2022年10月31日月曜日

神社の遷宮

NHKで、奈良の春日大社、若宮の遷宮の儀式が生中継された。若宮の御神体と国宝の宝物類が、新築の若宮本殿まで

150mの距離を、1時間くらいかけて移動された。(下図の黄色い線)



深夜に行われる儀式のため、映像は部分的で、雅楽と祝詞と警ヒツ(先払いの声) の音響がメインの生中継であった。


神社の社殿と、寺院の堂塔は一般に共通の認識をもって同じように見られがちだが、そこには理念上、根本的な相違が存在する。

 「建物を残す」つまり保存するという部分における「発想の違い」がある。
たとえば法隆寺の五重塔などは、ゆうに1300年の時を経て今に残っている。
対照的に社殿は腐朽することを覚悟で建て直すことを原則としている。
法隆寺は資材においては、保存に適した最良の工夫をして、当時の最先端の技術を駆使して建造された。
  時代が移って、かりに新築・改築が行なわれるにしても、とにかく長年にわたりその建物を残していこうという建築学における一般的な発想がそこにはある。

しかしお宮、お社の場合、とくに神宮では、先端の、というのではなく、古代さながらの様式で、たとえば腐るのが当然の掘立柱を立てて造営する。
20年に一度、徹底して同じ素材、変わらぬ工法で、古代の形式に忠実に則って新しくしていく。
それは、〝変わらざるものを改める〟という発想なのである。
 
  そこには日本人特有の宗教感覚、精神性が垣間見える。
「命あるものはすべて老い、衰える。しかし神道における考え方では、命をふたたび〝若返らせる〟〝蘇らせる〟という考えが息づいている。〝繰り返す〟という文化で、しかも形式的に忠実に、ということを重んじる。
現実には建物よりも、祭りを長らえさせる、祭りを繰り返さす、この祭りの文化、儀礼の文化を繰り返す、そこに重心がおかれている。
なま中継の雅楽は、千年前の音響が現在もそのまま伝えられているそうで、太古の時代に生きている感覚にさせられた。

2022年10月28日金曜日

多賀城と東北の城‣城柵:先住民は蝦夷(えみし):みちのく:壺の石碑;外の浜

 多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。




奈良時代から平安時代陸奥国府鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。周辺はかつて「の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。

創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。

第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。

なお、多賀城の「」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載。

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。

この国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。

霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川賀美色麻富田玉造志太長岡新田小田牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。

北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田色麻柵・不明の1柵)を設置、これらは養老4年(720)、石背国石城国陸奥国に三分された陸奥国をふたたび統合し、多賀城という新国府の建設により、弱体化した陸奥国の支配強化を図った。

その他東北地方の守りとしてつくられた主な城と城柵は次のとおりである。






これにより、奈良時代の日本では平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が昭和36年(1961)から開始され、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、築地塀(ついじべい)や柵木列をめぐらせた政庁域が確認された。

その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲んだ区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石柱穴が多数確認され、正殿と考えられた。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(北緯38度17分58秒 東経140度59分53.5秒)、政庁正殿の北側には延喜式内社多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(北緯38度18分36秒 東経140度59分29.3秒)に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮(いちのみや)鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

蝦夷(えみし)

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。

統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。

しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。

蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。

ここに「東北王朝」という集団があったというのは、古田武彦先生である。幕末の戊辰戦争で解体された。


文学者は、「みちのく」という表現を多用した。白川の関から以北は、「未知の奥

の国」であり、それより奥は未知であるから、松尾芭蕉は「奥の細道」ともいっている。


みちのくの 奥ゆかしくぞ 思わゆる 壺の石碑 外の浜風  (西行法師)

外の浜は、青森北端の海岸で、その北は外国と考えられていた。

また「日本中央」と刻まれたなぞの石碑は、都母(つぼ)の石碑で、仙台ではなく青森にの都母に坂上田村麻呂が遠征してきた時に作ったという。

日の本という地名があり、日乃本将軍を名乗った豪族がいたそうだ。みちのくは、やまと政権とは別の国であったのだろう。


日本史上の謎! 坂上田村麻呂が残した伝説の「

時に壺の碑」の正体を追う!|テレ東プラス (tv-tokyo.co.jp)


