香椎浜線道路の幅はなぜこんなに広いのか?疑問をもつ人も多いでしょう。
左右に自動車道路があり、中央に芝生を植えた並木道路があります。
この地区は、埋め立て前は香椎潟の海中でした。そして衣川が流れこんでいました。
埋め立て計画では初期の場所で、東邦電力が石炭の燃えた滓を利用した埋め立てを実行した範囲で、香椎浜線の南までうめたて、そこに道路をつけました。その道路のよこには、衣川の水が流れていました。
だたし、3号線より上流部分は水量も少ないので、道路のしたの水路となりました。
香椎浜線道路の幅はなぜこんなに広いのか?疑問をもつ人も多いでしょう。
左右に自動車道路があり、中央に芝生を植えた並木道路があります。
この地区は、埋め立て前は香椎潟の海中でした。そして衣川が流れこんでいました。
埋め立て計画では初期の場所で、東邦電力が石炭の燃えた滓を利用した埋め立てを実行した範囲で、香椎浜線の南までうめたて、そこに道路をつけました。その道路のよこには、衣川の水が流れていました。
新宮町では、豪雨のためアクア新宮の浄化施設が水没し、応急的な復旧事業に4億3700万円かかり、長期にわたる完全機能回復までには、概算総額は約45億円の巨額の見通しという。
新宮町は山地から海まで、細長い地形であり、江戸期築造の3本の天井川が、沖田地区の牟田川に集まる。町の主流湊川にくらべると、市販の街図には名前も記入されていない程度の川である。
箱崎生まれ、箱崎育ちの歴史研究者二人の著書を紹介する。
古田鷹治
昭和2年生まれ 昭和15 年箱崎小学校卒業 昭和19年 松山海軍航空隊入隊
昭和20年 復員 九大農学部農学科事務員勤務 25年文部教官助手
平成2年 文部教官講師 平成3年退官 平成17年博多仁和加振興会7代会長
箱崎町一光寺総代 平成20年永眠 80歳
山崎泰輔
明治36年生まれ。 大正7年箱崎小卒業。 大正13年野戦重砲兵隊第五聯隊現役入隊
昭和12年 志那事変応召 昭和21年 箱崎漁業組合理事
昭和49年箱崎町長性寺総代 昭和54年箱崎宮祭典委員
博多・箱崎と豊臣秀吉
医療技術の進展により、先進国では超高齢化社会となり、長寿社会への対応として安楽死がとりあげられ、すでにみとめられて国があります。
安楽死が認められている国
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。
奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。
東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。1936年(昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第1回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。1938年(昭和13年)「戴冠詩人の御一人者」で第2回透谷文学賞を受賞。更に亀井勝一郎・中島栄次郎らと『日本浪曼派』創刊に関わり、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで戦争を「正当化」し戦線の拡大を扇動する。
1948年(昭和23年)に公職追放。戦争中の論調から言論ばかりか、その存在が黙殺されるも1958年(昭和33年)に京都の鳴瀧に山荘「身余堂(しんよどう)」を構え、以後を同地で過ごした。
佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」とし、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛し、また、川端康成は「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。
1960年代後半から日本浪曼派が再評価されると同時に論壇に復権し、「祖国」を創刊する傍ら匿名で時評文を書いた。
1981年10月4日、肺癌のため京都市左京区の京都大学結核胸部疾患研究所(現・京都大学ウイルス・再生医科学研究所)附属病院で死去(71歳)。戒名は身余円融普周僉然大居士。
滋賀県大津市の義仲寺の再建に尽力し、分骨の墓所は同寺にある。本来の墓所は、菩提寺から桜井市脇谷公園墓地に移されている。
たが代にか 祝いそめけむ 山かげの 神の祠の 夜半の かがり火
棟方志功 昭和43年10月 かがり火の柵 の 短歌
福岡市東区に九州大学が存在していた頃、学生を対象にした「大学湯」が、近くにありました。
その施設を、文化遺産として、地区の社交場に改造されたことは、FBなどで認識していました。
NETに出ている大学湯の場所は間違っているので、正確な地図を添付していきます。
今日,千早の「なみきスクェア」に、「銀ソーダ作品展」をみにでかけたら、アーティスト 銀ソーダさんが、旧大学湯の建物保存活用プロゼクトの運営管理でも大きな活動をされていることを知りました。
彼女の「記憶と時間の可視化」をテーマに、青を基調とした記憶の海は、「Ginsoda Bulue」と呼ばれている。
絵具の層からは、日々の積み重ねが何かの形となり、人生の軌跡のようなものを感じられます。
大学湯の壁画にも、そのGinsoda Bulueの模様がとりあげられています。
![]() |
| 構図を構想中の作家 |
大学湯の活動には、このプロゼクトのメンバーも活躍しているようです。
私も小学生のころは、よく大学湯を利用していました。
大学生の会話を聞きながら、大学での勉強はどんなものかと興味を持つようになりました。
ある時、一人の学生が、「昨日出されてテーマのレポートを、30枚の回答にまとめてた」と友達にはなしているのを聞いて、驚いた記憶があります。
小学生の宿題なら、問題ごとに数行の回答が普通ですから、大学は大変なところだとかんじました。
大学湯のGinsoda Blueは、そんな記憶を思いださせます。
銀ソーダさんも祖母、母、本人と、3代も大学湯を利用を利用されていたようで、ソーダの名前も本名の化学分子記号が、炭酸ソーダににているからだそうです。
彼が、私が勤めていた九州産業大学の卒業生であることも、親近感を感じさせられます。
この「大学湯」という銭湯は明治43(1910)年春に箱崎浜、現在の筥崎宮・交通安全祈願殿がある場所に開業した潮湯「抱洋閣」の運営が「大学湯」だったことは、絵葉書の画面や諸資料から連想されます。
個人的に、抱洋閣の「大学湯」が現在地へ移転したのが昭和7年頃なのだと思っています。 状況証拠として、昭和7年というのは国道2号線(現・3号線)開設に合わせて箱崎浜が埋め立てられ、国道に半分掛かっていた抱洋閣や箱崎水族館が閉鎖される時期。 抱洋閣の建物跡は、私の子供のころの遊び場所でありました。
箱崎八幡宮の参道で、200mの長い道路図「BLUE WAY」を描かれたことも、地元讃歌として有難いです。
ちなみに抱洋閣の設計は、東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾博士です。
アーティストの目線でまちの文化遺産が進化する。お湯はないけど温かい「大學湯」プロジェクト | フクリパ
母、檀 ヨソ子さんの人生
「だんよそこ」。大正11年、福岡県瀬高町に生まれる。