2021年10月30日土曜日

「ヤクルト事業創業の地」

 今年(2021)はセリーグでヤクルトが優勝した。

ホークス唐人通りに「ヤクルト事業創業の地」と書かれた小さな石碑が唐人町にある。
ヤクルトの創業者である代田稔(長野出身)は1930年、京都帝大助教授時代にヤクルト菌を発見し、貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」の理念の元に研究開発を行いました。


そして1935年に初代社長の永松昇(大分出身)が代田の想いに賛同して出資し 、この「発祥の地」近くに住む人物も、永松昇から誘われてヤクルトの創業に関わったのだそうです。



福岡市西唐人町(ホークスとうじん通り)の場所に「代田保護菌普及会」を作り、ヤクルトの販売を開始したのが起源なのだそうです。奇縁ですね。






英国人アンソニー・レゲット教授

 2003年にノーベル物理学賞を受賞した英国人アンソニー・レゲット教授は、半世紀以上にわたって日本人物理学者と親交を結び、国際交流に貢献してきた。


’70年代に極低温化で液体ヘリウム粘り気がなくなる超流動現象を、超電導の理論を用いて説明。これらの先駆研究により、2003年米国アルゴンヌ国立研究所のアレクセイ・アブリソコフ、ロシアのレベジェフ物理学研究所のヴィタリー・ギンズブルグとともにノーベル物理学賞を受賞。

彼はロンドンキャンバーウェルで生まれる。両親が数学者の家庭に生まれた彼は、若いころは哲学者をめざしていた。ソ連の人工衛星の成功などに刺激されて、進路をかえ、 奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジで学ぶ。

1965~66年代に、オックスフォード大学の奨学金で京都大学理学部に学び、日本語論文の英訳や閲読の仕事にも就いており、日本語が流暢である。その経験を元に理系論文の書き方「科学英語についてのノートを発表し、現在では基本の名著となっている。’73〜74年には東京大学でも研究に従事した。妻も日本人の晴子さんをえらんでいる。




その後、何回も京大・東大など所縁の地を訪ねて、かつての教え子らと対談を行い、知られざる異文化交流体験をひも解くことによって稀有な人物像を明らかにするとともに、未来の科学者に向けたメッセージを伝える。



英国と米国の国籍を持ち、米国芸術科学アカデミー会員, ロイヤル・ソサエティ会員, 米国科学アカデミー外国会員, ロシア科学アカデミー会員、東京カレッジ理事長など、国際的な活躍を続けている。

2021年10月29日金曜日

万里の長城


 万里の長城は、秦の始皇帝が造ったもの思っていたが、昨日のテレビによると、その前から作られた部分があるようだ。

今から2500年以上前の中国は春秋戦国時代。このころ、中国各地はいくつもの国にわかれていた。そのうち、強力な7つの国が中国にでき、これを戦後の七雄とよんだ。

そのなかで、北方の遊牧民と国境を接する燕・趙・秦の3国は遊牧民に対抗するため、それぞれ独自に長城を建設し、繰り返される北方遊牧民の攻撃に備えていた。遊牧民に対抗して長城を建設する目的は遊牧民の機動力を封じ込めることである。

そのために、高さ2メートルほどの壁を建設し、侵入を遮った。このころの長城は泥と葦でつくれたもので現代の印象と全く異なるものであった。それでも機動力のハンデを補うことができるため、一定の効力はあった。






秦の長城は現在の甘粛省岷県から北東に、黄土高原を貫いて現在のフフホト市トクト県まで伸びていた。
趙の長城は本来の趙の本拠地からはるかに北に離れた黄河の北岸から現在の河北省にかけて走っており、さらに黄河屈曲部の河套平原の北、陰山山脈の南麓にもう一本長城を建設していた。これは国土北部に広がる遊牧地帯への勢力拡張と、その先にある広大な可耕地である河套平原の確保を目的としていたとされる

燕の長城は長大であり、現代の河北省北部から遼寧省を取り囲むように伸び、さらに鴨緑江を越えて朝鮮半島にまで伸びていた。この長城は戦国時代初期に燕が東胡を圧迫して得た遼西・遼東の新領土を確保するために建設されたものであり、建設時期としては各国長城の中で最も新しいものの一つであった

その後秦が統一して、補強したり、その後漢の時代に西端の王門関まで延長され、その後に続く時代の国王が整備し、現在の長城は明の時代に東端の山海関まで完成した。


長城の工事に駆り出された若者のなかには、事故などで犠牲者となったものも多く、それを悼み悲しむ家族の姿も建てられている。

近世には、長城の補修の必要性を否定する国王も現れている。(康煕帝)
秦が長城を築いて以来漢・唐・宋など修理してきたが、その時代にどこに敵がいたか?



