2026年4月15日水曜日

要介護の知人サポート

 私たち夫婦は介護保険の認定で、要支援1である。

SJR千早に入居して数ケ月たった頃、私より17歳若いS君が、数年前ここに入居していることを知った。驚いたには、彼はアルツハイマー病やパーキンソウ病をわずらい、要介護3の状態であった。だから毎日の生活も、介護師がついての行動であった。

外観もすっかり変わり、本人と気ずかずにいたが、支配人や看護主任から紹介され、話相手となってくれと依頼された。

私の最後の職場九産大で、10年間おなじ学科で過ごした仲間であり、当時は中堅のすぐれた教授であったS君が、なぜ病になったのかを調べたところ、彼は一生独身であり、退職後交際相手がなく、孤独な生活を続けていたことがわかった。

その後月2,3回、家内も同伴したりして、世間話をしたり、彼の病状をきいて、現在の医学知識を学んだりている。

新しいiPS細胞での治療法などの情報を知らせたりしているが、彼も興味を示しはじめた。
どこまで効果のある方法かわからないが、少しは役立っているだろう。

アルツハイマー型認知症の薬のはじまり

 エーザイの研究員、杉本八郎。彼が挑んでいたのは、当時「不治の病」とされ、有効な治療法がなかったアルツハイマー型認知症の薬でした。しかし、開発は困難を極めました。来る日も来る日も実験を繰り返し、4000種類もの化合物を試しましたが、結果はすべて失敗。成果が出ないプロジェクトに対し、会社の上層部は非情な決断を下します。

「これ以上、無駄な金と時間を使うな」。
それは事実上の、開発中止命令でした。
しかし、杉本は首を縦に振りませんでした。「この薬の完成を待っている患者さんが、家族が、世界中にいるんだ」。
彼は会社の方針に背き、表向きは別の仕事をしながら、上司のいない隙や業務時間外を使って実験を続ける「ヤミ研究」に手を染めます。クビになるリスクを背負ってでも、彼は実験室に立ち続けました。
その狂気にも似た執念が、ついに4000回を超える失敗の果てに、奇跡の物質を引き当てます。
こうして生まれた「アリセプト」は、世界初となるアルツハイマー型認知症の進行抑制薬として承認されました。組織の論理よりも、目の前の患者を救いたいという一人の研究者の「反骨心」が、医学の歴史を塗り替え、世界中の家族に光を灯したのです。

日野原の成人病のはじまり

 1970年、当時58歳だった日野原重明は、学会へ向かう途中に「よど号ハイジャック事件」に遭遇します。北朝鮮を目指す犯人グループに拘束され、いつ殺されてもおかしくない極限状態を数日間過ごす中で、彼は死の恐怖と正面から向き合うことになりました。無事に解放されたとき、彼の心に宿ったのは「拾った命を、単なるキャリアの継続ではなく、日本の医療を根本から変えるために捧げる」という強烈な使命感でした。

この揺るぎない決意は、1970年代から当時の医療界の常識を次々と塗り替えていく力となります。死を語ることがタブー視されていた時代に、末期がん患者などの心のケアを重視する「ホスピス」の導入に尽力し、1977年からは、それまで「成人病」と呼ばれていた病気が日々の習慣に起因することに着目して「生活習慣病」という言葉を提唱し始めました。この新しい考え方は1996年に厚生省(当時)が正式採用するに至り、日本の医療を「治療」から「予防」へと劇的にシフトさせるきっかけとなりました。さらに1992年には、聖路加国際病院の新築に際して「災害時に廊下でも酸素吸入ができる」という異例の設計を主導しましたが、これが1995年の地下鉄サリン事件において、一度に数千人の負傷者を受け入れ、命を繋ぎ止める救命の要となったのです。
100歳を過ぎても現役の医師として診察や講演を続け、2017年に105歳で生涯を閉じるまで、彼は「老い」を単なる衰えではなく、新しい生き方の創造であると身をもって示し続けました。死に直面した恐怖を「生への情熱」へと転換した日野原重明の生き様は、今もなお多くの人々に深い勇気と希望を与え続けています。

2026年4月14日火曜日

緑茶の研究のはじまり

 1920年代、まだ女性が研究者になること自体が「非常識」とされていた時代、辻村みちよは北海道帝国大学で無給の副手としてそのキャリアをスタートさせました。

当時のアカデミアには、女性が専門的な教育を受けたり学位を取得したりすることに対して非常に高い壁があり、彼女は研究費もままならない困窮状態の中で、ひたすら実験器具に向かい続ける日々を送ります。さらに1923年、ようやく積み上げてきた研究データが関東大震災によって研究室ごと灰になるという、絶望的な不運にも見舞われました。

