2025年10月4日土曜日

安楽死

医療技術の進展により、先進国では超高齢化社会となり、長寿社会への対応として安楽死がとりあげられ、すでにみとめられて国があります。 

安楽死が認められている国

  1. オランダ2001年に世界で初めて安楽死を合法化しました。医師が患者の要請に基づいて致死薬を投与することが認められています。厳格な条件を満たす必要があります。
  2. ベルギー2002年に安楽死法が成立し、オランダと同様に医師による致死薬の投与が認められています。精神的苦痛による安楽死も可能です。

  3. カナダ2016年に医師による安楽死が合法化され、特定の条件を満たす患者に対して実施されます。

  4. スイス自殺幇助が合法であり、外国人にも自殺幇助を提供する団体が存在しますが、医師による直接的な安楽死は認められていません。


  5. イギリス、フランスでも検討中らしいです。

安楽死の条件

安楽死が認められている国では、一般的に以下のような条件が求められます。
  • 治療法がなく、耐えがたい苦痛があること。
  • 患者の明確な意思確認があること。


  • 患者の意志確認の項目の例(6項目すべて2以下)

    医師による適切な処置が行われること。

    これらの条件は国によって異なるため、具体的な手続きや要件については、各国の法律や医療制度を確認することが重要です。
  • 安楽死に関する選択を考える際には、専門家への相談や情報収集が推奨されます。

保田 與重郎(保田 与重郎)

 保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年明治43年)4月15日 - 1981年昭和56年)10月4日)は、日本文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。

来歴

奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。

東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。1936年昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第1回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。1938年(昭和13年)「戴冠詩人の御一人者」で第2回透谷文学賞を受賞。更に亀井勝一郎中島栄次郎らと『日本浪曼派』創刊に関わり、太平洋戦争大東亜戦争)終了まで戦争を「正当化」し戦線の拡大を扇動する。

1948年(昭和23年)に公職追放。戦争中の論調から言論ばかりか、その存在が黙殺されるも1958年(昭和33年)に京都の鳴瀧に山荘「身余堂(しんよどう)」を構え、以後を同地で過ごした。

佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」とし、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛し、また、川端康成は「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。

1960年代後半から日本浪曼派が再評価されると同時に論壇に復権し、「祖国」を創刊する傍ら匿名で時評文を書いた。

1981年10月4日、肺癌のため京都市左京区の京都大学結核胸部疾患研究所(現・京都大学ウイルス・再生医科学研究所)附属病院で死去(71歳)。戒名は身余円融普周僉然大居士。

滋賀県大津市義仲寺の再建に尽力し、分骨の墓所は同寺にある。本来の墓所は、菩提寺から桜井市脇谷公園墓地に移されている。

たが代にか 祝いそめけむ 山かげの 神の祠の 夜半の かがり火

 棟方志功 昭和43年10月 かがり火の柵 の 短歌

2025年9月28日日曜日

大学湯が文化遺産に(改訂版)

 福岡市東区に九州大学が存在していた頃、学生を対象にした「大学湯」が、近くにありました。



大学が西区に移転したあと、一般家庭は内湯の時代になり、大学湯は廃業になりました。

その施設を、文化遺産として、地区の社交場に改造されたことは、FBなどで認識していました。

NETに出ている大学湯の場所は間違っているので、正確な地図を添付していきます。





今日,千早の「なみきスクェア」に、「銀ソーダ作品展」をみにでかけたら、アーティスト 銀ソーダさんが、旧大学湯の建物保存活用プロゼクトの運営管理でも大きな活動をされていることを知りました。