明の末期に我が太祖が大平を率いて侵入した時もすべての路を瓦解していまった。


国を安らかに見守る道はただ徳をおさめ民を安らかすることだ。

民の心が悦び服従していれば、国境も自ずから固まる。


いわば大衆の心が城そのものである。

 武田信玄と同じような言葉である。人は石垣、人は城。

天体物理学者ジョスリン・ベル・バーネル


 昨日のNHKで、失われたノーベル賞(女性天文学者とパルサーの謎)という番組をみた。

50年前にパルサーを発見した天体物理学者ジョスリン・ベル・バーネル(Jocelyn Bell Burnell)が、300万ドル(約3億3000万円)という高額の賞金で知られるブレイクスルー賞を受賞した。(2018年)

パルサーとは、高速で自転しながら電磁波を放射するコンパクトな天体(中性子星)で、彼女はその発見者でありながら、女性ゆえにノーベル賞を受賞できなかったといわれてきた。

ブレイクスルー賞選考委員会は、75歳になったベル・バーネルの科学的業績と、この50年間の「人々を鼓舞するリーダーシップ」をたたえて、基礎物理学ブレイクスルー賞の特別賞を贈った。



略歴:「Wik)

ベル・バーナルが初めてパルサーの信号を発見したデータ(ケンブリッジ大学図書館の展示)

彼女は北アイルランドベルファストで建築家の娘として生まれた。

1965年グラスゴー大学理学士。1967年にケンブリッジ大学大学院生時代にヒューイッシュらとクエーサーの観測するための電波望遠鏡の観測データのなかに非常に早く規則的に変化する電波信号を見つけた。天文学的には異常に短い周期である電波の、宇宙人からの通信ではないかとも思われた電波源には「緑の小人 (Little Green Man)」を意味する「LGM-1」(現・PSR B1919+21)の名が与えられたが、後に高速で回転する中性子星「CP 1919」が電波源であることがわかった。

パルサー発見の論文は5人による共著で、ヒューイッシュが最初でベルが2番目だった。ヒューイッシュはマーティン・ライルとノーベル物理学賞を共同受賞したが、パルサーの信号に最初に気づいたベルは受賞できなかった。選から漏れたことに対して、フレッド・ホイル を含む多くの天文学者が異議を唱えた。

なお、ライルとヒューイッシュの1974年度ノーベル物理学賞の受賞理由としてスウェーデン王立科学アカデミーは「電波天体物理学の先駆的研究」を挙げ、ライルに関しては「開口合成技術の開発」、ヒューイッシュに関しては「パルサーの発見における決定的役割」としている。

その後1969年にケンブリッジ大学でPh.D.を取得し、サザンプトン大学指導教員(1970年 - 1973年)、ロンドン大学ムラード宇宙科学研究所研究員(1974年 - 1982年)、エディンバラ王立天文台英語版研究員(1982年 - 1991年)、オープン大学物理学講座教授(1991年 - 2001年)、プリンストン大学客員教授バース大学理学部長 兼 教授(2001年 - 2004年)を務めた。

2002年から2004年までイギリス天文学会会長、2008年から2010年まで英国物理学会会長を歴任、2011年初めには後任のマーシャル・ストーンハム英語版会長の急死を受け会長代行を務める。現在はオックスフォード大学客員教授 兼 マンスフィールド・カレッジフェローを務める。2003年王立協会フェロー選出。

ブレイクスルー財団より2018年の基礎物理学ブレイクスルー賞特別賞の授与が伝わると、ベル・バーネルは賞金230 万ポンドは全額を寄付し、女性や少数民族、難民の学生が物理学研究者になる道を開くよう、基金を設立して管理は英国物理学会の部署(英語)に託すと発表した。現在、「ベル・バーネル大学院奨学金基金」として運用されている

2021年10月28日木曜日

安曇目(阿曇目)

