2025年10月29日水曜日

水害防止設備

 新宮町では、豪雨のためアクア新宮の浄化施設が水没し、応急的な復旧事業に4億3700万円かかり、長期にわたる完全機能回復までには、概算総額は約45億円の巨額の見通しという。


新宮町は山地から海まで、細長い地形であり、江戸期築造の3本の天井川が、沖田地区の牟田川に集まる。町の主流湊川にくらべると、市販の街図には名前も記入されていない程度の川である。


高い位置の天井川から想定外の短時間大量降雨で低い位置の浄化処理施設に一気に流れ込んだのであろう。水だけでなく、流木や浮遊物なども流入するので、その防御装置がなかったのだろうか?


私は千早地区の衣川の地下道化工事を調べてみていた。衣川も名前を忘れられた側溝に近い小さな川である。





当初は地下への流入口には、何も防御装置がなかったが、国道3号線バイパスが出来るときには、下図のような流木や浮遊物を防止する頑丈な金属防止網が設置されている。


河幅は同じ程度だから、この装置を設置しておけば、被害は少なくてすんだのではないかと思うのだが、素人の推測にすぎないだろうか。

2025年10月28日火曜日

箱崎の家

 箱崎で私が育った家(妹の葬式の時の写真)



最近まで、3号線の店舗として存在していました。


現在は、隣にあったGCR(グローバル クリエイタ-アカデミー)の教育施設の新館に変わりました。




2025年10月23日木曜日

 「歴代総理大臣の出身地」 

一位「山口県(八名)」
二位「東京都(五名)」
三位、四位、五位
「広島、群馬、岩手(四名)」 
六位、七位、八位、九位
「鹿児島、岡山、京都、石川(三名)」
・・・・・
何と奈良県は初めてで、それも女性は憲政史上初めて.




2025年10月14日火曜日

箱崎の歴史研究者



 箱崎生まれ、箱崎育ちの歴史研究者二人の著書を紹介する。

古田鷹治


 

 昭和2年生まれ 昭和15 年箱崎小学校卒業  昭和19年 松山海軍航空隊入隊

 昭和20年 復員 九大農学部農学科事務員勤務  25年文部教官助手  

 平成2年 文部教官講師  平成3年退官  平成17年博多仁和加振興会7代会長

 箱崎町一光寺総代 平成20年永眠 80歳


山崎泰輔










明治36年生まれ。 大正7年箱崎小卒業。 大正13年野戦重砲兵隊第五聯隊現役入隊

昭和12年 志那事変応召 昭和21年 箱崎漁業組合理事 

昭和49年箱崎町長性寺総代 昭和54年箱崎宮祭典委員

2025年10月9日木曜日

博多・箱崎と豊臣秀吉

 博多・箱崎と豊臣秀吉

 福岡ボートの対岸に「舟入場跡の石碑」がひっそりとあります。



 戦国時代に九州平定をした豊臣秀吉は、箱崎から船を出して博多湾を周回しながら、焦土となった博多の再建策を練って、この場所から博多に入ったそうです。
 博多と豊臣秀吉は、他にも朝鮮出兵の際に米蔵を置いた事から「蔵本」と呼ばれる場所があります。また伴天連追放令を出したのは「筥崎宮」でです。他にも「太閤水」と呼ばれる豊臣秀吉が水を飲んだ場所も随所あります。

2025年10月5日日曜日

秋空で遠景も見えてきた

 

スマホの写真を拡大すると、SJR千早の12Fから、福岡タワー、ヒルトンホテル、PAYPAYドーム、義弟の住むネクサスなどが確認できた。


2025年10月4日土曜日

安楽死

医療技術の進展により、先進国では超高齢化社会となり、長寿社会への対応として安楽死がとりあげられ、すでにみとめられて国があります。 

安楽死が認められている国

  1. オランダ2001年に世界で初めて安楽死を合法化しました。医師が患者の要請に基づいて致死薬を投与することが認められています。厳格な条件を満たす必要があります。
  2. ベルギー2002年に安楽死法が成立し、オランダと同様に医師による致死薬の投与が認められています。精神的苦痛による安楽死も可能です。

  3. カナダ2016年に医師による安楽死が合法化され、特定の条件を満たす患者に対して実施されます。

  4. スイス自殺幇助が合法であり、外国人にも自殺幇助を提供する団体が存在しますが、医師による直接的な安楽死は認められていません。


  5. イギリス、フランスでも検討中らしいです。

安楽死の条件

安楽死が認められている国では、一般的に以下のような条件が求められます。
  • 治療法がなく、耐えがたい苦痛があること。
  • 患者の明確な意思確認があること。


  • 患者の意志確認の項目の例(6項目すべて2以下)

    医師による適切な処置が行われること。

    これらの条件は国によって異なるため、具体的な手続きや要件については、各国の法律や医療制度を確認することが重要です。
  • 安楽死に関する選択を考える際には、専門家への相談や情報収集が推奨されます。

保田 與重郎(保田 与重郎)

 保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年明治43年)4月15日 - 1981年昭和56年)10月4日)は、日本文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。

来歴

奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。

東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。1936年昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第1回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。1938年(昭和13年)「戴冠詩人の御一人者」で第2回透谷文学賞を受賞。更に亀井勝一郎中島栄次郎らと『日本浪曼派』創刊に関わり、太平洋戦争大東亜戦争)終了まで戦争を「正当化」し戦線の拡大を扇動する。

1948年(昭和23年)に公職追放。戦争中の論調から言論ばかりか、その存在が黙殺されるも1958年(昭和33年)に京都の鳴瀧に山荘「身余堂(しんよどう)」を構え、以後を同地で過ごした。

佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」とし、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛し、また、川端康成は「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。

1960年代後半から日本浪曼派が再評価されると同時に論壇に復権し、「祖国」を創刊する傍ら匿名で時評文を書いた。

1981年10月4日、肺癌のため京都市左京区の京都大学結核胸部疾患研究所(現・京都大学ウイルス・再生医科学研究所)附属病院で死去(71歳)。戒名は身余円融普周僉然大居士。

滋賀県大津市義仲寺の再建に尽力し、分骨の墓所は同寺にある。本来の墓所は、菩提寺から桜井市脇谷公園墓地に移されている。

たが代にか 祝いそめけむ 山かげの 神の祠の 夜半の かがり火

 棟方志功 昭和43年10月 かがり火の柵 の 短歌