彼女の「記憶と時間の可視化」をテーマに、青を基調とした記憶の海は、「Ginsoda Bulue」と呼ばれている。

絵具の層からは、日々の積み重ねが何かの形となり、人生の軌跡のようなものを感じられます。


大学湯の壁画にも、そのGinsoda Bulueの模様がとりあげられています。






構図を構想中の作家


銀ソーダさんは、箱崎の出身で、親子3代大学湯の愛用一家だったそうです。だから仲間が大勢いて、ハコザキ ブループリント プロゼクトが結成されています。



大学湯の活動には、このプロゼクトのメンバーも活躍しているようです。

私も小学生のころは、よく大学湯を利用していました。

大学生の会話を聞きながら、大学での勉強はどんなものかと興味を持つようになりました。

ある時、一人の学生が、「昨日出されてテーマのレポートを、30枚の回答にまとめてた」と友達にはなしているのを聞いて、驚いた記憶があります。

小学生の宿題なら、問題ごとに数行の回答が普通ですから、大学は大変なところだとかんじました。

大学湯のGinsoda Blueは、そんな記憶を思いださせます。

銀ソーダさんも祖母、母、本人と、3代も大学湯を利用を利用されていたようで、ソーダの名前も本名の化学分子記号が、炭酸ソーダににているからだそうです。

彼が、私が勤めていた九州産業大学の卒業生であることも、親近感を感じさせられます。

この「大学湯」という銭湯は明治43(1910)年春に箱崎浜、現在の筥崎宮・交通安全祈願殿がある場所に開業した潮湯「抱洋閣」の運営が「大学湯」だったことは、絵葉書の画面や諸資料から連想されます。

 個人的に、抱洋閣の「大学湯」が現在地へ移転したのが昭和7年頃なのだと思っています。 状況証拠として、昭和7年というのは国道2号線(現・3号線)開設に合わせて箱崎浜が埋め立てられ、国道に半分掛かっていた抱洋閣や箱崎水族館が閉鎖される時期。 抱洋閣の建物跡は、私の子供のころの遊び場所でありました。



箱崎八幡宮の参道で、200mの長い道路図「BLUE WAY」を描かれたことも、地元讃歌として有難いです。



ちなみに抱洋閣の設計は、東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾博士です。

アーティストの目線でまちの文化遺産が進化する。お湯はないけど温かい「大學湯」プロジェクト | フクリパ





2025年9月27日土曜日

壇ふみの母、壇ヨソ子

 母、檀 ヨソ子さんの人生

「だんよそこ」。大正11年、福岡県瀬高町に生まれる。
旧姓山田。生家は造り酒屋だった。柳川高等女学校卒業後、職業軍人と見合い結婚するが、出征した夫は戦死。ヨソ子は実家に戻り、終戦を迎える。
先妻を結核で亡くし、柳川市で遺児と二人暮らしだった作家の檀一雄と、昭和21年に見合い結婚。まもなく。一家で上京する。
その後、二男二女を出産。次男が5歳のとき日本脳炎から重度の心身障害に罹り寝たきりとなり、10年間看病に明け暮れるが、次男は15歳で他界する。
家事、五人の育児を一人できりもりしながら、夫の執筆の口述筆記をするなど作家の妻としても献身的に立ち働く。






晩年、一雄が体調を崩してからは、夫婦だけで福岡県能古島(のこのしま)に移り住む。
昭和51年、肺ガンに倒れた夫を見送る。
東京・石神井の自宅で、ふみ、さとら娘二人と暮らした。2015年4月24日に92歳で逝去。

「私は九州工大に勤務していた頃、ヨソ子さんの妹さんで、瀬高町の豪農に嫁がれた方の娘さん(壇ふみさんの従妹)を、九州工大の卒業生で、TOTOのエンジニア―に紹介し、仲人を務めた縁がある。ふみさんによく似た美人であった。
壇一雄は、旧制福岡高校の先輩であり、彼が最初の結婚をしてまもない頃の『リツ子・その愛』『リツ子・その死』などは、ラジオ小説で聞いていたので、能古島に移り住んだ頃は、ニュースに興味をもっていた。
肺癌で九大病院に入院した時は、私の義父の入院部屋の隣が彼の病室であった。」

2025年9月20日土曜日

福岡高校と小田和正?

