2022年3月15日火曜日

古事記と地元の神社

 先日のテレビ番組で、古事記に記載された各地の神社とその地区の風土記が紹介された。

北部九州では宗像大社と志賀海神社が取り上げられた。

念のため古事記の本をめくってみると、宗像大社はアマテラス大御神の項に、奥つ宮や胸形三神などが数か所に見つかるが、志賀海神社はすぐには見つからない。

イザナギ命の項に、禊をされたときの三柱のワタツミの神の子孫のアズミ連の本拠地としてでてくる。

両方とも古くから伝わる地元の珍しい儀式(山ほめ、鹿おい、海女のまつりなど)が紹介され、古事記色の濃いい番組だった。

宿理 英彦、辻本 和子、他10人

2022年3月14日月曜日

量子コンピューターなど

 新しい計算機の登場のニュース:2018年3月

新しい計算機能を処理するためにインテルが取り組んでいるのが、量子コンピューターである。インテルはすでに49量子ビットの量子コンピューター用チップ「Tangle Lake」の開発に成功している。量子コンピューターの処理は、これまでのコンピューターが音速だとすると、光の速さで動作するという。量子コンピューターによって、無限の組み合わせの計算をすばやく行なうことができるため、薬物開発などに多大な効果が上げられる。
さらにインテルがもうひとつ注力しているのが、人間の脳をモデルとした脳コンピューターで、すでに「Loihi」というチップセットを発表している。現在のコンピューターはナノ秒で動作し、クロックによって同期して計算を行なう。これ自体はかなりの効果はあるものの、数十から数百ワットの電力が必要となる。一方人間脳はニューロンをシナプスで大規模に相互接続したシステムで、たった20ワットの電力で処理をおこなっているという。 膨大な量のデータとその処理、さらにそこから学習した結果をもとにした推論をいかに高速に行なうか、それが「The Renaissance Of Compute」であり、社会を変革させられる可能性なのである。

この記事から4年けいかしているが、開発実現のニュースは?

日本政府もそういった流れの中で2020年、「量子技術イノベーション戦略」を策定。この戦略に基づいて産官学が結集し、基礎研究から技術の実証、人材育成まで多角的に取り組み、海外の研究者らとも交流して国際的な研究を行う「量子技術イノベーション拠点」を創設することを決めた。

選ばれたのは、量子コンピュータの開発拠点として理研、そのほか、産業技術総合研究所、東京大学-企業連合、大阪大学、情報通信研究機構、量子科学技術研究開発機構、物質・材料研究機構、東京工業大学の八つだ。2018年に一足先に始まっていた文部科学省の大型研究プロジェクト「光・量子飛躍フラッグシップ・プログラム(Q-LEAP)」においてヘッドクォーターの一つを担っていた理研は、8拠点のまとめ役である「中核組織」の役割も担う。 2021年3月のニュース

今年のニュースを早く知りたい。

2022年3月13日日曜日

瀬戸内海と地中海の火山島の地質類似点

 瀬戸内海には多数の小島がある。ブラタモリで、淡路島と小豆島に訪れたときの番組をみた。

共通していたのは、日本列島にフイリッピンプレートが衝突した時にできた岩盤の形成であった。


1500万年前の衝突

中央分離線の発生

淡路島や小豆島島など、瀬戸内海の火山島の発生

地中海でも、欧州大陸とアフリカ大陸のプレートの衝突で、同じように火山島が沢山発生した。

ある時期では、ジブラルタル海峡がふさがれ、干潟になったこともあるという。

干潟で火山が多発の時代


多くの火山島からなるイタリア・エオリア諸島周辺の海域は、火山ガスなどの危険性から海中調査が行われてこなかった。

最近世界的なダイバーと火山学者からなる調査隊が、この海域の調査を実施し、火山活動が作り出した200もの石柱群を発見!