 阿曇氏は早くより海人を支配しており,《日本書紀》に,応神天皇のとき,阿曇連(むらじ)の祖大浜宿禰(すくね)を遣わして諸所の海人の騒ぎを鎮めさせ,宿禰を〈海人之宰(海人の統率者)〉としたとあるのも,これまでの阿曇氏の立場が公認されたことを示すものであろう。

履中天皇のとき,阿曇浜子が住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)の反に加担して黥刑(げいけい)に処されたので、入墨を阿曇目と称したという。



(以後しばらく顕著な活動を見なかったが,推古朝以後再び活動し始め,とくに阿曇比羅夫は半島問題に関係し,後に天智朝初年の百済救援の役には大将軍として水軍を率いて参加した。)

縄文時代から弥生時代までの倭人は、顔面に入れ墨をしていたことは、文献や土偶などから、知られている。



古墳時代以降になり、近畿地方だけ、急に入れ墨がなくなり、罪人のそのその証として入れ墨が行われれるようになった。

近畿地方のみ入れ墨なし。

近畿地方に、他民族が大勢侵入してきたか、この地方に新宗教が発生したか、おおきな文化的変化が起こった証拠である。

ディオールの製品

 昨日のテレビで、戦後フランスのファッション界に登場したDiorが紹介された。





美智子妃の婚礼衣装をデザインしたことで、日本でも有名である。


わたしも、パリーに何度か出かけた時、家内の買い物につられて、Diorのベルトを買ったが、使い勝手がよくて、いまでも愛用している。


その後買ったChirtion Saymonのベルトは、重すぎて傷つきやすかった。


2021年10月26日火曜日

滋賀県の県名

 テレビで滋賀県の県名があまり知られていなくて、近江や琵琶湖が有名だから、県名変更の話もあると報じていた。

地名の由来は、石の多い地域を指す「しか」(石処)という言葉が転じたものと考えられる。
「滋賀」が明治時代に県名に採用されたのは、県庁が置かれた地域が「滋賀郡」だったこと由来するが、滋賀郡(現在の大津市)には「石山寺」「岩間寺」などの石に関係する寺社も古くから存在する。聖武天皇の時代に、一時、紫香楽宮が置かれたことも関係しているらしい。
近代では「滋賀」という漢字が用いられるが、これは「しか・しが」という音への当て字であり、漢字に大きな意味はないと考えられる。
そのため、これまでの歴史で多くの表記が存在し、志我、斯我、四賀、志賀などが使用された記録も残っている。
2006年に大津市へ吸収合併されるまでは、2種類の「しが」を用いた「滋賀郡志賀町」が存在していた。


2021年10月25日月曜日

京都の島原

 京都の夜の観光地島原には観光バスで行ったことがある。昨日のラジオで、江戸時代に六条河原から今の右京区に移されたという話をきいた。調べてみると明治初期まで島原周辺は田圃の真ん中だったようだ。丁度移転が島原の乱の後だったので、島原という地名がついたという。


松山英樹の圧勝

 2年ぶりの日本開催となった「ZOZOチャンピオンシップ」は、松山英樹の圧勝で幕を閉じた。これでPGAツアー通算7勝を達成。今年の「マスターズ」制覇に続き、日本のファンを大いに沸かせるニュースとなった。


最終日、一時トップの座を米選手に奪われて時は、オリンピック戦の二の舞かと心配したが、そのあとバーディー、イーグルなどの好プレイと、相手のミスで、5打差の圧勝となった。