藤原4代が栄えた平泉の源泉は、みちのくで発見された金であった。
これは百済から逃亡してきた人たちの技術により発見された日本で最初の金資源であった。
源平合戦で勝利した源頼朝が、引き続いて義経をかくまった藤原を壊滅させたのは、この金が本当の狙いであったようだ。


畿内からみて、みちのくは東北にあたり、瑠璃光の世界である。

仏教では薬師如来のすむ浄土である。

みちのくには奈良、平安時代から多くの薬師如来像が祀られているようだ。


都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 (能因法師)

東北、奥州、蝦夷は、都人にとっては、遠くはるかな異郷であった。

私の小学校時代は、奥羽地方という名称であったが、現在は東北地方と呼ばれている。




「楯の松原」の散歩コース

 



新宮町の海岸保安林は楯の松原と呼ばれている。この中に散歩コースが設けてあるが、林野庁の管理地のため、地元の地図には詳細な記載がされていない。

シニアクラブのウォーキング会で、詳細な地図をもらった。2Kmくらいの周遊コースで、

新宮神社の横から松原に入り、わかれの万歳松(E)で折り返すコースである。



北コースと南コースがあり、途中に松の運河と、松の廊下で、南北の短絡道があるので、つかれたら短絡道で引き返せばよい。

途中にはベンチなどの休息場所がないので、老人にはきびしいが、林野庁だからそこまでのサービス精神はなさそうだ。休息してタバコなど吸われることを警戒しているのであろう。

大王松


途中には「大王松」の巨木がある。2,3百年を超えていそうだ。

万両庭の陽光桜

途中の少し開けた場所は万両庭と名付けれ、陽光桜が植えられているが、まだ大きくは育っていない。

老人の私のゆっくりした足で、1時間10分くらいで一周できた。2,3人中年の散歩者をみかけたが、おろらく40分位で回られたであろう。

海岸に近い松原であるが、好天であったので、波の音は全くきこえなかった。

2022年10月27日木曜日

晋作と龍馬

 晋作と龍馬の関係は次の3つがよく知られる。

1)晋作が龍馬に漢詩とピストルを贈る。竜馬はこれで命拾いをする。
2)小倉戦争を共に戦う。慶応2年(1866)6月17日未明晋作に依頼された龍馬は、乙丑丸で対岸の旧門司の幕府軍砲台を艦砲射撃し、勝利の援助をする。
3)薩長同盟のため龍馬は晋作らと尽力し、長州藩が政変・禁門の変などにより「薩賊会奸」と呼んだ薩摩と、恨みを越えて同盟を結びそして維新回天の大業に導く。
東行庵にも、その顕彰掲示板がある。別途、海峡沿いには青春交響の塔がある。
二人はともに慶応3年になくなった。(生まれは天保6年と10年)



高杉晋作の名前はいくつあるのだろうか。
諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。
号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。
変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。
東行庵の記念館に花押があった。晋作と春風の文字を複合した書体である。
晋作の祖父が春時、父が春樹だから、「春」が高杉家では続いたが、晋作は子供の名を東一と名付けた。
孫の名前は春太郎にもどったが、これは伊藤博文が潜伏時につかった変名でもある。


九大以前の箱崎浜の歴史

 九大総合研究博物館での講演記録:福永将太





2017年11月18日 
プライバシー設定: あなたの友達
友達
今朝のテレビ、箱崎ぶらり旅で、灯篭、抱洋閣、水族館など懐かしい写真が沢山でた。
おきゅうとの語源が「お救人」で、大飢饉のときの代用食だったとははじめて知った。


箱崎砂丘が伸びていた。


2022年10月26日水曜日

下村地区の風景

 ハイマート橘の前の交差点は「下村」。

その道路の先は下村地区で、その下村組生活センターの近くに小山があり、そこに登る道がないかなと散歩してみたが、住宅に囲まれていて見つからなかった。

だだこの辺は昔からの農家の大きな住宅が多く、しかも同じ姓氏が並rんでいる。

旧家の一族らしい。香椎のタクシー会社と同じ姓なので、親類筋なのかな?と思った。





安倍 宗任 (あべ の むねとう)

