2024年4月4日木曜日

鎮西探題・九州探題と姪浜

1)鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代幕府西国九州)の統括のために設置した機関である[1]行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。

 文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の元寇の後、弘安9年(1286年)元寇後に訴訟が急増した九州に鎮西奉行の後身として、少弐氏大友氏宇都宮氏渋谷氏など有力守護四名を奉行として、鎌倉、六波羅探題にかわる合議制の裁判所として鎮西談議所が博多に設置された。

その後、鎮西談議所の後身として、永仁元年(1293年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時名越時家が派遣され、鎮西探題が設置され、それまで設置されていた鎮西奉行鎮西談議所は廃止された。

永仁4年(1296年)の北条実政から1人体制となった。正安元年(1299年)には評定衆引付衆が設置され訴訟裁断権を持った。

鎮西探題が問状召文、訴訟関係など御家人に対して発給する文書は、形式により鎮西御教書鎮西下知状と呼ばれた。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇討幕運動から元弘の乱が起こると、九州の諸武士団にも倒幕に参加する要請の綸旨が渡った。

3月に菊池武時が口論の末に単独挙兵し反乱するが、少弐氏や大友氏ら他の武士団の同調を得られず、菊池親子ら200騎は壊滅した。

流刑先の土佐国を脱出した尊良親王(後醍醐天皇第一皇子)が筑前国に入り旗頭となり、5月7日に京都六波羅探題足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった少弐貞経大友貞宗、さらに南九州の島津貞久らにより攻められ、1333年5月25日に鎮西探題の北条英時博多櫛田神社の近くにあった探題館を攻められ、居城である姪浜の浦山城籠った。

さらに九州の各豪族は殆どすべて攻略側に加わったので、北条英時は、金沢種時ら一族240名(340名とも)と共に自害した。

この3日前の22日には遠く東国の鎌倉幕府の本拠が新田義貞らに攻められ、得宗北条高時など主だった北条一門が自害し、幕府は既に滅んでいた。

(後に室町幕府は九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。

江戸幕府は九州諸藩の監視、天領統治の為に西国筋郡代を置いた。ただし代官所は豊後国日田に置かれた。この郡代は「九州探題」とも呼ばれた。)

位置

探題館探題城、姪浜城または鷲尾城とも)は、筑前国早良郡愛宕山(現在の福岡県福岡市西区愛宕)に置かれたとされてきた。だが、中世都市の遺跡である博多遺跡群では、福岡市博多区祇園を中心に、北条家の三鱗紋を有する土師器の皿が出土した。また14世紀前半に埋没した溝の上から、110体分の火葬人骨が出土し、一部には刀傷がみられることから、実際には博多の町内にあったと考えられている。

2)九州探題:

室町幕府が九州統制のため博多においた職,広域行政機関。

初めは鎮西管領鎮西探題とも称される。

1336年(延元1・建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。

その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経渋川義行今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。

初代鎮西管領一色範氏は,一族を軍事指揮者として九州各国に派遣したが,46年(正平1・貞和2)子息直氏を下向させ,以後は父子一体となってその政務をとる。続いて49年,中央幕府政局における二頭政治対立の影響で,足利直義の猶子直冬(尊氏の庶長子)が西下。また前年の征西将軍懐良親王の下向もあって,九州地方の政治的勢力関係は,幕府方(尊氏-鎮西管領一色氏),直冬方,宮方(南朝-征西府)という三者鼎立となり,いわゆる観応(かんのう)の擾乱につながる。

概して直冬方が最優勢といえるが,南九州守護島津氏は幕府方に立ち,北九州守護少弐氏は直冬方,中九州の肥後守菊池氏は宮方であった。

その間,51年(正平6・観応2),尊氏・直義の一時的和睦によって,直冬が正式に鎮西探題となる。

しかし翌年の直冬,55年一色氏の,相つぐ九州退却により,以後60年代にかけて九州は征西府-菊池武光を中核とした宮方の隆盛期を迎える。60年代幕府側も斯波氏経,渋川義行を探題として一応任命したが宮方勢力の前に食い込むことができず,とくに渋川義行は任地九州に一歩も足を入れられなかった。

やがて70年(建徳1・応安3)九州探題に今川貞世(了俊)が任命され,翌年九州に下向。

了俊は,まもなく諸勢力を結集,大宰府,征西府を占領,懐良親王を奉じる菊池氏を本拠肥後に撤退させた。以後九州において幕府方が優勢となる。

ただこれら九州探題は,いずれも外来系権力のため,管内において料所などは僅少で,経済的基盤が脆弱であった。それを補うべく,例えば一色範氏は盛んに闕所地処分を行ったが,本主勢力の存在によって遵行困難であり,今川了俊は寺社領に広く半済はんぜい)を施行して給人に預け置き,とくに大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握した。