2021年10月24日日曜日

エッフェル塔の建設秘話

 エッフェル塔の建設秘話のテレビをみた。公共の計画による建設と思っていたが、エッフェルが75%の資金も負担していたのに驚いた。あらためてかれの経歴をしらべてみた。

エッフェルの略歴(WIKの抜粋)
1832年12月15日一家の長男として、フランスのディジョンに生まれる。家系はフランス革命時にその姿を消した王室室内装飾業者で、彼はそれを誇りに思っていたと伝わる。10歳の時、教会と風車がある箱庭を一人で造り、その見事さに人々は驚いたと伝わる。
中等学校を優秀な成績で修了後、1850年パリに出てパリ大学に付属したコレージュ・サント=バルブ (Collège Sainte-Barbe) に学ぶ。1852年にエコール・デ・サントラル(中央工芸学校)化学科に入学。一年間の学業を終えて、中央工芸学校からの技師免状を取得する。
卒業後一時は義理の弟が経営する鉄鋼所に勤めた後、自らの今後を考えたすえ鉄道関係の仕事をすることになる。当時フランス全土に鉄道網建設の計画が進んでおり、鉄道に興味を覚えたとされている。
1856年、鉄道資材建造業シャルル・ネブザーと出会い、土木技術を修得する。ネブザーには目をかけられ、当時有名な科学者に次々と引き合わせてもらったという。
1858年〜1860年、7スパンの含む延長500mの大鉄橋ボーデラックスの橋梁工事でその工事のすべてを担当。圧送空気を用いた杭打機を使用して建設技術者として貴重な経験を得る。この工事の功績により、ポーエル社より個人名での商談を許されるようになる。
1862年マリー・ゴドレと結婚、5人の子をもうけた。1864年外部に個人商談用の技術コンサルタント事務所を発足させる。
まもなくヨーロッパをおそった経済危綬によってポーエル社工場は閉塞に陥る。
このため1866年ルヴァロア・ペレ(バリ市北西近郊)にサントラルの後輩で資産家T・セイリグをパートナーとして独立、エッフェル社を創業する。
独立後の仕事は、万博の展示場、駅舎ホール、チャペル構造、ガス工場、鉄道高架橋、可搬橋や可動橋、天文台の丸天井など多種の鉄骨造にわたり、ヨーロッパ各地はもとより中国や東南アジアまで広い範囲に及ぶ。
1875年にはハンガリーのペスト市終着駅とポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋の工事を受注する。
1876年1月に着工し1877年11月には開通式を迎えたドゥロ河マリア・ピア鉄道高架橋(ポルトガル)は、全長353m、中央のアーチはスパン160m、ライズ37.5mの大鉄橋であり、当時つり橋を除けば世界一の長スパン橋梁ある。
1878年の万博パビリオンやアーチの長き110メートルのタルド河にかかるエヴオー高架橋(クルーズ県)を建設する。
1880年フランス・ガラビーの鉄道高架橋(フランス・カンタル県)はアーチスパンは165mで渓谷の底らは122.2m、輪脚の高さは89.64mである。
その他実績として工場、軍隊用組み立て式の橋梁などもある。
エッフェル塔(建設過程)
1884年、パリ万国博覧会においてシンボルとなる建物のコンペティションがおこなわれ、エッフェル社鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクランと組立工法部部長エミーユ・ヌーギエらは1884年6月6日には塔の原案を作成し、建築部長ステファン・ソーヴェストルに相談する。図案にほ地面と第一プラットホーム(2階)との間に半円形の巨大なアーチがあったが、最終案は現在見られるように、アーチの役割は補助的なものとなり、全体に機能主義的構造になっていた。1884年9月18日エッフェル、ケクラン、ヌーギエの3人で鉄塔の新案特許(164364番)を登録し、同年9月27日、設計図はバリ装飾美術展に展示された。
1887年から1889年にかけて、革命百周年記念となるパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔をシャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建設することになる。これが有名なエッフェル塔である。完成当時は賛否両論だったが、今ではパリを代表するシンボルとなっている。
7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した。
これらの資金は当時パナマ運河建設工事に伴う事業利益をあてたとされるが、のちに裁判沙汰となった。
また20年後にパリー市に引き渡し、解体される契約も、無線通信の実験場所となり、さらに軍の通信設備や電波放送の設備として利用されて今日にいたっている。
自由の女神像 (ニューヨーク)のも参加。
「世界を照らす自由の女神」-フレデリク・バルトルディの彫刻による自由の女神像は鉄の骨組みの上に銅をかぶせたもので、1884年パリで製作しアメリカへ贈られ、1886年ニューヨークで祝賀会が催された。
1889年にはパリの女神像も担当。また同年には民間技師協会の会長に就任。
その後パナマ事件で罰金つき有罪とされたが、最高裁判所で無罪となる。パナマ事件はパナマ運河建設をめぐる.第3共和制最大の政治・金融スキャンダルで1881年レセップスがパナマ運河建設に乗り出したが、1889年事業清算。この際におけるフランス政界への政治工作が問題化した。
エッフェルは建設業者として建設事業に参加し、事件に巻きこまれ起訴された。判決ほ懲役2年、罰金2万フランであったがエッフェルは控訴し、最高裁で無罪となる。
しかしこの事件は長く心の痛手となった。この時に、エッフェルは会社経営から身を引き、娘婿のアドルフ・サルと旧友モーリス・ケクランに経営を委ねる。
晩年はエッフェル塔の4階にサロンを設置し、ここで気象観測、天体観測、生物学的観測、無線逓信研究にいそしみ、これに当代一流の科学者が研究に参画した。
また彼は多くの経験の中で風に対する問題を認識していたが、1903年、70歳をすぎて改めて風の制御に関する研究にとりかかり、1909年エッフェル型と称される風洞を建設した。その後この風洞はパリオトゥイユに移され、本格的な風の研究が続けられる。風洞によって科学的な風の解析をはじめ風の科学が確立され、風の現象は視覚化された。これは当時実用化に向けでの開発の緒についた航空機の進歩に大きく貢献するものとなり、自身もついには.L.E(ラボラトワール・エッフェル)と名づけられた航空機の設計にまで手をかける。
妻には1877年に若くして先立たれ、続いて父、母を失ってはいたが、1920年に引退の後は孫たちに囲まれ、おだやかな晩年をすごした。
1923年12月27日にパリの自ら設計した自宅で死去。91歳。パリのルヴァロワ・ペレ墓地に眠っている。
1996年に発行されたエッフェル肖像200フラン紙幣の表にはガラビ橋、裏にはエッフェル塔が描かれている。

