2022年1月31日月曜日

竹下しづの女

 短夜や乳ぜり泣く児の須可捨焉乎  竹下しづの女 『颯』

 須可捨焉乎 : 須く捨つる可き焉乎(すべからくすつるべきか)(反語)
 


【読み】 みじかよや ちぜりなくこを すてちまおか

 

【意味】 

  短い夏の夜が明ける。乳をせがんで泣く我が子を、捨ててしまおうか (いやそんなことはできない)…

竹下しずの代表作である。




この、乳ぜり泣く児は、九州大学名誉教授の竹下健次郎先生であった。

転倒して脳に障害は発生していたため、泣きじゃくっていたそうだ。

翌日、目がはれ上がり、そのことがわかり、しづのママは必至で看病し、無事回復された児は、成長して九大工学部で有名な教授となられた。

私は九産大時代にお世話になり、晩年に自費出版された自叙伝を2冊もいただいた。

そのお孫さん(しづの女のひ孫)が、いまテレビで活躍されている竹下隆一郎さんである。



竹下しづの女、3つの碑  : 田舎散人のつぶやき (exblog.jp)

鹿児島の照国神社


 曾孫の七五三(3歳)と生後1ヶ月のお宮参りをした写真が送られてきた。

お宮は鹿児島の照国神社である。いま大河で活躍中の島津済斉彬公を祭る神社である。
古地図を調べると、天保年間では東照宮などがあった場所で、福岡の照雲神社と同じ歴史の経緯をもつ神社だ。
おもいがけず斉彬公との縁ができた。



稚児鎧兜の写真のカラー化

 稚児写真のカラー化(AIでなく幼児の記憶でCGにより最小限に)




2022年1月30日日曜日

天気晴朗なれど波高し

 昨日のテレビによると、日本海海戦の日の天気を、「天気晴朗なれど波高からん」と予測したのは、当時にの気象予報課長岡田武松氏だったようだ。有名な秋山の電文は、岡田の予報文を引用したものだった。

この名前を聞いた時、手元に残っているかれの気象学講和の本を思い出した。旧制高校でヨット部にはいったとき購入したもので、昭和17年の初版である。ただし原著は明治40年代で、昭和になって大幅に改稿された初版である。そんな権威者とは知らなかったが、いい思い出となった。


武漢市:黄鶴楼

 今コロナウイルス発生の地として封鎖されている武漢市。

30年ほどまえ、長江下りをして、2日ほど滞在した。

長江とその最大の支流漢江の合流点に位置する交通要衝である。中国中部で長江中流域のメガシティで、中国有数の工業都市、文教都市でもある。
はっきり記憶に残っているいるのは、黄鶴楼と長江大橋くらいだが、ホテルも中庭に噴水のある清潔な感じであった。ウイルスは旅行者の知らない下町の魚市場から発生したらしい。
写真の説明はありません。
宿理 英彦、辻本 和子、他12人

伊丹の有岡城

 大河「麒麟がくる」で、信長に反旗をあげた荒木村重が、有岡城に籠城し1年以上も反抗したということで、伊丹の有岡城が紹介された。

30年ほど前、次男が伊丹に住宅を建てたので、数回訪問したことがある。JR伊丹駅のすぐ前にある有岡城あとは、石垣だけが残る公園になっているが、1年も籠城できるような大きな城跡ではなかった。
現在は当時の一部だけが、残っているのだろう。



「ナポレオン街道」

 今朝のBSでナポレオン街道の紹介をみた。

ナポレオン一世といえばフランス革命を清算し、ブルジョアジー支配体制を安定させる役割を果たし、1815年いったん失脚し幽閉された地中海のエルバ島を脱出し、カンヌに上陸、「百日天下」といわれる再度の皇帝になった。
ナポレオンが400人余の兵士を伴ってパリへと向かった。その道は1932年に整備され、現在はカンヌからグルノーブルへの約350kmが「ナポレオン街道」(N85号線、国道)と名づけられ観光道路となっている。
アルプス山脈の南西部を通過する道路になるので、地形は急峻で奇岩が多く、風光明媚であった。
その昔ジュネーブに行った時、日程上取りやめた観光を、今日やっとテレビ観光できた。


中国への経済援助

 中国と日本は、明治維新以後、日清戦争、日支戦争と2回戦い、中国人の反日感情は深い。

2次大戦後中国は毛沢東の計画経済が失敗して低迷している間に、敗戦国の日本が高度成長して世界第2位の経済大国に成長した。
日中国交が成立したあと、鄧小平による改革開放政策に対して、日本は中国の経済成長を支援するため、鉄鋼や石油などの生産技術のため500億の資金援助をだし、多くの企業が宝山製鉄などのプラント建設の技術援助をした。
途中インフレのため行きずまった中国に、さらに3000億円の民間資金を追加して、これらのプラントの建設を成功させ、今日の中国経済の立ち上げを成功させた。
当時の中国幹部はそのことを大いに感謝しているが、平成中期以後の中国幹部はこれらのことをすっかりわすれているようだ。
戦争による被害記憶は大衆のなかに100年以上残るが、技術、経済援助などは一部の人物の記憶のなかに10年程度残るだけであろう。


