2021年6月30日水曜日

森鴎外と白米優先

 昨日のNHKフランケンシュタインの誘惑(科学史)で、この人森鴎外は、白米優先、麦飯反対の持論を死ぬまで改めず、多くの陸軍兵士を病死させたとして、かなり叩かれていました。

その事実は承知していたが、反対意見の海軍の高木氏や農学部の鈴木梅太郎氏を批判し、罵倒したという権威主義の態度には驚かされた。
それらが原因で日本初のノーベル賞までのがしたような論調は、すこし酷であった。


岡田 三郎助

 今朝のNHK日曜美術館に登場した岡田 三郎助(1869年1月22日 - 1939年9月23日)は佐賀県に生まれ、明治~昭和にかけて活躍した洋画家であるが、黒田清輝や青木繁のように著名ではない。

女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を多く残しているが、話題性のある異色の作品がないからでであろう。手元の美術全集にも2点しか掲載されていない。
添付の作品なら見覚えがある方も多いと思う。
東京美術学校(現・東京藝術大学)教授となり、第1回文化勲章を受章した大家である。その際皇室に献上した風景画作品が今天皇の執務室に掲げられているそうだ。


任那日本府を否定

 西谷正教授の「古代東北アジアの中の日本」を読んでいたら、

最近の考古学者は、任那日本府を否定しはじめ、中学の教科書からも消えたという。考古学的に、鎧や馬具の変遷から反論がでても、韓国側の学者から強い反対意見がでるので、大変らしい。

2021年6月29日火曜日

渡り鳥、グース(雁)と一緒に大空を飛ぶ

 渡り鳥、グース(雁)と一緒に大空を飛ぶようなことに初めて開拓して成功したのは、カナダに住む彫刻家、ビル・リッシュマンという人物です。

1996年 米映画 邦題は「グース」 原題は「Fly Away Home」で、 鳥達とライトプレーンで一緒に飛ぶという冒険を映画化しました。
世界不思議発見で先日紹介されました。
これを体験できるのは、フランスの中央高地:クレルモン・フェランより南西120kmにあるオーリャックの近くです。
モーターハンググライダー又は熱気球をチョイスでき、料金はハンググライダーで約35分のフライトでお一人646ユーロで、熱気球は1時間のフライトでお一人339ユーロだそうです。
日本神話で、天空の高天原から派遣された八咫烏にしたがって空中を移動する神の気分になれるだろう。



2021年6月28日月曜日

渋田見家

 26日に元職場のOB会で渋田見君と久しぶりにあった。

有名な小倉小笠原藩の白黒騒動で、藩主を老中に推進する家老で、反対派に暗殺された渋田見主膳のご子孫である。

小倉城


家に伝わる日本刀剣類、鎧類、古文書、家系図などを、アイパッドにいれて綺麗に整理しているのを見せてくれた。歴史愛好家にはみのがせない写真ばかりであった。

同じ職場だった興膳君が単行本にしている。渋田見の前の姓は仁科で、そのルーツは武田勝頼の弟で、高遠城主となった仁科五郎盛信だという。

ここから数えると30代という長い歴史。



奈良の地形の段差

 ブラタモリで奈良の地形の段差をさぐる番組があり、興福寺や春日大社がかなり高台の傾斜地にあることを証明していた。

しかしさらに古代には、奈良湖があったことまでは言及していなかった。


渋沢栄一と土方歳三

 昨日の大河で、渋沢栄一と土方歳三が出会う場面があった。どちらも武州の百姓の出で、天下のために活躍する道をさぐって田舎をでた経緯に、意気投合した。また会う機会があったら?と将来の出会いを予告した別れであった。