 安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期の武将。陸奥国俘囚の長とされる豪族、安倍氏安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある

生涯

前九年の役

奥州奥六郡岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)

配流

四国伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。 なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府に流されたという説とがある。

和田家文書には、大島と陸奥の間の交流文書が存在している。

工藤雅樹は、伊予から筑前に移された理由を「頼義が背後におり、奥六郡の支配権を清原氏から取り戻そうとしていたため、朝廷がそれを防ごうとした」と推察している。

子供

長男・安倍宗良
宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いた。
次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。
三男・安倍季任
季任は肥前国松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
長女・藤原基衡の室(疑問あり)
藤原秀衡の母(異説あり)。宗任が太宰府から東北に戻り授かった子であるとする説がある[3]
末女・佐々木季定の室
佐々木秀義の母。平治合戦の後、本貫近江国蒲生郡佐々木庄(現・近江八幡市)を追われた秀義は、母方の伯母の嫁ぎ先である奥州藤原氏を頼って落ちのびる途中、相模国の武将・渋谷重国に武勇を見込まれて食客することとなった。

子孫

  • 安倍宗任の三男・季任は肥前の松浦一族と姻戚関係となって「松浦実任」と称する。その子孫である松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍した。その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘は平知盛の三男の平知忠に嫁いだが、源氏の迫害から逃れる為に知忠一族は妻の祖父であり、松浦氏を名乗っていた季任(実任)の本姓「安倍」を名乗ったとされる。
  • 政治家の安倍晋三安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしている。

故事

岩手県盛岡市出身の貴族院議員で第18・22代東京府知事阿部浩は、平家物語にある「安倍宗任と梅の故事」にならい、安倍氏ゆかりの盛岡市安倍館町に別邸を建て、吾郷楳荘(現・一ノ倉庭園)と名づけた。これは、「吾が故郷の梅(楳)の荘」の意である。扁額の揮毫は伊藤博文で、現在は盛岡市原敬記念館が所蔵。厨川柵で潰えた安倍氏を偲び、同様の故事から盛岡市立厨川中学校の校章は「梅」を象る。

  • 「わが国の梅の花とは見つれとも 大宮人は如何か言ふらむ」 安倍宗任

日本中央の碑(にほんちゅうおうのいしぶみ)

 日本中央の碑(にほんちゅうおうのいしぶみ)は、青森県東北町にある石碑

日本中央の碑

1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。

発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。

これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。

一方、日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。

津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。

津軽の和田家文書では、安倍宗任の数代前の先祖がこの碑を作ったと記されている。

また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。

また、坂上田村麻呂はこの地に到達していないが、文屋綿麻呂はこの地に到達している。

2012年(平成24年)に青森大学学長であった盛田稔は、現在保存・展示されている「日本中央の碑」は後世の偽作であるとしている。盛田は、この石が鉄道を敷く時に無蓋貨車に乗せてきて、下の沢に落とした物であることを、地元で故人の地方史家から他言無用の約束で聞いたとしている。

現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。

滋賀県の県名

テレビで滋賀県の県名があまり知られていなくて、近江や琵琶湖が有名だから、県名変更の話もあると報じていた。
地名の由来は、石の多い地域を指す「しか」(石処)という言葉が転じたものと考えられる。
「滋賀」が明治時代に県名に採用されたのは、県庁が置かれた地域が「滋賀郡」だったこと由来するが、滋賀郡(現在の大津市)には「石山寺」「岩間寺」などの石に関係する寺社も古くから存在する。聖武天皇の時代に、一時、紫香楽宮が置かれたことも関係しているらしい。
近代では「滋賀」という漢字が用いられるが、これは「しか・しが」という音への当て字であり、漢字に大きな意味はないと考えられる。
そのため、これまでの歴史で多くの表記が存在し、志我、斯我、四賀、志賀などが使用された記録も残っている。
2006年に大津市へ吸収合併されるまでは、2種類の「しが」を用いた「滋賀郡志賀町」が存在していた。