2022年1月28日金曜日

吉田松陰の幽囚録での主張

 吉田松陰が幽囚録にかいた主張を、磯田道史さんが読売新聞に紹介しています。

その日本の目指すべき国土の広さは、私の中学時代の教科書の地図と同じでした。

縄文文化の名残

 古代史の学者は、縄文時代には戦争は無かった、縄文人は争いごとをしなかったという。

縄文文化は1万年以上続いたのに戦争をせずに済んだのはなぜなのか?
それを、現代の文化人類学者が体験していた。
カリマンタン(ボルネオ)島の山岳地帯に住む千人くらいの民族の調査(フィールドワーク)にでかけた若手民族学者の体験話である。
彼らは山地に狩猟に出かけると、獲物の肉をグループの頭数で均等に分けあたえる。
外部企業による森林伐採の補償金も均等にわける。
日本から来た調査員が持ち込んだ食糧なども、勝手に持ち出して分配する。持っている通貨も、たびたび借りにくるし、返す気配もない。
純粋な共産主義の考えだ。格差のない生活習慣だから争いごとはない。まさに縄文時代の文化が、現代にもわずかに残っているという。


京都の宮家ゆかりに旅館

 京都には、宮家ゆかりに旅館がある。わたしが利用して知っているのは次の二つである。

しかし、まだほかにあるかもしれない。

京都御所に近い鴨川のほとりにある「くに荘」は、香淳皇后がご幼少の一時期をお過ごしになられた久邇宮邸跡地に立つ宮家ゆかりの旅館である。

京都吉田山の中腹に位置する「吉田山荘」は、昭和天皇の義理の弟君、東伏見宮家の別邸として建てらたものが、戦後、その壮麗な姿のまま料理旅館となり、宿泊・宴席として利用され、気軽に立ち寄れるカフェ真古館(しんこかん)もある。

吉田松陰の実像

吉田松陰の実像について磯田道史さんは、今日の読売新聞で、五代目の円楽師匠に似ていると書いている。

早速ネットで両者の画像をさがしてみると、たしかに類似した風貌である。円楽のように話が楽しくうまかったらしいから、松下村塾は笑いがたえなかったかも。

2022年1月27日木曜日

"Q"とは何か?

 "Q"とは何か?


 "Q"はアルファベットの17番目の文字。
この"17"という数字に重要な意味があります。
 というのは、"17"は 7番目の素数であり、聖書でいう「天地創造」の一区切りともなり、キリスト教的な表現をすると、神の安息の7日目を意味し、これを一千倍として算出され預言されたのが「神の千年王国」。
 21世紀は、既にいつそれを迎えても可笑しくない時に入っています。
 トランプ氏が、キリスト教福音派等によって熱烈に支持されているのは、まさにキリスト教預言の通り、終末の大患難を超えて、神の国の到来を成就させる"切り札" とも、"トランペッター"とも目されているから。
 さて、この"17"という数は、実はキリスト教においてばかりではなく、日本の神道にとっても意味の深い数字になります。
 というのも、神道の基本の一つである禊ぎ祓えでは、大祓詞が大切にされ、瀬織津姫を初めとする「祓戸四神」が奏上されるのですが、祓えに関わる重要な神々の総数は本来、17神だったという伝承があり、本式の祓え禊ぎ祝詞においては「祓戸十七神」が奏上されることがあるからです。

 さしずめ、"Q"は、新しい時代を迎えるために必要な"禊ぎ祓え"の働きにも関係するということになるでしょう。
 また、"Q"は、Quantum mechanics(量子力学)、Quantum Computer(量子コンピュータ)、QFS-Quantum Financial System(量子金融システム)等、この度のアセンションに関わる社会的シフトアップにおいて、キーワードともなる「Quantum」の頭文字の "Q"でもあります。
 また、今一つの観方としては、"Q"は文字形体から見るなら"Q"自体が「カギ」を意味しているということ。 "Q"をひっくり返すと数字の"9"になります。これは、数霊としては最後のオメガを意味し、陽の極でもあります。
日本の"憲法9条"には「戦争放棄、不戦」が謳われますが、"Q"の文字そのものが、来るべき平和な社会への扉を開くための、最後の「カギ」に当たるという観方もできるでしょう。