 今年も福岡県高校OB/OAのゴルフ大会が、和白ゴルフ場で開かれた。もとメンバーなのでコースの思い出を楽しみながら、TVをみていた。

福岡高校のティームが登場して、いきなり「DA!!OH!!」のタオルを広げたのに、驚いた。


私も同じタオルを持っているからだ。


20年前位の同窓会で配られたタオルなのだか、「DA!!OH!!」の意味は今まで知らないままであった。

テレビでの説明では、1991年に大ヒットした、小田和正の「ラブストーリーは突然に」という歌を、当時の幹事さんが、OH DAを逆にして、DA! OH!にしたらしいという説明であった。

その他、新緑、千代 玄冬 立花 福高讃歌 などをローマ字で記載している。

福高昭和44年卒のチームによりつくられたタオルである。

戦前の卒業生である私の世代では、小田も知らないし、ラブストーリも知らないが、小田が建築工学を専攻した青年であったという経歴を知って、驚いている。

今回のゴルフ大会優勝は、大濠高校で、福高チームはほとんど賞品に縁がなく、バレーボール部100周年で出場しった記念賞だけだったのは、残念であった。



2025年9月14日日曜日

冷泉と今泉

 最近たまたま、冷泉町出身の人と、今泉町出身の人に出会った。福岡市の博多区と中央区の差があるが、文字がよく似ているので、混同しやすい。

地名の歴史を調べてみると、古代の博多湾には大きな入江があって、冷泉津と呼ばれていたので、冷泉は古くから博多の広い範囲を含んでいたようだ。その後の町の発展で新しい町名が増え、冷泉小学校も統合されて博多小になり、冷泉小の跡地は地下鉄工事で発見された古代遺跡を展示するための「博多遺跡」を作る計画が進行している。

今泉町の地名は、福岡の中心の天神と、南側の薬院の間に小規模の池あり、今泉池とよばれていたことから、地名になったようだ。田園地帯であったが、黒田の福岡城周辺の寺院地帯となり、多くの寺院がならび、その後天神地区の発展の余波をうけて、街の様子も急変している。

ながく福岡を離れていた身として、二人から近況を聞き、昔を思い出している次第である。

2025年9月12日金曜日

補聴器の技術

 高齢になると、高周波の音が聞こえなくなる。

単に音が聞こえなくなるのであれば、音響拡大装置をつければよいが、これでは雑音まで拡大されて、使えない。

デンマークなどの北欧州の言葉は、子音が多いので、高周波の研究が進み、補聴器の開発も世界の最先端を走ってきた。

Oticon, Widexなどがその例である。この2社で世界の50%を超えているようだ。

日本では高価な補聴器になり、30万円位で2年間保障である。

問題は老人が使用するので、メンテナンスの継続が出来にくいことである。

耳垢により、補聴器の通路の詰りを、2週間に一度掃除すること。

湿気による音響機器の能力低下を防ぎ、乾燥させること。

騒音レベルに応じて、受信レベルの調整を行えること。

などの機能が追加され、最近は使いやすくなってきている。

日本国内のメーカーも早く性能向上を行って、もっと安価なレベルで製品化してもらいたい。


日本景気の再生

1)昭和40年下半期より45年7月まで:いざなぎ景気 

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機からカラーテレビ、自動車、クーラーの時代)

2)平成3年(1991年)9月24日:いざなぎ景気を超える。

(天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ソ連消滅の時代)

3) 平成18年(2006年)11月22日:いざな景気超えと発表。

(小泉・安部内閣で、58ケ月経済拡大)

