今朝の放送大学の歴史と人で、山川健次郎がとりあげられた。会津若松の白虎隊の生き残りで、アメリカ留学後東大総長などをつとめた人物だ。敗れた会津藩の少年は、仲間たちの死を背負い、日本最高峰の大学を率いる教育者になった。
山川健次郎は、東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長を歴任し、日本の高等教育と近代科学の基盤を築いた物理学者である。
日本人として初めてアメリカで物理学の学位を取得し、理化学研究所の設立や工業教育の発展にも力を注いだ。学問の世界で頂点に立つ姿からは、十四歳で故郷を焼かれ、死と隣り合わせになった少年時代は見えにくい。
戊辰戦争で会津が戦場になると、山川と同世代の少年たちは白虎隊として戦い、飯盛山で次々と命を絶った。山川は年齢が若かったため、彼らと同じ最期を迎えずに生き延びた。
助かった喜びよりも胸にのしかかったのは、自分だけが生きているという罪悪感だった。敗者となった会津藩士の家に生まれた経歴は、新しい時代を歩むうえで重い足かせにもなった。かつての仲間たちは戻らず、故郷には焼け跡が広がっていた。
山川は剣の代わりに学問を握った。渡米後は異国の言葉と文化に苦しみながら物理学を学び、死ぬはずだったと感じていた命を、一日も無駄にしないように勉強へ注ぎ込んだ。
帰国後、研究者として頭角を現し、やがて複数の帝国大学を率いる立場に就いた。大学内の対立や政治からの圧力に直面しても、権力に迎合せず、教育と学問の自立を守ろうとした。会津で敗北を知った彼にとって、立場を失う恐怖より、信念を曲げる苦しさの方が重かったのだろう。
総長室で難しい決断を迫られるたび、山川の胸には、雪に覆われた会津と、帰ってこなかった少年たちの顔が浮かんでいた。彼が机に向かい続けた年月は、失われた仲間たちと共に生き直す長い歩みでもあった。
九州でも、九帝大や九工大(旧明治専門学校)の創設に貢献された人物として有名だ。
わたしは、九大を卒業後安川電機に勤め、九工大にも11年在籍していたので、縁が深い。
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| 九州大学 |
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九州帝国大学初代総長山川健次郎 (山川捨松の兄)
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わたしも会津では、白虎隊の記念館の写真や銅像をみたり、大学で胸像をよく見ていたが、若い頃の写真や兄の山川浩、妹の捨松の写真などは始めてみた。
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| 会津の山川記念館での筆者 |
福島と福岡の絆を深めた点では最大の貢献者であろう。