しかし、すべてを失っても彼女の情熱が消えることはありませんでした。理化学研究所に移った彼女は、1924年に緑茶の中にビタミンCが豊富に含まれていることを突き止め、世界を驚かせます。さらに1929年には、緑茶の渋みの主成分である「カテキン」を、翌1930年には「タンニン」を、世界で初めて結晶として分離することに成功したのです。
これらの圧倒的な業績が、それまで頑なだった教育界の扉をこじ開けることになります。
1932年、彼女はついに日本初の女性農学博士という栄誉を手にしました。
今や世界中で「ヘルシーな飲み物」として愛されている緑茶ですが、その健康効果の裏側には、どれほど冷遇されても、どれほど不運に見舞われても、たった一人で顕微鏡を覗き続けた彼女の強い信念がありました。

2026年4月13日月曜日

インターネットのはじまり

 今私たちが当たり前のように使っている日本のインターネットは、実は「犯罪者」になるリスクを背負った一人の男が、泥まみれになって床下を這いずり回るところから始まりました。

1980年代、日本の通信環境は今とは全く異なり、電電公社(現NTT)がすべての回線を独占していました。当時は「組織をまたいでコンピュータ同士を電話線で繋ぐこと」は法律で厳しく禁じられており、大学間でさえ勝手にデータをやり取りすることは許されない時代だったのです。
しかし、「情報を繋ぐことでしか、日本の未来は開けない」と確信していた村井純さんは、国からの「違法行為だ」という警告を背に、孤独な戦いを開始しました。
研究資金はほとんどなく、味方も少ない状況。彼は自ら作業着に身を包み、大学の床下や狭い隙間に潜り込みました。泥や埃にまみれながら、自分の手で一本一本ケーブルを繋いでいくという、まるでゲリラ戦のような作業を続けたのです。
いつ警察が踏み込んでくるか、いつ逮捕されるかという極限のプレッシャーの中、夜は机の下に寝袋を敷いて眠る日々。そんな執念によって、1984年、ついに日本初のネットワーク「JUNET(ジュネット)」が誕生しました。
このネットワークは、当時の常識を覆すほどの圧倒的な便利さを持っていました。
そのため、参加を希望する大学や研究機関が爆発的に増加。あまりの広がりを前に、ついに国も「法律が時代に追いついていない」ことを認めざるを得なくなり、通信の自由化へと大きく舵を切ることになったのです。
自ら泥をかぶって物理的にケーブルを繋ぎ、日本のデジタル社会を切り拓いた村井さんは、後に「日本のインターネットの父」と呼ばれるようになります。
私たちが今、指先一つで世界と繋がれるのは、かつて逮捕の影に怯えながらも「未来」を繋ごうとした、彼の手作業と執念があったからなのです。 

2026年4月4日土曜日

異母兄妹の結婚

 現代医学では遺伝学的な研究から、異母兄妹の結婚は禁止されている。

しかし古代では、奈良時代まで異母兄妹の結婚は多数行われてきた。

日本書紀によると、聖徳太子の父母は異母兄妹であり、推古天皇夫婦も異母兄妹である。

磐隈皇女は伊勢神宮の斎宮(未婚の女姓で最高責任者)として仕えていたが、異母兄の茨城皇子と結婚して、斎宮を解任されたのは、有名な話である。



海外では現在でも、異母兄妹の結婚を認めている国があるようだ。

イスラム教の国では、一夫四婦が制度として認められているから、異母兄妹が多数存在している筈で、その結婚も多いであろう。

遺伝学的に、どのような欠陥があるのか、詳しく知りたいものだ。


2026年3月28日土曜日

九大工学部の誘致と跡地の開発計画

 明治40年に九州帝大工科大学の設置計画が出され、福岡市は東に京大福岡医科大があるので、西新町を適地としていた。しかし文部省は医科大を含め総合大学化の計画で、箱崎に決定した。土地の買収費は土地収用法により、7万円弱であった。それでも福岡市の予算の

13%をしめていた。

当時の地主の一人であった我が家の祖先は、安い土地代に泣かされたが、九大創立50周年の記念式までは、式典に招待されていた。しかし一族から九大に入学したのは、昭和20年の私が最初であった。

福岡空港に近いので、騒音問題に悩まされて九大が箱崎から伊都に移転し初めたのは、
2005年からである。

しかし箱崎の跡地は、その後の活用計画がなかなか決まらずに、25年も経過していた。




2026年3月28日の朝日新聞に、ようやく具体的な開発計画の概要が紹介された。

福岡市の年度予算1兆円あまりの30%以上をしめる金額が買取予算になっているようだ。