その後の景気低迷を予測していた堺屋太一さんは、2000年頃、生産体制の強化や教育体制の見直しを強調していた。

日本の強みは経済大国ではなく、生産大国(ものづくり大国)だから、生産に興味をもつ若者の育成が必要であるが、ソフトや芸術の分野に若者の興味が移った。

しかもマスコミは、生産現場は、「きつい、きびしい、帰れない、結婚できない」など4Kを強調し、大学入学者の工学部離れが進行した。

1990年頃60万人以上だつたが、最近は27万人にどどまった。

製品のブラックボックス化で内部構造がわからなくなり、少年期からものづくり触れる機会がなくなり、起業に入ってから新技術に追いつくのが大変になっている。

NHKの「プロジェクトX」に登場する多くの技術者たちは、現役を退職したあとの「遅すぎる評価」の番組である。

ものづくり企業の労働組合幹部も、経営側と協力して、子供たちを対象にした「ものづくり教室」を全国展開しようと準備しているそうだ。


2025年9月9日火曜日

「萱町」となった名島城下町

 ワスレグサ(忘れ草、学名:Hemerocallis fulva)は、ワスレグサ属多年草の一種。別名で、カンゾウ(萱草 )ともよばれる 。

江戸時代に、黒田長政が筑前にはいり、名島城をすてて福岡城を建造した。

正保年間の地図によれば、名島の城下町は廃墟となったため、「萱町」と呼ばれていた。その東は「松崎村」、南は「箱崎村」、北は「秋山町」であった。



元禄14年の地図では、名島村になっている。

名島町の住人は、博多の中洲を超え、橋口町の西の上名島町、下名島町に移り住んで、名島町の名前は、福岡城の近くに存在していたが、現在はまた消滅している。




2025年8月12日火曜日

杉原千畝の若い頃の業績

杉原千畝は、「政府の命令に反して、ユダヤ人に約6,000枚の日本通過ビザを発給した外交官」として広く知られているが、若い頃に、ソ連との北満州鉄道譲渡交渉に携わり、功績を挙げていたことはあまり知られていない。

1932年(昭和7年)3月、事実上の日本の傀儡国家として満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。

1933年(昭和8年)、満洲国外交部の書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉に携わる

満洲国外交部は、鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示した。

ソ連側は譲渡の代償として当初は荒唐無稽な6億2,500万円を要求し、満洲国は5000万円を提示していた。

杉原らは、譲渡の代償として1億4,000万円とソ連側従業員の退職金3000万円を満洲国が負担することで北満鉄道讓渡協定締結し、東清鉄道は満洲国に買収された

ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原らによる有利な譲渡協定の締結は外交的勝利であった

外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせりという記述が見られる。

2025年8月10日日曜日

古賀市にも大雨警報

 8月10日大根川庄橋の水位グラフ。(この落合地区は昔の水害地区)

18:00頃、3mの氾濫危険水位まで上がったが、あと落ち着いている。




11日 9:00 その後は安定状態。






[千早]の語源 いろいろ

 ◎「ちはや(襷襅)」

「いちはや(いち早)」。「い」の脱落。「いち」は進行感を表現する「い」による、「いたり(至り)」その他になる、動詞「いち」の連用形。「はや(早)」は「はやし(早し)」の項。 「いちはや(いち早)」は、表現としては「いきはや(行き早)」に似ている。

進行が早い。事態の成行が早い、ものごとが効率よく進む、もの、の意。

服の袖を働きやすくまとめるものであり、巫女などが雑事的なことをする際に用いる「たすき(襷)」です。後には、同じような目的の仕事着(外出着?)も「ちはや」と言う(巫女の衣裳と言えば、上白、下赤がよく知られますが、あれの上に羽織るように着るものです)。

千早 (ちはや・ 襅)とは、 日本 において古くから 神事 の際に用いられた衣装で、主に女性が着た。 

古代の 貫頭衣 の名残とされる。 



現代では 小忌衣 の一種とされ、身二幅・袖一幅、脇を縫わず衽(おくみ:着物の前身頃に重なる部分)がない以外は通常の単物の和服に似た形態をとる。 袖は縫わずに 紙縒 で止めるのは、もともと袖がなかった名残である。

在原業平の「ちはやふる 神代もきかず 竜田川  からくれなゐに 水くくるとは」という歌

  • 「ちはやふる」:神にかかる枕詞で、勢いの激しいことを表します。
  • 「神代」:神が治めていた時代を指します。

千早振る』(ちはやぶる / ちはやふる)は、古典落語の演目で、千早は花魁の名前。

『ちはやふる』は、末次由紀による日本女性漫画。『BE・LOVE』(講談社)において2008年2号 から2022年9月号まで連載された 。連載終了後、同誌同年12月号にて千早たちの卒業後の瑞沢かるた部を花野菫をメインとした展開で描いた番外編「はなのいろは ちはやふる番外編」が掲載された 。
競技かるたを題材とした少女漫画。本作の主人公は名人・クイーンを目指す少女・綾瀬千早。


千早城

鎌倉時代末期、幕府を倒すため後醍醐天皇方の楠木正成が金剛山一帯に赤坂城(下赤坂城)・楠木城(上赤坂城)などからなる城塞群を築き、本城の上赤坂の背後に築いた詰城が千早城。