九州人にとっては、Qの文字はなじみが多い。

 492

 357

816

 九州は、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の9邦に分割されていた。
上の正方形の数字配列は、方陣と呼ば、占い術につかわれるものだ。縦、横、斜めの合計がすべて15になる魔法陣である。
方陣と邦名を連ねて合わせると下記のようになる。
4肥前、3肥後、8薩摩、9筑前、5筑後、1大隅、2豊前、7豊後、6日向
本来の九州の語源は、古代中国の習慣が起源とされている。
昔の中国は、支配する土地を九つに区分して統治する習慣があったそうで、つまり『九州』とは古代中国の支配体制が語源とされている。

2022年1月25日火曜日

渡部陽一

2012年 1月25日

今日は戦場カメラマンの渡部陽一さんが福岡にきて講演したので聞きにいった。


講演といよりも例のスローペースの口調でしゃべりながら壇上を左右に動き回り、手振り身振りをいれた一人芝居のような舞台であった。

前半は戦場カメラマンになるまでの苦労:(省略)
後半は戦場の子供達の実情や新兵器:
おもにイラクでの写真で、極秘になっているが劣化ウラン弾による新生児の白血病、悪政腫瘍、異常体形などの発生、救急医師団のテロによる犠牲。
戦後再建された小学校での授業風景、机や椅子不足で床にすわったままでの学習状況、気温50度のなかで校舎掃除。
放課後のアルバイトは水運び、ロバタクシー、バナナ売りなど。
最近の戦場では無人飛行機による偵察や攻撃、ロボットによる地雷の調査や撤去などのハイテクが見受けられるそうだ。
結論は戦争のない世界にしたい。そのため相手国をお互いに知ることが出来るよう第三者が努力すること。戦争がなくなって学校カメラマンになることが夢だという。

最近10年ぶりにテレビでみたのは、学校ではなく、釣り人カメラマンとしての登場である。




2022年1月24日月曜日

ペルシア地域を支配した王朝:サファヴィー王朝

 ホラーサーンからメソポタミアに至る歴史的ペルシア地域を支配した王朝としては、サファヴィー王朝が、初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし、現在のイランとアゼルバイジャンイラク南部で、十二イマーム派が住民の大多数を占める状況を導いた。

1501~1736の長期にわたる王朝であった。

かつてはアラブテュルクモンゴルなどの異民族の支配を脱して数百年ぶりにペルシア人が建設した民族王朝としばしば説明され、十二イマーム派の採用もペルシア人の民族意識の高揚によるとの理解が一般的であった。





しかし、現実にはサファヴィー朝の勃興はトゥルクマーンと呼ばれるペルシア(現イラン・アゼルバイジャン)一帯に遊牧していたテュルク系遊牧民の軍事力に依っており、初期の国制もセルジューク朝から白羊朝までのペルシア諸王朝にみられたのと同様に遊牧民の有力部族が地方の封建領主として実権を握り、ペルシア人の官僚(タージーク)が文官として君主を支えるという体制から外れるものではない。

そもそも、初代君主であるイスマーイール1世自身も祖母をテュルク系王朝白羊朝の英主ウズン・ハサンの妹、母をウズン・ハサンの娘とするきわめてテュルク系の血筋の濃い人物であった。

この王朝が、牧草地帯であったイラン中央部に、長期にわたり山岳部より地下水道を建設して、農業地帯に改造した功績は大きい。

アゼルバイジャン共和国の歴史学会では、サファヴィー朝をイランを征服したアゼルバイジャン人王朝とみているほどである。

この王朝が十二イマーム派を採用したことでイラン、アゼルバイジャンなどにシーア派が根付き、これらの地域が他の地域から政治的・文化的に分かれた地域として、イラン国家、アゼルバイジャン国家に繋がる民族意識の基礎が築かれた。

十二イマーム派は、シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多い。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことによる。

地下水道の建設の理念は、シーア派の宗教理念と結びついており、建設継続の背景となったと思われる。


平成の年号

 平成の時代もあと僅かとなった。

当初は平和を願う良い元号と思っていたが、元号の使用漢字としては「平」は案外少ない。

天平、寛平、承平、仁平、平治の5回だけ。(このほかに南朝だけの正平がある)
1位の永は29回、2位の元、天は27回などと比べれば、下位に属する。
頭に平がつくのは12世紀の平治だけで、その後使用されなかったのはなぜだろうと考えてみた。
平治の乱で思い出すのは平家であり、朝廷との婚姻政策で生まれた安徳天皇の悲劇につながった。
その後「平」が選ばれなくなった理由ではなかろうか?
写真の説明はありません。
谷口 治、辻本 和子、他8人
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