2018年6月15日金曜日

古代の有明海周辺と徐福伝説

九州大学工学部真鍋大覚助教授が発表された「3500年前の九州北部」という古代九州の詳細な地形図がある。
3500年前の九州北部
 
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。

(黒い部分が陸地) 



その後河川による侵食によって平野部が広がり、海岸線はつぎの図のように時代とともに移動してきた。

今から2200年前、徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探す命を受け、日本へとやってきたという徐福伝説がある。
伝説によると、有明海の竜王崎にたちより、諸富町から上陸したことになっている。当時の海岸線(貝塚線:水位5~6m)なら、海中の場所だ。

ただし有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差があり、中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったと明確に指摘している。吉野ヶ里遺跡が当時からあったか否か、判明すれば面白いのだが。

彼の伝説では、不老不死の薬が主な調査対象になっているが、薬と限定せずに、日本の鉱山資源を幅広く調査して廻ったと思われる。

九州の中央構造線の北側には、金鉱床や炭田などが多く、これを狙って有明海に上陸したかもしれない。


しかし星野金山や鯛生金山などの金鉱発見までにはいたらなかったが、古湯温泉なども発見している。

また
日本で古来「(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物の発見は、不老不死の薬の逸話などから推測される。
丹生は丹が採取される土地を指す地名で、当時から存在していたよおうだ。


代表的な伝説:
浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町):
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから上陸し、盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになった。
徐福は上陸の証として「ビャクシン」の種を植えた。「ビャクシン」は元来暖かい地方の樹木で、国内に自生する例はほとんどなく、樹齢2200年と推定される古木は全国でも珍しく、新北神社の神木で現存している。
徐福は蓬莱山に似ている金立(きんりゅう)山に向うが、道は荒れ、歩くのに困難な状態で、布を敷き歩きやすくして進む。現在の佐賀市金立町千布に達した時、ちょうど千反の布を使いきったので、この地域を「千布(ちふ)」と呼ぶようになった。
金立山の西にある富士町古湯温泉は徐福が見つけた温泉と言
われている。
徐福は湯が湧き出るのを見つけ、庵を建て、湯守りとなつた。

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