福岡市東区に九州大学が存在していた頃、学生を対象にした「大学湯」が、近くにありました。
大学が西区に移転したあと、一般家庭は内湯の時代になり、大学湯は廃業になりました。
その施設を、文化遺産として、地区の社交場に改造されたことは、FBなどで認識していました。
NETに出ている大学湯の場所は間違っているので、正確な地図を添付していきます。
今日,千早の「なみきスクェア」に、「銀ソーダ作品展」をみにでかけたら、アーティスト 銀ソーダさんが、旧大学湯の建物保存活用プロゼクトの運営管理でも大きな活動をされていることを知りました。
彼女の「記憶と時間の可視化」をテーマに、青を基調とした記憶の海は、「Ginsoda Bulue」と呼ばれている。
絵具の層からは、日々の積み重ねが何かの形となり、人生の軌跡のようなものを感じられます。
大学湯の壁画にも、そのGinsoda Bulueの模様がとりあげられています。
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構図を構想中の作家 |
銀ソーダさんは、箱崎の出身で、親子3代大学湯の愛用一家だったそうです。だから仲間が大勢いて、ハコザキ ブループリント プロゼクトが結成されています。
大学湯の活動には、このプロゼクトのメンバーも活躍しているようです。
私も小学生のころは、よく大学湯を利用していました。
大学生の会話を聞きながら、大学での勉強はどんなものかと興味を持つようになりました。
ある時、一人の学生が、「昨日出されてテーマのレポートを、30枚の回答にまとめてた」と友達にはなしているのを聞いて、驚いた記憶があります。
小学生の宿題なら、問題ごとに数行の回答が普通ですから、大学は大変なところだとかんじました。
大学湯のGinsoda Blueは、そんな記憶を思いださせます。
銀ソーダさんも祖母、母、本人と、3代も大学湯を利用を利用されていたようで、ソーダの名前も本名の化学分子記号が、炭酸ソーダににているからだそうです。
彼が、私が勤めていた九州産業大学の卒業生であることも、親近感を感じさせられます。
この「大学湯」という銭湯は明治43(1910)年春に箱崎浜、現在の筥崎宮・交通安全祈願殿がある場所に開業した潮湯「抱洋閣」の運営が「大学湯」だったことは、絵葉書の画面や諸資料から連想されます。
個人的に、抱洋閣の「大学湯」が現在地へ移転したのが昭和7年頃なのだと思っています。 状況証拠として、昭和7年というのは国道2号線(現・3号線)開設に合わせて箱崎浜が埋め立てられ、国道に半分掛かっていた抱洋閣や箱崎水族館が閉鎖される時期。 抱洋閣の建物跡は、私の子供のころの遊び場所でありました。
箱崎八幡宮の参道で、200mの長い道路図「BLUE WAY」を描かれたことも、地元讃歌として有難いです。
ちなみに抱洋閣の設計は、東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾博士です。
アーティストの目線でまちの文化遺産が進化する。お湯はないけど温かい「大學湯」プロジェクト | フクリパ