さらに地中海がかつて干上がったという痕跡も。



左は一般的な火山島、右はストロンポリ島

火山島の地質は、安山岩、火山角礫岩、花崗岩の重なりで、地中海と瀬戸内海の地質は良く似ている。

これを裏付ける証拠として、オリーブの栽培がある。

日本で明治時代にギリシャのオリーブ栽培を国内3ケ所で試したところ、小豆島だけが成功した。

小豆島でオリーブ生産が盛んになった理由は、ここの花崗岩で出来た「マサ土」にあった。気候条件も類似していたようだ。

1973年に堀本文治・小豆島バス社長が平和を祈念しギリシャ風のオリーブ神殿と平和の鐘を建立したことに端を発する香川県・小豆島とギリシャ・ミロス島との交流。

1989年の姉妹島提携の調印式。

2007年3月には姉妹都市提携15周年記念事業として小豆島から中学生らによる「二十四の瞳友好使節団2007」がミロス島を訪問。

2016年にも小豆島の中高生13名を中心に結成された「二十四の瞳友好使節団2016」ミロス島を訪問。


2022年3月11日金曜日

インターネットとモバイルの進化年表

 




「ほんたうに俺でよかつたのか」

 

「ほんたうに俺でよかつたのか」NHK

2022年3月10日にみる。

妻に先立たれて12年。京都に住む永田和宏74歳(歌人・生物学者・京都大学名誉教授)は妻・河野裕子(歌人)が残した結婚以前の日記を読み、青春時代に妻が2人の男を愛し苦悩していたことを知る。


永田が向き合うことになった妻の真実。70歳を過ぎて日記に心を動かされ、自らの青春をたどり直し、残りの人生を新たな気持ちで生きていく永田の姿を京都の四季の中に追う。


生物学者である大隅良典(ノーベル賞受賞者)とも親交があったことが後半に紹介され、親近感が急増した。




会食中の大隅(左)と永田(右)

大隅博士


永田の研究もノーベル賞の可能性ありという解説いりであった。現在はJT生命誌研究館館長をつとめている。

みずからの苦悩をはらすため、東海道を京都から、東京まで一人で歩き、独り言をつぶやきながら、それが妻との対話であったという。


永田夫妻

青春時代に、京都での短歌で結ばれた二人は、最後まで短歌の詩人であった。

2022年3月10日木曜日

神功皇后伝説と射手引神社(射場の地名)

 古賀の神々の歴史講座があった。神功皇后伝説の研究者須永敬教授の講演である。

福岡県には神功皇后伝承の神社は100以上あり、古賀にも5社ある。ただ近くの宮地嶽や香椎、名島ほど有名ではない。







100社の本を読み直していたら、家内の姓に関連する神社をみつけた。嘉麻市の古地図に射場という地名があり、その近くに射手引神社がある。








この地区に羽白熊鷲なる悪党がいて領民を苦しめていた。神功皇后は天の射手を率いて征伐された。里人は香椎宮より祭神を戴き、この地に祀り奉ったという。神功皇后が弓を引く像が境内にある。



その他、見分けの会で話題になった少彦名命も福津市に多いらしい。そんな話が聞けたらよいがと思っている。
射手座は、アルテミスから狩猟を学んだケンタウロスであるケイローンが弓を引く姿で親しまれている。ヘーラクレースが誤って放った毒矢が当たり、苦痛のためゼウスに死を願って聞き入れられ、彼の死を悼んで天に上げられて星座となったとする話が定説となっている。



10月に息子の車で現地にでかけたが、嘉麻市の射手は神功皇后で、弓を引く姿の現代的な銅像と不思議な犬?馬?の銅像があった。



2022年3月9日水曜日

福岡城の資料と天守閣の有無

 関が原のあと黒田は筑前52万石に移封され一旦名島城に入るが、すぐに福岡城の建築にかかる。

この時代の築城は、山城から平城にかわり、複雑な堀と石垣に守られた天守閣がシンボルとなる形態が主流であった。

熊本城だけは西南戦争のときまで存続していた天守閣が確認されているが、中津城、福岡城の天守閣の存在は最近まで不明確のままであった。

しかし加藤清正が熊本城を改築していたとき、黒田如水が見学にきたという記録があり、福岡城にも熊本城と同等の天守閣を計画したと考えられる。

黒田のあとに中津城にはいった細川忠興は、その年の年貢を黒田がもちさったことから不仲になり、中津から小倉に城を移して常に黒田を監視し、築城のデータを徳川に報告した記録がある。