千早川の渓谷を利用し、三方を絶壁で囲まれた山城で、背後には金剛山が控える要害の地。尾根上に配置された13の曲輪と、尾根につながる稜線上に配置された9の曲輪で構成されている。1333年(元弘3・正慶2)1月28日、20万の鎌倉幕府軍は進軍を開始し赤坂城が落城。楠木城は1ヶ月の籠城戦を行ったが水を絶たれ落城。残すは1,000人ほどが籠城する千早城のみとなったが、寄手に大石や大木を投げ落とし矢を射かけるなどの奇策や、夜襲と徹底的なゲリラ戦にあい、寄手は多数の死者を出し続けた。籠城は100日にもおよび、幕府軍が千早城に釘付けとなっている間に、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれることとなった。

          香椎と千早




御神木・綾杉の石碑「ちはやふる」
- 福岡市東区香椎宮 -
     「千早ふる 香椎の宮の綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり」
 香椎宮の狛犬を抜け、石段を上ると朱塗り囲いの大杉があります。この木は香椎宮の象徴、パワースポット・御神木「綾杉」(あやすぎ)です。綾杉は炎上や台風などで何度も倒れた記録がありますが、その度に新樹が生れ出て成長したと言われています。まさしく神の木であり、この木の下に立つと生命のパワーを感じます。木の前に綾杉を詠んだ「千早ふる」の石碑があります。鎌倉時代に編集された「新古今和歌集」の歌の一つですが、残念ながら詠み人知らずで作者は分かりません。

2025年8月5日火曜日

戦後80年の記憶

戦後80年で、大勢の人の記憶が報道されている。大正15年生まれの私の記憶をまとめてみる。

日米開戦は旧制福岡中学校3年生の時で、軍事教練が強化されたが、もう不安のほうが強かった。

旧制福岡高校では3年の制度が2年に短縮され、夏休みもなく、学徒動員では佐世保海軍基地の弾薬庫工事や三菱化成工場のプラスチックガラス工場での作業に動員された。

徴兵検査も1年は早く実施され、乙種合格となったが、兵役は理系学生のため延期されて、九州帝国大学入学を許された。

大学では、百武元海軍大将が総長となり、海兵式敬礼を要求し、3年を2年間に短縮するという計画で、休日なしで授業が開始された。

沖縄陥落、福岡大空襲と続き、自宅も少し被害をうけた。
その後、広島、長崎の原爆投下とつづき、ついに無条件降伏の敗戦となる。

8月9日は、小倉から長崎に移動する原爆搭載のB29が福岡上空を通過する時も、空襲警報は出ていたが、講義は継続されていた。



長崎原爆投下の直前に落とされたら落下傘爆弾(ラジオゾンデ)を、翌日九州大学で分解調査することになり、その作業に参加したのが、貴重な体験であった。




敗戦直後、西部軍の貯蔵食糧を市民に分配する夜間作業にも動員され、徹夜作業をした。

敗戦後、教師も学生も混乱状態となり、2ヶ月の特別休講となった。

特別休講中、香椎の千早に出来た「米軍キャンプ基地」の作業員に、地元隣組から動員されて、2ヶ月ほど働いた。少し英語が話せることから、PXでの食品の整理作業であったが、比較的楽な仕事で、米語の勉強にもなった。

古賀市でも、戦後80年特集展が開かれている。中会議室では原爆とその被害の展示が、今年は大きく展示され、その一廓で、私が去年の冬に講演した「原爆とラジオゾンデ」のビデオが上映されている。






毎日新聞では紹介されたそうだ。

2025年8月4日月曜日

100歳の回想


 7月26日の玄界義塾での講演を無事終えてほっとしています。猛暑の中予想以上に参加者が多く、有難く思っています。準備した資料が多すぎて、説明したのは5,60%で時間切れでしたが、要点はほぼ話せたと思います。後半の資料を、もう一回話したらという意見も出ましたが、やがて老人ホームに引っ越すので、その後の体調次第になりそうです。無事に満100歳を迎えたら、話すことを考えましょう。

86歳がの時の玄界義塾講話
と今回の講話で、安川電機と古賀の関係にふれた。古賀に安川従業員のために作られて小さな住宅団地がある。戦時中に安川電機は、工場の疎開地として6万坪の土地を購入していたが、敗戦になり返還した。その後住宅公団などに転売されたが、その売れ残りが住宅団地になったらしい。疎開地があった証拠として、市の図書館横の駐車場の道路の側に、安川所有地の杭が残っている。