動乱期の九州探題としては一色範氏,足利直冬,今川了俊の3者が代表といえるが,彼らの発給文書の様式はおのおの特徴をもち類型化できる。

すなわち最初の一色氏のものは御教書(みぎようしよ)(書止文言〈仍執達如件〉=奉書系,官僚系),つぎの足利直冬は下文(くだしぶみ)(将軍系),今川了俊のものは書下(かきくだし)(書止〈状如件〉,守護系)である。おのおのの出自の違いに対応しており,九州経営に対するそれぞれの性格の相違につながるものといえよう。

一色範氏の場合,文書発給の源泉は将軍に存し,あくまでその下で純粋な官僚にしかすぎなかったといえよう。直冬は,下文を多く発していることに注目でき,この点,他の九州探題の場合には全然みえず,上部権力の存在をあまり必要としない存在(将軍的)を象徴していよう。

今川了俊の文書は,おおむね直状(じきじよう)様式をとり,一色範氏の場合と比較されるが,今川氏が代々遠江,駿河を本拠とした守護であるという,その出自によろう。

了俊は単なる探題=官僚的側面のみではなく,当初から濃厚な守護→分国的要素を担いつつ九州経営に臨んだ。了俊は,九州在来の諸勢力に対しては将軍の分身観を背景にして〈直の忠〉を強要するが,実は早く九州諸国のほとんど(豊後,対馬以外)を〈分国〉化,それらへ一族・譜代被官を守護・大将・守護代として派遣し,みずからは〈分国〉主として探題府筑前に滞在,領国形成の意欲旺盛であった。

とくに,探題府に隣接した大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握したことは重要である。これは筑前国衙の掌握をも意味し,同寺宮領は九州第一の穀倉地帯筑紫平野に集中的に分布する。

了俊は,そこを半済給人(一族・被官ら)に預け置くが,一方,在地における調停者として領家側(菅原氏)と共存して同寺宮領の擁護に努め,さらに経済的権益の増加をねらい,これを基礎として九州全域への領国形成の拠点とした。

了俊はそのほか肥前における国衙在庁・一宮掌握,南九州における国人一揆の形成に関与している。領国形成志向の旺盛さは,もちろん,在来守護層との関係も切迫させる。75年(天授1・永和1)肥後水島で少弐冬資を誘殺したため,以後,島津氏久との関係が緊張したことは,その代表的例といえよう。

両朝合一まもない95年(応永2),彼が探題職を解任されたのもこの辺に大きな原因があろう。有能な了俊は,中央幕府にとって,もはや危険な存在となっていた。

了俊解任により,渋川満頼が九州探題に任命され,以後,代々渋川氏(満頼,義俊,満直,教直,万寿丸など)が当職につき,一族・被官などを使って日鮮交渉に努めたりする。

しかし早くも義俊のとき,1423年(応永30)少弐満貞に敗れてから,探題勢力は急速に衰え,その拠点筑前を失い,東肥前の一局地勢力にすぎなくなり,その存在意義を失ってしまう。

渋川末期の探題堯顕は、姪浜の地で討ち死にした。

中世の姪浜は、九州地方の政略上の要点であった。


2024年3月31日日曜日

2024年3月26日火曜日

庚申塔

崎山英二氏のレポート

古賀イマゴロ 古賀を歩けば庚申塔に当たる。

古賀を歩くと,神社境内や集落の出入口などで見かける庚申塔。「光る君へ」で、庚申の日が登場。
この庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃かららしく,中国から伝わった道教に由来する庚申信仰から建てられた石塔とされます。
六十日に一度巡って来る“庚申の日”(「かのえさるのひ」・「こうしんのひ」)。
その夜,人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が,寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていて,それを避けるために夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り,勤行をしたり宴会をしたりする“庚申待(庚申講)“が行われていたそうです。
この“庚申待(庚申講)“を三年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で,塚の上に石塔を建てたのは庚申塚,塔の建立に際して供養したのは庚申供養塔と呼ばれます。
※参考
「第11歴史講座(63年度)『古賀の昔と今』古賀町文化財調査委員村山武」(古賀市立図書館収蔵)
「古賀町庚申・青面金剛・猿田彦大神等、分布図」(平成元年2月現在、古賀町文化財調査委員村山武)
〔写真〕
①筵内須賀神社前の庚申塔群(2021年1月撮影)