そのなかに天守閣が記録されている。これが福岡城の天守閣存在の確証の一つである。

最近そのほかの調査資料からも天守閣の史料がかなり詳細に解かってきたようだ。






中津や熊本の市民が天守閣を再建したのに、福岡市民が戦後いまだに天守閣の再建を考えなかったのは、黒田以前からの博多商人魂のせいであろう。
せめてCG再現図で幻の天守閣の姿を楽しもう。

下の図は福岡城天守閣のCG復元図 (佐藤正彦著 甦れ 幻の福岡城 天守閣より)


かっては福岡城に天守閣は存在しなかったという説が優勢だったが、現在では一度建設されたあと徳川幕府の嫌疑をおそれて取り壊されたとする説がほぼ確実視されている。

わたしも、もと福岡市長の桑原さんが博物館長時代に、館の研究者たちの調査結果をまとめて講演されたのを聴いたり、九州産業大学の佐藤教授の著書「甦れ!幻の福岡城天守閣」をよむと、天守閣の存在した確証が沢山発見されているので、天守閣があったと信じるようになった。

上のCG復元図は佐藤先生が調査されたものだが、熊本城におとらぬ立派な天守閣である。

1619年福島正則が広島城の改築で幕府から嫌疑をかけられ失脚した事件から、各藩で天守閣や御殿をこわしたり縮小した例が沢山おこった。

黒田藩もこの時期に天守閣を取り壊し、当時の大阪城の再建用資材として献上したと推測されている。

 豊臣方から徳川方に移った外様大名たちは、生き残りのために大変な犠牲をはらっていたことがわかる。

画像/庄林半助『旧稀集』〜若殿美濃守様初入国図〜/上之橋をいく黒田長溥隊列




中島宏(人間国宝)逝去

 


2022年3月6日日曜日

源氏物語千年紀(2008年)

 

源氏物語千年紀(2008年)

今年の博多山笠の飾り山には、源氏物語の人形が3箇所にも登場した。

源氏物語に登場する人物で九州までやってきた人物は「玉鬘」ただ一人というのに、千年紀に協賛しての話であろう。 玉鬘は大宰府でうまれたという人までいたが、それはあやまりで、母の夕顔の死後、乳母につれられて筑紫にくだってきたのだ。

千年前には著作権もないし、出版社もないし、日付の入った文書もない。一番古い写本で1258年に写したと記載されているものがあるだけだ。

厳密には源氏物語の存在が記録された別の文書があり、千年前に宮中に流布していたと判断されて、千年紀になったという。

それは紫式部日記「寛弘5年11月1日:敦成親王五十祝」の記事からで、写真の絵巻に描かれた宴会の場面の会話に若紫や源氏の君の話が出てくるから間接的に判断しただけで、直接的な日時の表現は全くないままである。


その会話とは、左衛門の督「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、・・・というくだりである。

写真の絵では、一番右の蚊帳のなかの人物で、右の小手をかざしてなにやらものいう風情の男性が藤原公任(カネトウ):左衛門である。


さらに11月1日を古典の日にしようという提案まででているそうだから驚きである。

(以上は源氏物語研究者の九産大:田村隆先生から今日きいた話)

旧制福岡高等学校の思い出(六本松)

 

旧制高校の思い出

旧制高校が無くなって55年、現在の大学生にその姿を知ってもらうために、九州大学の図書館で写真展が開かれた。
わたしが在学した福岡高等学校は戦争末期で、1年間短縮されて2年間だけでの繰上げ卒業であった。
しかも3ヶ月間は工場動員で学校には居なかったから、他の学年の諸君よりは縁の薄い時代である。
今回の写真展にでかけたので、その幾つかを紹介する。
講堂の内部

