2012年6月15日金曜日

黒田藩の重臣と六端城



昨日は福岡市博物館の高山氏から、筑前に入国した黒田藩の防備と重臣たちの築城の話をきいた。


関ヶ原合戦後に筑前国福岡に入封した黒田長政は、国境を守る為に 六つの出城を七年かけてつくり、重臣を派遣した。 
六端城はすべて本城である福岡城より東側に設けられ、麻底良城を除いてはすべて豊前国との国境に構えられている。豊前を仮想敵国と考えた配置である。



1) 若松城:黒田二十四騎の一人三宅若狭守家義が三千六百石と代官領一万石で城主となり船手頭を務める。
 (洞海湾入口にあった島城のため、明治14年に削平され、昭和15年に爆破された。今の若戸大橋の下あたりにあった中ノ島。)
若松城模型
2)黒崎城: 黒田二十四騎の一人井上周防守之房が二万石を領して城主となる。街に近いので、今では夏に一夜城がつくられる。
黒崎城跡


3)益富城(大隅城): 黒田二十四騎の一人後藤又兵衛基次が一万六千石を領して城主となるも、その後出奔した。
(あと鷹取山城主であった母里多兵衛友信が移り益富城主となった。)

益富城跡
4)鷹取山城(直方) :黒田二十四騎の一人母里多兵衛友信が一万八千石を領して城主となる。
(益富城主後藤又兵衛基次が出奔した後は母里多兵衛友信は益富城主となり、代わって手塚孫大夫光重が鷹取山城主となる。)

5)麻底良城(朝倉): 黒田二十四騎の一人栗山備後守利安が一万五千石を領して城主となる。
麻底良城跡
6)松尾城(小石原城) :中間六郎右衛門統胤が二千五百石を領して城主となる。
松尾城跡




一国一城令がでたあとは、すべて廃城となり、荒れ果てていたが、最近草叢の中から発掘された石垣なども多い。

帰宅後に自宅の本で調べたら例外の人物がいた。
 古賀に近い津屋崎に、黒田二十四騎の一人黒田修理亮利則(養心:如水の義弟)が一万二千石で配置された。陣屋屋敷で港の管理をまかされ、如水もよく津屋崎を訪れたという。

晩年養心が体調をこわしたとき、家臣が病床の修理を元気付けようと、津屋崎の庄屋の娘お嘉代を殿の側にあげようとした。
お嘉代は恋仲だった廻船戸問屋の息子仙吉との別れをはかなみ、二人は津屋崎の海岸に身をなげた。 恋の浦の伝説をつくったのは黒田の重臣であった。
黒田養心屋敷跡
黒田養心屋敷跡説明板

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