歴史資料では、上海で出会うことになっている。その伏線の場面であろう。


渋沢栄一らが、欧州から帰国する時、日本では、榎本武揚ら旧幕臣達が、東洋最強をうたわれた旧幕府海軍を率い北海道を占領、新政府軍に最後の抵抗を続けていた。
徳川昭武一行が、上海に寄港した時、榎本武揚からの使者を迎える。
榎本軍の指導者になって欲しいという要請であった。旧幕臣達の旗頭として、フランスに近い昭武を迎えれば、外交交渉上も優位に立てるという榎本のしたたかな計算もあったろう。
 しかし徳川らは、危険すぎるという理由でこの申し出は断る。そして、帰国した昭武は、逆に新政府から榎本軍討伐を命じられる。歴史の矛盾と皮肉であった。

黒鉄(くろがね)ヒロシ戸定ギャラリー

s://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/kurogane_hirosi/index.html?fbclid=IwAR3-aLFKO7YADWGKRCYsIGqQ8D8UD

2021年6月27日日曜日

「プラスティックの皇太子」

 昭和19年に3ケ月間学徒動員で働いたのが、三菱化成黒崎事業所(福岡県北九州市)である。ゼロ戦の風防ガラスを作っていた。プラスティックはまだ無い時代で、メタアクリル酸メチルエステルという素材であった。

現在その工場で、三菱ケミカルが開発した「プラスティックの皇太子」と呼ばれる新素材が製造されている。 実はこの通り名は、同社がキャッチフレーズとして勝手に付けたもので、「デュラビオ」というれっきとした本名がある。植物由来のバイオプラスチック素材で、エンジニアリング・プラスチックの一種だ。
現在、黒崎でのキャパシティはフル稼働で年間で5000トンだが、20年までに同2万トンに増やす計画だそうだ。
これまでに採用実績があるのは、モバイル端末の表面に使うガラス、ディスプレイに内蔵する偏光板、眼鏡の上からかけるサングラス、化粧品の容器などだが、自動車の内装と外装などにひろがるらしい。
 今後、さらに用途が広がっていけば、“プラスチックの皇太子”の称号が、業界内のスタンダードとして定着するかもしれない。


日本の世界遺産

 「世界遺産」に登録された日本の遺産は、最近増えて23となった。写真の2017年の21に、長崎・天草潜伏キリスタンと百舌鳥・古市古墳群を追加。

また文部省が認定している『日本遺産』は、すでに55も存在する。
どちらも、自然、景観、歴史、宗教や文化、造形美などがからんでいて、多種多様である。一部には、重複している場所もある。
これ以上増やすよりは、整理整頓の時期にきている感じである。
昭和や現代に近いものは、国際問題にもなりやすい。


江戸城築城前後の地形

 ブラタモリで、江戸城の築城前の地形をめぐる番組をみた。

現在の地形はかなり埋立地が多いことは知っていたが、街を歩いて移動する機会が少なかったので、高台と埋め立て地の高低差が結構大きいことがわかった。






江戸前島あたりが、現在の銀座、日本橋、京橋などの繁華街になっているようだ。

2021年6月26日土曜日

幕末から明治へ 激動の時代を駆け抜けた 徳川慶喜・昭武・兄弟

A) 1867年パリ万博。将軍・徳川慶喜は、弟の昭武(15歳)を代表とする幕府使節団を派遣する。実は、使節団には、幕府の巻き返しを図る密命が託されていたのである。昭武たち幕府使節団に託された密命は、フランスからの600万ドルの借款計画を実現せよというものだった。




幕府のキレモノとして知られる小栗上野介が、駐日フランス公使ロッシュと練り上げた計画。600万ドルの資金を調達して、軍艦や武器を購入し、薩長に対抗しようという幕府の起死回生の策である。

ところが、パリで昭武たちに立ちふさがる薩摩の妨害を前に、この借款は幻に終わる。慶喜の幕府復興の起死回生策は、薩長や英国の妨害によるフランスの外交政策の変更と共についえた。徳川慶喜はさらなる選択に迫られる。

