2017年11月12日日曜日

古賀の地名と姓名(更新)

花鶴川河口
鹿部・田渕遺跡


古賀の地名の語源は、地形から2種類、行政から2種類と言われる。
地形からは、カガ(水平な低い土地)、クガ(少し高い陸地)。行政からは、空閑(未開発の空き地として所有した土地)、国衙(国の行政機関がおかれた土地)である。
古賀市の場合は、花鶴川河口に近い鹿部山周辺のクガに古賀村が出来て、小早川時代に117石の村だった記録がある。

その後席内村に吸収されて名前がきえるが、明治時代に鉄道の駅が出来て、古賀駅と命名され復活する。周辺の人口が増えて、席内・青柳・小野村の合併時に古賀町となり、現在の古賀市となった。
茨木県には古河市が存在している。

姓名の古賀も、筑前、筑後、肥前は古賀、肥後は古閑が多い。政治家、医師、音楽家など著名な古賀氏がいる。


玄海義塾頭の土師氏の調査では、1338年に古賀浦の地頭職になった少弐氏の子孫(5代の分家)少弐景治が、初めて地名をとって古賀氏を名乗り、その後この一族は少弐氏と共に戦国時代を闘い、肥前国にのがれて、1559年ころ滅亡したという。その末裔は武士をはなれて、医者などになったらしい。大分市在住の医師古賀家に伝わる家系図から判明したようだ。

古賀浦という場所は、上の地図や鹿部‣田渕遺跡の模型のように、花鶴川の河口付近で、古代は鹿部山の麓まで大きく入り込んだ入江で、最近まで鹿部大池もあった。
古代、平安時代までは、布津留、華津留、華鶴、花鶴と呼ばれていた。
何時から古賀浦と呼ばれたかは不明だったが、この古文書によれば鎌倉時代かららしい。
江戸中期には、堆積が進み、港の機能が失われて、漁業権を新宮・福間の浦に移譲している。
漁業権分譲書類
現在の河口
古賀氏の墓や仏閣が現在の古賀地区に残っていないか、今後の調査が必要だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