天平文様

 今日の読売新聞の正倉院展の記事で、4年前うちの娘が出版した本のことが紹介された。






地下洞窟(ヴィエリチカ岩塩坑)の中の教会

 ポーランド南部のクラクフ市近郊にある地下洞窟(ヴィエリチカ岩塩坑)の中の教会。

かって岩塩を採掘した地下洞窟を利用してつくられたそうだ。磨きあげられた壁や床は大理石のように光っている。今朝のBSで紹介された世界遺産。

2021年10月23日土曜日

硫黄島周辺の隆起

 


硫黄島は非常に平らな土地が広がっている島です。




かつて太平洋戦争で激戦が繰り広げられました。その島が今隆起しています。

今海岸沿いに構造物のようなものが見えます。これは沈められた船です。

アメリカ軍が港を作ろうとして船を沈めたというその船が、島の隆起によって、今むき出しの状態になっています。

(防災科学技術研究所 中田節也火山研究推進センター長談話)

「硫黄島は日本の中で110ある活火山のうちで一番変化が激しい火山なんですね。一気に1カ月あたりに10cmくらい隆起することもあり、7年で7mも高くなっています。特に今の時期は西之島、福徳岡ノ場、硫黄島、同時に活発化してる時期だと思うんです。」

周辺の小笠原列島では、海底噴火や、地上噴火が続いており、それによる軽石が、沖縄諸島の海岸に流れ着いて、白浜がよごれたり、養殖漁は死亡したりする問題問題がおきている。

8月からの噴火で35年ぶりに新島ができた小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」で、火砕流に特徴的な痕跡がある。(南硫黄島の近く)
火砕流の堆積(たいせき)物は比較的硬く、島が波に削られるのを防ぐ効果があるようだ。それでも、軽石や火山灰などでできた島は軟らかく、この1カ月で面積は3分の1に縮んだ。専門家も長く残るのは難しいとみている。




この地域は、太平洋プレートとフイリッピンプレートの接触線上にある。隆起が安定して、日本列島の拡大になることは、望めないようだ。

2021年10月21日木曜日

博物館の展示手法

 博物館の展示手法は時代と共に変化している。

その事例として、国立の東博と九博を例にとり、放送大学で説明していた。
東博は、西欧の博物館を模範としてつくられて重厚な建築物であり、展示品も、国宝級の名品をあつめて、その品物の種類ごとに部屋に分類して展示するのを原則としていた。
九博は、その100年以上あとにつくられた博物館で、建築も総ガラス張の軽快な構造にかわった。
展示も物中心からはなれて、歴史、文化のストーリーを主にした展示に変化した。だから展示テーマによって、何回も会場に足を運ぶ人がふえる。
東博も最近は、物中心から、時代ごとに分類する展示方法に変化している。・・・など。
学校より面白い。図書館よりわかりやすい。そんな方向に変化していくのだろう。