B) パリ万博の主要行事終了後、昭武一行は、幕府との条約締結国を歴訪した。国と国のトップが直接会うことによって、これからの友好関係を深めるためだ。
 幕府の外国奉行、向山隼人正を全権公使とする一行はフランスを出発。スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスの各国で昭武は各国国王らと会見、初の首脳外交を繰り広げた。

 訪問を受けた各国の新聞は、昭武の来訪を報道した。イギリスの絵入り新聞は、「プリンス・トクガワ」として精巧な彼の肖像を掲載。現将軍(慶喜)には子供が無く、昭武が慶喜の寵愛厚い弟であり、将軍を出しうる家、清水徳川家の当主でもあるので、次期将軍の有力候補だと詳しく報じた。

C) パリ万博への派遣が決定する前に、14代将軍家茂の命により、昭武は会津松平家への養子入りが決まっていた。しかし、自分の後継者たりうる人物は昭武しかいないという慶喜の判断により、昭武は将軍を出しうる家の一つである清水徳川家の当主になった。
 同時に慶喜は、これからの指導者には西欧の最新知識の習得が不可欠だとして、パリ万博終了後、3年から5年の長期留学を昭武に命じた。

 しかし、パリ留学中に幕府は瓦解。その直後、兄の水戸藩主・慶篤が急死し、昭武はその後継者に指名された。さらに、前将軍の弟がフランスにいることに深い懸念を持った新政府首脳は、昭武に帰国を命令。帰国した昭武は最後の水戸藩主となる。

 「われわれは薩摩の悪党の海岸を通過した」。フランスからの帰国の船上での、昭武のフランス語日記の一文。彼にしては珍しい激情の言葉であり、その無念さがうかがわれる。

D) その時日本では、榎本武揚ら旧幕臣達が、東洋最強をうたわれた旧幕府海軍を率い北海道を占領、新政府軍に最後の抵抗を続けていた。昭武は、上海に寄港した時、榎本武揚からの使者を迎える。榎本軍の指導者になって欲しいという要請であった。旧幕臣達の旗頭として、フランスに近い昭武を迎えれば、外交交渉上も優位に立てるという榎本のしたたかな計算もあったろう。
 危険すぎるという理由でこの申し出は断る。そして、帰国した昭武は、逆に新政府から榎本軍討伐を命じられる。歴史の矛盾と皮肉であった。


E) 慶喜は、将軍から一転して、天皇の敵「朝敵」とされた。明治元年2月、幕府の本拠地である江戸城を自ら退去した慶喜は上野、水戸、静岡と場所を移しながら謹慎生活を送る。

公的な世界から離れ、趣味に没頭して生きる慶喜のもとへ、かつて彼を朝敵とした天皇から、和解への微妙なるサインが送られる。
 明治維新の時に剥奪された官位が、明治5年の従四位を皮切りに、正二位、そして、同21年には将軍時代を上回る従一位にまで昇る。

さらに、明治15年には慶喜の実質的な長男・厚が華族に列せられ、同29年には彼の9女経子が伏見宮家に嫁ぎ、慶喜は皇族の縁戚となる。いずれも慶喜の心事を思っての天皇からの礼遇であった。
 明治30年末。ついに、慶喜は上京し、天皇に謁見する。謁見が行われたのは、明治31年3月。二人が和解をするためには、30年もの年月を必要とした。

 明治天皇との謁見後、慶喜は急速に名誉回復を遂げていく。明治33年には天皇のそば近くに仕える特権を与えられた麝香間伺候となり、同35年には五爵の最高位である公爵を授けられた。
 これにより、慶喜の名誉回復は果たされたと言える。一切の弁明をせず、沈黙を貫き通した男の生き方が明治国家に受け入れられた。

 大正2年11月、慶喜は明治という時代を見届けて亡くなる。享年76歳。葬儀は上野寛永寺に特設された斎場で、実家の水戸徳川家にならい神式で行われた。


F)  ヨーロッパから帰国した昭武は、翌年の1869年に水戸徳川家を相続し、藩主に就任、明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事となる。