②筵内須賀神社前の寛延四年庚申尊天(2021年7月撮影)



③薦野天降神社境内の庚申塔群(2019年11月撮影)



④上米多比「三日月とほたる」近くの庚申天(2022年5月撮影)



⑤青柳観音堂の庚申塔群(2024年2月撮影)


⑥平成元年2月現在,古賀町文化財調査委員村山武「古賀町庚申・青面金剛・猿田彦大神等、分布図」(「第11歴史講座(63年度)『古賀の昔と今』古賀町文化財調査委員村山武」(古賀市立図書館収蔵)から一部抜粋)


2024年3月19日火曜日

天動説の歴史と地動説への変化

 古代人は、直感的に大地は水平であり、その上に空気があり、さらに上空を太陽や月や星が回っていると感じていました。多くの神話にその物語が残っています。

天動説の体系化「プトレマイオスの天動説」

古代ローマの学者、クラウディオス・プトレマイオス(83年~168年)は「アルマゲスト」という著書を残しました。

この著書には地球が宇宙の中心であり、その周りを太陽や他の惑星が回っているということが書かれていたのです。

このアルマゲストが執筆されたのは、研究によって150年から168年の間とされています。

アルマゲストは13冊にもわたる天文学や幾何学の専門書である書物です。この本には天動説や日食、月食についても記されています。

「アルマゲスト」によると

地球の周りに、 月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星

の順で並ぶとされています。


アルマゲスト」によると地球は、「宇宙の中心は球形をした地球であり、

動かずその周りを他の天体が回っている」とされています。

惑星の動きの一部が往復するのを、二つの円運動で説明した。

その後の地動説への変化:

これに対して、地動説の元となる考えが生まれたのは意外に早く、紀元前310から230年頃のことです。古代ギリシアの天文学者アリスタルコスが太陽が宇宙の中心であると唱えました。

しかしこの考えは民衆に広まりませんでした。この理由として偉大な学者であるアリストテレスが支持した天動説を否定できなかったし、大地が動くという説は神の偉大さを否定するためキリスト教から受け入れられなかったことなどがあります。

そしてやっと地動説が日の目を見たのは生まれてから1700年ほど後のことです。

地動説を広めるきっかけとなった人物がニコラス・コペルニクス(1473年2月19日~1543年5月24日)、ポーランド出身のカトリックの司祭でした。

コペルニクスは1500年頃に出版した「コメンタリオス」で太陽中心説(地動説)を主張し、さらに亡くなる直前に「天体の回転について」で地動説をより発展させています。

ガリレオが望遠鏡で、天体の動きを正確に把握し、地動説を裏付けします。

ニュートンが万有引力の力学で、天体の動きを正確に計算しました。

現在ではさらに、156億年前に「宇宙」がビッグバーンで発生し、46億前に誕生した太陽系と、それ以外の多くの星雲の発生や動きなども研究されています。宇宙の時間と空間も、無限大ではなく、始めと終わりがあるとされています。

最澄・空海の銅像と古賀の縁

 古賀市花鶴川の河口近くの広場に、最澄(伝教大師)の銅像がたつ公園ができています。

最澄は、遣唐使船で唐にわたり、帰国の時に嵐のため古賀の花鶴海岸に漂着したと伝えられています。
この故事にもとずいて、地元有志の力で大師をまつる公園が完成し、花鶴の町おこしの種が一つ増えました。

天台宗の寺は新宮の獨古寺が有名ですが、古賀にも有名な清瀧寺があります。
最澄銅像

清瀧寺本堂


古賀市の筵内に空海(弘法大師)の銅像を中心とした公園が出来ました。

空海は唐から帰国して2年ばかり大宰府の観世音寺に滞在していました。
古賀地区には有名な空海伝説があり、巡礼して来たことは考たしかです。
地元出身の資産家の寄贈により造られた公園です。
真言宗の寺は、宗像の鎮国寺が有名ですが、竜海寺が古賀の米多比にあります。


空海銅像


竜海寺

日本・朝鮮における「倭」国の変遷

 日本における「倭」の変遷はこのようです。

博多、志賀島の「漢倭奴国王」金印授与記録は57年、
卑弥呼の「親魏倭王」の金印授与記録は239年、
倭の五王の朝貢は、421、425、430、438、443、451、460、462、477、478、479、502年。




朝鮮半島における倭国