開校式式典

授業風景(秋山先生)

歴代校長

教授陣


校舎の学生
日時計はヨット部の集合場所だった


同窓会(青陵会)活動は一応毎月天神でひらかれているが、会員の高齢化により集まるメンバーが減少している。他の高校ではすでに解散したっところもあり、福岡はまだいいほうらしい。
最近では五高、佐高、山高のOBで福岡在住の方が青陵会に合同参加されている。
山口などは、大きな都市がなくて地元在住者が殆どいないので、最後の総会を東京で開くそうだ。
全国の寮歌祭もあと5年くらいで終了となる予定だ。旧制高校の復活論もあるけど、実現できそうな気配はない。いよいよ終焉の時期がせまっている。(2008年)

福岡の六本松という地名には、歴史的な由来はないようだが、湘南の六本松塚は、頼朝の鎌倉入りの古戦場である。


ブラタモリ「那覇は2つある?」

 ブラタモリ「那覇は2つある?」では、浮島の跡や今ではなかなか見れない米軍基地内の歴史をみせてもらった。いまの国際通りあたりは湿地帯だったという。





2022年3月5日土曜日

ウイルスと人類の戦い

 1720年ペスト、1820年コレラ、1918年スペイン風邪、2020年コロナ。

100年に1度の周期だが、過去の流行の被害者と収束期間を調べてみた。

はっきりわかるのは「スペイン風邪」で、1918、1919年の2年間で3波にわたって流行、多くの命を奪ったインフルエンザだ。
さも発生国であるかのようなスペインだが、そうではない。
第1波の流行は18年春、米国とフランスの米軍駐屯地で始まった。その時の毒性はさほど強くなかったが、同年8月、米軍が下船したフランスの港湾都市、米国のボストンなどで同時多発した第2波は感染力が強く、当時の医療技術では手の施しようがなかった。米兵だけで6万2千人が犠牲になり参戦していた第1次世界大戦の同時期、欧州戦線での戦死者数を上回った。
スペイン風邪ではなく、アメリカ風邪とした方が的確だった(H・P・ウィルモット著「第一次世界大戦の歴史大図鑑」)。

コロナは、現在の医学と国際的協力体制でも、はたして半年で収束できるだろうか。

2年前、こんな予測をしていたが、コロナの新種が次々に発生して、2年たってもまだ流行中である。
 ウイルスと人類の戦いは、まだまだ不明だらけ。

感応機雷

 


昨日の読売新聞に「米軍が日本近海を機雷封鎖」の記事がでた。
米軍は第二次世界大戦での日本本土の攻撃に機雷を戦略的に使用し、1945年3月27日から8月14日までの「飢餓作戦」では、のべ1,200機のB-29によって計1万発の沈底機雷を日本近海の海上交通路に投下した。
特に4千発は関門海峡周辺に投下された。新聞では触発機雷のように記載されていたが、実際は感応機雷(艦艇の磁気により乱れた地磁気に感応する磁気機雷)であった。引き揚げた機雷を九大工学部や三菱電機長崎で調査したら、数回船舶が通過したあと、大型船が通過するときに破裂する仕組みになっていた。私は調査に直接には参加しなかったが、機雷の本体を研究室の横でこわごわと眺めていた。
大先輩、三菱電機長崎の進藤貞和氏(のち社長)は、長崎原爆投下の当日、通常の職場をはなれてこの制御部品を別工場で調査していたので、爆風をのがれたと、自叙伝に記載している。
米軍の狙い通りに港湾や海峡で船舶の被害が増大し、日本の海上物流は麻痺状態となった。
日本側は飢餓作戦による機雷の掃海に、戦後20年以上を費やす事態となった(関門海峡などにはまだ残されている)。