北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡天塩郡上川郡中川郡北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。

明治4年(1871年7月14日廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。

明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治8年(1875年)、中院通富の娘・盛子(栄姫、のち瑛姫)と結婚する。

G)  明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米する。その後、兄弟の土屋挙直松平喜徳とともにフランスに向かい、再び留学する。

なお、前の留学から8年の間に、フランスは第二帝政から第三共和政へ移行している。明治13年(1880年)に留学先のエコール・モンジュを退学。同じくフランスに留学中の甥・徳川篤敬(長兄・慶篤の長男)と欧州旅行(ドイツオーストリア・スイス・イタリア・ベルギー)の後、ロンドンへ半年滞在し、翌14年6月帰国した。

明治16年(1883年)1月に長女・昭子が生まれるが、翌月産後の肥立ちが悪く妻・盛子が死去する。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った翌年には、生母秋庭を伴い戸定邸千葉県松戸市)に移った。やがて明治25年(1892年)、次男の武定子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。

H)  兄慶喜と同じように自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を有した。隠居後、盛んに静岡と往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた.写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されている

また造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地にあたる区画に西洋式庭園を築いて植物の栽培を手がけている。

慶喜が1897年(明治30年)の秋に東京の巣鴨に移った翌明治31年(1898年)に、篤敬が44歳で死去。遺児の圀順が11歳で水戸徳川家当主となり、昭武が後見となる。

明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去した。享年58。兄より短命であった。

賀来惟熊

 俳優の賀来千香子さんのファミリー・ヒストリに登場した二人の人物。


賀来惟熊氏
  今でいえば、公益事業家、砲術家というべきであろうか。
  1796年、宇佐郡佐田村(さだむら)  現在の宇佐市 安心院町 左田で生まれる。
    ※当時は、島原藩の飛び地領であった
  農業や ろう絞り、酒造を行い 所有する山林の、植林事業などに従事。
  植林事業の重要性を説き、井堰(いせき)の復旧、貯水池の築造や宇佐神宮の改築にも尽力を尽くす。
  この人の偉大な所は、江戸時代に 民間で唯一の反射炉を作り 鉄鋳造にて大砲を作ってしまった事。
  日出(ひじ)藩に 帆足万里(ほあしばんり)という蘭学先生のもとで西洋学問を学んだ事が
  賀来惟熊氏が 偉大な事業を成し遂げ、成功させられた一因であったと思われる。
  思うに、知識を得るだけでなく 常に研究熱心であったに違いない。合わせて財力もあったのだろう。
  1853年(嘉永6年)に、反射炉の建設に着手  (歴史上有名な ペリー来航の年)
  その2年後の1855年(安政2年)に 左田村の"宮の台"に 鉄鋳造の反射炉を築き、鋳造を始める。
      (江戸では、安政の大地震があった年)
  そのわずか、3年後には、大砲の鋳造に成功させているとの事。
  初めは、6ポンド砲 4門、 12ポンド砲 2門、 18ポンド砲 2門の合わせて 8門を造るのに 2年を要す。
  最終的には、100門を超す数を造ったとも言われている。
  反射炉は どこに建設されたのだろうか?
  残念ながら、現在は 当時の反射炉は跡形も無く 姿を消している。
  佐田神社の どこかに造られていたと思われる・・・・との記述があるのみである。
「唯一の痕跡、反射炉の使用レンガが現存 佐田神社」
  唯一、反射炉を築いていたレンガの一部が 神殿裏の土塀に 積み上げられている。


