッタン計画に参加していた。

幼少期、適当に開いた電話帳を暗唱し、ランダムに質問された氏名の電話番号を回答できたという記憶力の持ち主だった。

爆発しにくいプルトニューム239を爆破するための方式を考案し、圧力計算をして爆発実験を成功させた。これが長崎に投下されて、7万人の死者がでた。

その頃、米国で真空管方式の電子計算機ENIACが開発され、弾道計算に使用された。

陸軍の予算で、ペンシルバニア大学が10進法で開発した。






ENIACを開発したジョン・モークリージョン・プレスパー・エッカートはENIACがまともに動作するようになる前の1944年8月、ノイマンの意見をきいて、EDVACの設計と構築を提案した。
その設計はENIAC構築中に考案された多くの重要なアーキテクチャ上または論理上の改良を取り入れるもので、2進法に変更し、高速な遅延記憶装置を採用することにしていた
ENIACと同様、EDVACはペンシルベニア大学米陸軍アバディーン実験場にある弾道研究所のために製作した。エッカートとモークリーを含むENIAC設計者らはコンサルタントという立場のジョン・フォン・ノイマンと合流して設計を開始した。
1945年、フォン・ノイマンは論理設計について話し合った結果を 『EDVACに関する報告書の第一草稿』という報告書にまとめた




IASマシンとは、アメリカ合衆国ニュージャージー州のプリンストン高等研究所(IAS)が開発した初期の電子式コンピュータである。IASマシンは1945年末ごろから開発が開始され、1951年稼動している 。いわゆるノイマン型の最初期のコンピュータの一つである。

フォンノイマン型アーキテクチャーの図



ノイマンは1956年に、アイゼンハワーから大統領自由勲章を受章した。


「ハーマン ホレリス」


ホレリスは大学卒業後に国勢調査局のジョン・ショウ・ビリングス統計部長に誘われて助手として働いた。そして、この大変な作業を目にしたのである。また、このままでは1890年の国勢調査は10年以内に集計が終わらないことが確実だった。

ホレリスは1882年にMIT機械工学科で過ごした。その間にパンチカードにデータを格納するシステムを試作している。これは、鉄道の車掌が乗車券の様々な場所に穴を開けることで持ち主の状態を表すことからヒントを得たものであった。

ジョン・ショウ・ビリングスに示唆を受けて、ホレリスはパンチカード上の各位置に穴があるかどうかを電気的に検知して集計する仕組みを開発した(バネ付きの針の並んだ板と水銀の入ったトレーの間にパンチカードを挟んで針が水銀につくと導通して穴があることがわかる)。

ビリングスが示唆した鍵となるアイデアは、個々のデータを全て数値に置き換えることであった。ホレリスはパンチカードの所定の位置に数値を記録すれば、それを元にカードを機械的にソートし、所定の桁位置のデータを集計できると気づいた。

1888年、国勢調査局は統計作業を効率化するための発明コンテストを行い、ホレリスのシステムが選ばれた。これにより、1890年の国勢調査でホレリスのタビュレーティングマシンが大々的に使われることになった。

このシステムについて解説した論文 An Electric Tabulating System (1889) はホレリスが博士論文としてコロンビア大学に提出し、後に本にも収録されている。

彼は1889年1月8日の特許395,782号で自身のアイデアを以下のような請求項で記述している。

非導電性の素材でできたシートに穴を開け、個々の穴や穴の組み合わせで個々の統計項目を記録し、規格化された充分な強度を持った穴あきのシートで制御される電磁石回路によって操作された機械式カウンターによって統計項目を個別または組み合わせて数えることで構成される、統計を編集するここに説明された方法。

次の世紀のコンピュータ時代のこととなるが、初期のFORTRANにおいて、文字列リテラルは 11HHELLO WORLD のように先頭に「文字数n + 'H'」を付けて表した。この H はホレリスに由来するものとされ、このリテラルによる定数はホレリス定数と呼ばれた。






パンチカード