  レンガ表面を見ると、今でも艶のある状態であり、高熱によって レンガ表面が溶損したような
  独特な感じが見受けられ 明らかに普通のレンガ表面と違う。
賀来飛霞氏(かく ひか)
  江戸時代後期~明治時代前期の植物学者であり、医者でもあった。   
  国東郡高田  現在の昭和の町で有名な豊後高田市生ま
     ※当時は、島原藩の飛び地領であった
  その後、現在の杵築市に移り住み、同じく 帆足万里(ほあしばんり)より 本草学などの学問を学び、
  本草学については江戸まで出向き 学んでいる。
  医学は、シーボルトより学んだとされる。
  1844年(弘化元年)には、左田村で医者として生活。
  1876年(明治9年)には、小倉県 第八大区医務取締役となり、宇佐郡立 四日市病院長兼医学校長となる。
  1878年(明治11年)には、東京大学小石川植物園の取調掛となり、植物の調査に専念。
  日光や東北方面まで 調査に足を延ばしているとの記述もある。
  退職後、晩年は 佐田で過ごす。 近代植物学の基礎を築いた人物とされる。
  『高千穂採薬記』 『杵築採薬記』 など、著書を数多く残している。
  二人共、私の調査範囲では 不明点も多いが、早くから西洋の学問を学び、
  行動範囲を見ると 当時としては移動手段もない時代 苦労しながら自分の足で歩き
  各自の学問を高めていった 偉大な人物であるといっても、過言でないだろう。

薦野氏の子孫



 

 歴史ブームで、最近は英傑の末裔がいろいろテレビに登場している。昨日は毛利、伊達、長曾我部、真田、礒貝などの末裔をみた。

マイナーながら地元の城主だった薦野増時は、立花道雪・立花宗茂のあと黒田長政につかえて、子供たちは1万石クラスの家臣となり、黒田姓をもらった一族である。
その末裔で現在東京在住の黒田基美男氏とその娘さんが、最近先祖の墓のある養徳山や薦野城山周辺を訪れられたそうである。地区の古老は大歓迎であったであろう。


2021年6月25日金曜日

山鹿市のチブサン古墳

 昨日は平山温泉からの帰路,山鹿市のチブサン古墳に立ち寄った。



国指定の装飾古墳で多くの観光地図にも掲載されている有名な古墳である。しかし幹線からの入り口の案内板が完全に赤さびで覆われていて、道をまちがえてしまった。
古賀の船原古墳も、案内板の経年劣化にはまだ余裕があるが、20年後には要注意しよう。





2021年6月24日木曜日

100周年に、「福中魂」の石碑

 2015年6月23日は旧制福岡中学の同窓会。23回生なので、毎年6月23日に集まっている。89・88歳の老人が9名参加。

そのうち3名は夫人や娘さんの介護人つき。日付けを間違えたり、直前に体調不良で、数名欠席。
参加者も耳が遠かったり、話が不明だったりで、会合はばらばらの感じ。幹事さんも退院直後で、大変苦労のようすだった。
ただ母校の100周年記念に、単なる寄付金でなく、「福中魂」の石碑をつくるという提案があり、これは今までの積立金と有志の浄財で計画が実現することになった。



2016年9月28日 正門前の広場に、完成した石碑を設置し、9名が集まり、校長の参加をえて除幕式をおこなった。あとは隣の石蔵酒造での宴会となった。
石碑の日付けは、100周年の平成28年9月になっている。
そして無事100周年を終えて、平成29年をもって、23回生の同窓会は解散となった。

金栗四三生家記念館

 熊本の和水町に、大河ドラマの金栗四三生家記念館があり、23日に近くの平山温泉にでかけたときに、立ち寄った。

偉人の生家では、むかし野口英雄の家をみたことがあるが、金栗家は代々地元の庄屋だったらしく、野口家より大きな住宅であった。
県道からかなり入り込んだ場所なので、参観者は少ないだろうと予想していたが、予想値を上回っているそうだ。
県道沿いの三加和温泉卿のまえにも金栗四三ミュージアムができており、こちらは多くの参観者を予想していたが、TVの視聴率と同様に、はるかに予想を下回っているいるようだ。

2021年6月23日水曜日

沖縄戦慰霊の日と長勇中将の墓地

 沖縄慰霊の日だが、地元福岡・粕屋出身の長勇中将が、沖縄戦の参謀長として、摩文仁丘の洞窟内の第32軍司令部で、第32軍総司令官の牛島満大将とともに割腹自決した話は、最近では余り話題になっていない。

長勇中将



私の中学同級生長武人君の叔父にあたる人物で、以前に沖縄の自決の洞窟や、福岡の土井の江辻山にある長勇の墓地に昔お参りして、ブログで報告した。



最近はどれくらいの人がお参りしているのだろう。


沖縄には沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満大将と参謀長の長勇中将を祀っている黎明之塔がある

牛島大将
木柱の墓標(部下が埋葬し、建てたものと思われる)がつくられた後、沖縄米軍基地建設のため多くの労働者が日本本土から来島、その中には元部下も多くあり、元部下や沖縄の関係者、沖縄仏教会の協力により、中央に三角のコンクリート柱に「黎明之塔」と塔名が明記され建立された。昭和37年10月南方同胞援護会の助成により現在の慰霊塔に改修された。


しかし沖縄では、長第32軍総司令官の牛島満大将や、長勇中将らの評価は低く、つぎのような批判もあるようだ。

{第32軍を美化して、自衛隊沖縄部隊が慰霊などしていますが、総司令官や参謀長 ら軍首脳の腐敗と堕落、無能極まりない作戦指揮、沖縄民衆を地上戦の盾として地下壕に籠って多大な犠牲を強いた戦争責任は、ほとんど忘れ去られています。
 第32軍が南部に撤退した結果、数万もの沖縄民衆が避難していた地域全体が最前線となり、天皇の軍隊、皇軍によって徴用されて弾運び、食糧徴発、伝令、偵察などを強要され、数万もの犠牲を強いられたことは忘れてはなりません。
皇軍指揮官が最期に自決した司令部跡からは、大量の高級ウイスキーの酒瓶が発掘されています。皇軍が護ったのは天皇裕仁とウイスキーです。皇軍は沖縄民衆を守るどころか、沖縄民衆を大量殺戮したのです。}

世界情勢が、防衛費増税の時代に移りつつある現在、沖縄慰霊の日の評価も、少し変化するでしょう。 合唱。

2021年6月22日火曜日

わが家の筋トレ用具

 週1回通っているヘルスケアセンターには、いろんな筋トレ用具がある.

わが家では、写真のような、最小限のものをそろえている。

ヨガマット、吸引用ゴムチューブ、鉄アレイ3種類

ストレッチポールとボール

バランスボール

トランポリン

上の2つは、筋トレ用に、下の2つは、有酸素運動用に、利用したい。

2021年6月20日日曜日

◎雪舟筆「倣高克恭山水図巻」の修復プロジェクト

 ◎雪舟筆「倣高克恭山水図巻」の修復プロジェクト


NHKの「よみがえる雪舟の名画」では、雪舟筆「倣高克恭山水図巻(ほうこうこくきょうさんすいずかん)」の修復プロジェクト(太宰府歴史博物館)を追っていて、特別番組を放送した。

この山水図巻は1474年、雪舟が弟子の見本として中国で流行していた画風で描いたとされ、生き生きとした筆遣いが特徴だが、損傷が激しく、2016年~17年にかけ九州国立博物館(福岡県太宰府市)で、修復された。
雪舟筆「倣高克恭山水図巻」

放送では同時に、雪舟の人生やいくつかの山水画も紹介された。

私は以前に毛利博物館で、雪舟の類似の山水画をみた記憶があるが、それは登場しなかった。
雪舟筆山水長巻
(防府毛利報公会所蔵)

雪舟は山口で、800点くらいの作品をかいて、亡くなったらしいが、戦乱の時代に大内氏が滅んだため多くの作品が消滅してしまったという。
それでも個人の作品で、6点も国宝に指定されているいるのは、雪舟だけだという。